すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

夏の学びに向けて

2007年07月16日 | 雑記帳
 地域にある教育研究団体の役目は、規模の大小に関わらず二つあると常々考えている。
 一つは言うまでもなく参加する会員の学びということである。
 そして、もう一つはその地域における教育の振興という役目である。
 地域内の国語教育研究会に所属し、事務局や役員を長く務めている自分にとってその二つ特に二点目は忘れてはいけないことだと思っている。

 そんな気持ちで、一流の実践者・研究者を地元に招いて話を聞くことを続けてきた。
 初めは野口芳宏先生であった。
 あの会の素晴らしさは今でも忘れられない。

 そして、それから10年。
 野口先生の他に、上條晴夫先生、大内善一先生、阿部昇先生、鶴田清司先生…昨年の杉渕鉄良先生まで、各年度の役員の尽力もありながら継続できている。

 今年は、北海道から堀裕嗣先生をお招きする。

 文句なく一流の実践者である。一昨年ネットワーク集会で講座を拝聴したが、その折のめりはりのある流し方は今でも印象深い。
 一人でも多くの方に足を運んでいただければと思い、要項を転載する。

--------------------  
  
1 期 日  平成19年7月30日(月)

2 会 場  稲川農村環境改善センター ホール
           (湯沢市役所稲川支所に隣接)

3 テーマ  生き生きとした言語活動のある授業(仮)
         ~「読むこと」の基礎・基本~

4 講 師  堀 裕嗣先生(北海道札幌市立上篠路中学校教諭)

☆北海道教育大学卒、同修士課程卒。
 野口芳宏氏主宰の「鍛える国語教室」事務局。北海道の国語教員(小・中)による研究集団「ことのは」主宰。中学校の国語教諭として理論・実践ともに全国屈指の存在で ある。言語技術教育の視点と的確な現場感覚で斬新な実践を 提案している。2002年度には教育科学「国語教育」誌(明 治図書)に一年間連載。それに加筆したものが「絶対評価の 国語科テスト改革・20の提案」として出版されている。他 にも著書に「全員参加を保証する授業技術」「総合的学習を支え生かす国語科」「発信型授業で伝え合う力を育てる」(いずれも明治図書)など。この他にも学級経営に関するものを含め、これまでに約20冊の著書がある。

5 日程・内容
 9:30~ 9:50 受付
 9:50~10:00 開会行事
10:00~12:20 講座1 会員による模擬授業
12:20~14:00 昼食・休憩
14:00~16:20 講座2 堀裕嗣先生の講座
16:20~16:40 Q&A
16:40~17:00 閉会行事

6 参加費・資料代  1,500円
  *堀先生が本研修会のために準備してくださった約100ページの資料をお配りします。

7 申し込み
  校名・参加者名を明記して 下記事務局までお申し込みください(FAX・メール可)

  〒012-0055  湯沢市山田字土生原52
            山田小学校  阿 部 義 和
            TEL 0183-73-3016  
            FAX 0183-72-3834
             メール yamadaes@city-yuzawa.jp 
  締め切り  7月20日(木)

8 その他

 ○講座についての問い合わせ等は、研修部長 佐藤芳一
  (湯沢市立小野小 ℡0183-52-2263)までお願い致します。
 ○研修会終了後、懇親会を予定しております。
  会場…湯沢市内(当日お知らせします。)
  時間…午後6時00分より  
  会費…5,000円
------------------

それでも「そのときのエーくんのきもちをかけ」

2007年07月13日 | 読書
 再び『みんなで国語辞典!これも日本語』(大修館書店)より。

 「1 若者ことば」に続くのは「2 学校のことば」である。
 職業上非常に興味深いが、実際は「若者ことば 学校篇」というところだった。
 ただ、いくつかおもしろいことに気がつく。

 【ちょくさん(直三)】
  
 こんなふうに説明されている。
 「直角三角形」の略。主に有能な数学教師が好んで使用する。聞きなれない人には理解しにくい。
  
 この意味の投稿者はおそらく高校生だろうが、「有能な」という点にひっかかりを感じた。この通りであるにしても、そうでないにしても、つまり「省略・短縮」を使いこなす者は有能という意識がそこにあるのではないか。
 効率化、スピード化に価値を見い出す世の中、教育の一つの象徴…ちょっと大げさか。
 だから?二宮金次郎も【にのきん】と呼ばれるようになる。

 これは実に皮肉と思ったのが、次の語(というより文章だが)

 【そのときのエーくんのきもちをかけ(その時のA君の気持ちを書け)】

 国語科の常道的な発問の一つと言っていい言葉だ。
 この言葉は、次のように意味づけされている。

 誰にもわからないこと。どう考えても答が見つからず、本人しかわからないこと。

 なるほど。まさしくその通り…。
 この意味づけは、いわゆる「気持ちが悪いほど気持ちを問う」と言われた悪しき授業への抵抗とも言えるかもしれない。
 
 しかし、それはそれとしても、この言葉を「わからないこと」の喩えとして使うことは一面で、若者の弱さでもある。
 「人の気持ちはわからない」は真実だが、それが「わかるわけない」から「わかる必要がない」というように変化していかないとも限らない。

