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罪深き一人の弁明②

2020年08月19日 | 読書
 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄 朝日新聞出版)の冒頭の4章までの題を再記し、ぐだぐだと書き進める。

1 「どっちですか?」のあやうさ
2 「言葉にできない」
3 要約という行為
4 「2+3=〇」「〇+〇=5」



 小田和正の名曲『言葉にできない』は、言葉にできない思いが誰にもあるということを言葉にし、あのメロディをあの声に乗せて、我々に伝えた。「♪言葉にできない」という詞に限らず、感極まった場合やまとまった形で言語化できない場合に、「言葉では言い表せない」「言葉がありません」自体がもはや常套句だ。


 そうした情感的な面では承知しながら、論理や伝達の場で言語化できないことは問題視される。著者が記す「わからないことを残す、わからないことを認めることが、他者の想像や放任や寛容の条件になる」という意味で、「言葉にできない」ことを否定したり、貶めたりする社会の危険性にはもっと留意すべきだと考える。


 「ずばり一言で」は、野口芳宏先生の指導におけるキーワードの一つである。だらだらと喋りたいことに任せるのではなく、流れに沿って言うべきことを明確にという話し合いのマナーであるし、同時に簡潔、明快を旨とする表現の習慣づけとも言える。こうした経験によって培われる表現力、理解力を疑いはしない。


 言語技術としてそれらを身につけ、仕事や暮らしに活かすことは価値がある。しかし現実社会の様々な事象は、要約で出来ているものなどない。報道等を中心に我々が接する要約とはあくまで「する側」に立ったものであり、簡単だからということで、要約を真実と受容しているような状況が、目の前に広がっている。



 日本の算数は「2+3=〇」だが、イギリスなどでは「〇+〇=5」を考えさせている…へええっと思ったのは前世紀の話だ。それは一つの答ではなく、複数解を求める教育への志向だった。その考えを教育の幅と捉えれば妥当だったと評価できる。ただ、想像力を養うことはそういうパターン化を促すことではない。


 著者は「本来、自由とは『〇+〇=〇』のことである」と記す。それが5と決められている意味に慎重でありたい。5が7であっても「利益」であっても、結論が先にありきの思考に慣れてはいけない。昔あった「1+1=」を「田」とするなぞなぞが持っていた、多様な見方や問題を見つける力こそ、今養いたい。