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ちょっと嬉しい半ちく野郎

2020年08月11日 | 読書
 外国人による日本という国及び日本人への辛辣な評価は珍しくない。その代表的な一つに、この本にも書かれているような「『自分ではない誰かがしてくれる』という気持ちが強い」という点が挙げられる。依存することが全て弱さではないが、多くの日本人は自らのその傾向を認めつつ、甘んじている。自分も、また…。


 『サコ学長、日本を語る』(ウスビ・サコ  朝日新聞社出版)


 著者は京都精華大学学長、アフリカ・マリ共和国で生まれ、中国留学を経て、90年に日本へ。日本語学校を経て京都大学で博士号を取得し、京都精華大学に勤め、2002年に日本国籍を取得している。経歴からだけでも想像できるように日本が好きでその良さを認めつつ、「なんでやねん」とツッコミを入れてくる一冊だ。



 やはり教育論に目がいく。サコ学長がこの本で語ることを、自分なりの視点でまとめてみると、総じて日本で重要とされるのは「深さ」であり「広さ」ではない、と括れるような気がする。典型的な例は日本にあるオタク文化と言っていいだろう。アニメを初め、評価の高い分野はそうした素地から生まれていないか。


 「趣味といったら、まるで専門家のような勢いになるので、ビックリする」とあった。確かにこの国の一断面だと思う。社会的な立場や業績とは違う領域においても「こだわり」を持って掘り下げている者を評価する意識は高い。茂木健一郎が「IKIGAI」という一冊で、日本人の特徴をまとめ上げたことを思い出す。


 解説で内田樹はいみじくもこう書く。「あれこれの分野について、ちょっとだけ興味があり、ちょっとだけ知っているという人は、日本社会では「半可通」とか「半ちく野郎」とか(略)呼ばれて、軽侮され」つまり、「中途半端な関心」を封じている社会、そんな教育になっている。その点をサコ学長は鋭く突いている。


 具体的な提言は「もっとだらだらしろ」ということ。もちろんそれを例えばメリハリという点で収めれば簡単に頷けるのだが、日本人にはかなり困難な課題かもしれない。先日書いた「退屈」のこともそうだし、時間に対する向き合い方そのものと結びつくはずだ。ただ、これ以上は、この「半ちく野郎」には言及できない(笑)