 問いの形は様々だと思うが「気持ちを問う」ことをあきらめてはいけない。
 それによって、他者に近づいていくことを忘れてはならない。 

無敵パワーの弱まる現実

2007年07月12日 | 雑記帳
 朝のテレビニュースを見ていたら「無敵パワー」というキャッチフレーズをアナウンサーが言った。
 何を想像させたいのかと画面に目をやると、ある女流カメラマンの写真展。
 テーマになっているのが、「小学生男子」である。

 「小学生男子」の「無敵パワー」の様子が、生き生きと写し出されていた。
 ふざけたつくり顔をする子、カメラに向かって何かを投げつける子、変なポーズで遊んでる二人…
 関西地区の都市部らしいが、なかなかの出来ばえであることが画面を通しても伝わってきた。

 さて、小学生男子と無敵パワー。結びつきがわからぬわけではないが、身の周りの現実はどうだ。
 最近、私が籍をおいた小学校ではとみに女子の活躍が目立つ。校内生活でも圧倒的に女子優位と感ずるのは、私だけだろうか。先日も職場でそんな話題が出たばかりだ。(世の中全体にそうだと言ってしまえば簡単なのだが)

 テレビの中の言ってみれば「馬鹿らしい」(アホらしい)姿が、無敵パワーと考えると、学校という機関はどうもその馬鹿らしさに歯止めをかけてきたように思う。「くだらない」「何やっているの」という言葉とともにおふざけ姿は徐々に表面化しなくなった。

 それは明らかにパワーをなくさせる行為であったこと。いわばオスとしての勢いがそこで止められてしまったと言えばいいすぎだろうか。
 それが、学業や生活全般に何か影響はしていないだろうか。
 馬鹿げたことをやっているエネルギーは、放出されるだけでなく内なるエネルギーとなって再生産され、それが勉強する力だったり、スポーツをする力になったりしたのではないだろうか。

 かつて車に石を投げつけたりする悪ガキどもの姿はなく、知らない車が近づいてくるとおびえてふるえているような小学校男子が多くなってきた。そのうえしっかりナンバーなどを覚えていたりする。
 無敵パワーとはあまりにもかけ離れた現実を、どう受け止めるか。
 もっと真剣に考えてみなければいけない。

痛快!石川くん

2007年07月09日 | 読書
 と言っても、あの「ハニカミ王子」のことではない。
 私の知り合いの石川という人のことでもない。

 特殊歌人?枡野浩一のエッセイ集『石川くん』(集英社文庫)を読んだ。
 2001年に「ほぼ日」ブックスとして単行本として発刊されたらしい。
 さすが「ほぼ日」である。さすがの枡野浩一である。
 四コマ漫画や名作といわれる映画、小説、芝居などの「短歌化」で、笑える才能を持つ枡野の真骨頂が発揮されている本である。

 取り上げているのは「石川くん」。
 つまり?石川啄木。
 あの啄木の短歌を「短歌化」いや「現代語訳」そうでもない、言ってみれば「枡野化」しようという試みなのである。

 啄木については、教科書程度の知識しか持ち合わせていない自分にも十分楽しめる。
 たとえば、誰でも知っているあの歌

 たはむれに母を背負ひて
 そのあまり軽きに泣きて
 三歩あゆまず

は、こう枡野化されている。

 冗談でママをおんぶし
 あまりにも軽くてショック
 三歩でやめた

 多くの設定は、啄木の歌や歩んだ人生を現代に置き換えたような形で茶化すというパターンではある。それゆえ啄木ファンや岩手を愛する方々には顰蹙ものではあろうが、実に伸び伸びとあっけらんかんと書かれてある。
 枡野化された歌と、「石川くん」に宛てた手紙文形式のエッセイがセットになって10回分、そして最後につけられた啄木の年表(もちろん解説つき)がまた笑える。

 この痛快さは何かと考えてみたとき、二つのことが浮かんだ。
 一つは、古語、文語の持つ意味の大きさを現代語訳として歌にするには、思い切りが必要だということ。それはかなり限定された解釈という危険性を伴うのだが、本質をとらえないと響かないだろう。
 もう一つは、これは改めて思うことだが、権威のある世間的評価の高いものを鵜呑みにしないことである。啄木もいわゆる「薄幸の歌人」的な見方が強いはずだが、その生活や行動たるやだらしなさを絵に描いたような人生であるようだ。「はたらけど」の歌は実に有名であるが、実は啄木はあまり働いていないという事実に改めて気づいたりする。

