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牡蠣フライと文章と才能と

2020年08月13日 | 読書
 川上未映子が訊き、村上春樹が語るという構成の『みみずくは黄昏に飛び立つ』(新潮社)からもう一つ。
 「伝える」から一歩進んで、何のために文章を書くのか考えてみたときに、ホーッ、ナルホドと思わず頷いてしまう一節に出会う。

 「とにかく僕はその文章を読んだらもう、牡蠣フライ食べたくてしょうがなくなってくるとか、あるいはその文章を読んだらもう、ビールが飲みたくてしょうがなくなってくるとか、そういう物理的反応があるのがとにかく好きなんです。そしてそういう技術にさらにさらに磨きをかけたいという強い欲があります。」

 世界の大作家が高邁なことを書くのではなく、牡蠣フライを差し出しながら自分のありのままの思いを表現している点が実に面白い。こんなふうに続く。

 「字面を見ているだけで、牡蠣フライが無性に食べたくなってくるような文章を書きたい。

 これを受けて、川上がこんなふうに評する。

 「牡蠣フライ超えの意志がある」

 村上は、さらにこう重ねる。

 「現実の牡蠣フライよりも、もっと読者をそそりたい。」



 川上はこんなふうにまとめるのだが、このストレートさには気後れしそうだ。

 「それは、文章の純粋な魅力だから」

 文章を書くことを生業にしている人たちは、その魅力をいかに発揮するかに心を砕いている。
 例えば、果物の生産者と比較を試みたときに、「見かけ」「味」「香り」「食感」などの要素と重なる。どのような種を植え、どのように育て、どのような実に育てるかを、作家という人種はやっているのだなあと想像する。


 「食べたくなる」とは限らないが、衝動を引き起こすような味を出す文章には、きっと何か仕込まれている。
 そこまでの一連を才能と呼ぶのかもしれない。