 これは、新しい形の評伝だなと感じた。
 枡野の手法の斬新さもあるし、正直その徹底的なこき下ろしぶりによって、啄木の魅力がまた増したような気にもなっている。
 よくある肖像写真への落書きも、巻末にあるゆえかことさらに可笑しい。
 
 




若者ことばの大胆さは「パ」じゃない

2007年07月08日 | 読書
 『みんなで国語辞典!これも日本語』(大修館書店)。

 いい企画だなあと感心する。新語を集め、定義と用法を募集し集約する。間違いなく今の日本の言葉の一断面である。

 編者の北原氏の言葉に同感した。
 
 困ったものだと否定するのは容易だ。しかし中には、なるほどと感心したり、共感できたりするものもある。

 第一章は「若者ことば」。

 よく聞くありえないという言葉もきちんと説明されている。
三つの意味が書いてあるが、端的に言うと「認められない」「驚き」「誇張」ということだ。
「ありえない」と口にする三つの場合のニュアンスがよくわかる。

 イタい、印象的な言葉だ。
 昨年、同僚から聞いた話がある。
 ある学校の保護者面談に来た若い母親がこう言ったという。

「先生、うちの子、ぶっちゃけイタくないすっか」

 この辞典に書かれている意味は「他人から見た場合の度が過ぎた哀れさ、痛ましいさま」。
 自分の年代から見れば、明らかにこの若い母親の方がイタい。いや痛々しく見える。

 とはいえ、こういう言葉を生み出した若者の感性を否定はできない。
 これらの言葉が作り出される?パターンはいくつかに分類できる。
 省略、合体、変形またそれらの組み合わせ。さらには活用の発展という場合もある。
 ある意味で言葉を操っていることには違いないのだから。(弄ぶというべきか)
とにかく多いのは省略と合体だが、なかでも驚くべき省略を使えるその大胆さこそ持ち味というべきかもしれない。

 省略の極致ともいうべき、という言葉には恐れ入った。

 用例は、「おまえパじゃん」 。
 これを普通にわかったら若者と言えるのだろう。

少し重さを抱える静寂

2007年07月06日 | 教育ノート
 書写の展示会が近づいてどの学級もその追い込みに入った時期だった。
 墨の香りが漂う校舎の雰囲気はいいものだ。
 書写や作文の時間に訪れる静寂は、少し重さを抱えていてそれいかにも人間らしく思えたりする。


-----------------


 筆を表す「聿(イツ)」という字と、「者(シャ)」を組み合わせた文字です。「者」は「書(ショ)」の発音に関係あるのですが、実は昔の「土で作った垣」の形で、その中には外からの侵入を防ぐためのまじないのお札が埋められていたとのことです。
 そのお札に記した神聖な文字のことを「書」といったのが始まりとされています。
 書くという行為は今では日常的ですが、文字の誕生に思いを馳せると、その意味はやはりかなり重いものと考えられます。「書道」という独特な文化によって、その重みが今に伝えられているとも言えるでしょうか。

 一心に文字に向かい毛筆や鉛筆を運ばせる瞬間は、何か教室がいい空気に包まれていることは確かです。
(7/4)
----------------

なんで「なんで」なんか使うのだ

2007年07月05日 | 雑記帳
 低学年の国語を参観していて、あることばが耳についた。
 好きな本の紹介をし、それに対して質問したり答えたりするというよくあるパターンだ。
 ある子が質問のときに、こう言った。

 「なんで、その本が好きなのですか」

 えっ「なんで」か…ことさらにすぐ修正しなくても、他の誰かが「なぜ」や「どうして」を使えば直っていくだろう…と高をくくっていたら、あらなんといくら待っても「なんで」が連発されることになった。
 あれ、もしかしたら「なんで」でもいいの。いやそんなことはないだろう。どう考えても「なんで」は公的な感じのする言葉ではない。全体における発表や質問のときに使う言葉ではない、それに続けてそのことばを聴いていると、どうもいい感じがしない…
 なんでだろう?

 授業が終わり、「なんで」追究作戦に入る。
 まず愛用の電子辞書(広辞苑)で調べると

 なんで【何で】なんのために。なぜ。どうして。

とある。あれっ、それだけか。「新明解」ではどうだろうか。

 なんで【何で】①どんな理由があってそうする(である)のかを確かめたり、疑問に思ったりすることを表す ②手段・方法を確かめたり、疑問に思ったりすることを表す

 確かに詳しいが、これでも「なぜ」と変わりないではないか。解決できないので、類語大辞典(講談社)に頼ることにする。やはりそこにはある程度納得できる説明がある。並べてみるとなかなかおもしろい。

 [何で]   …「なぜ」のくだけた言い方
 [どうして] …「なぜ」の、やや柔らかい言い方
 [なにゆえ] …「なぜ」の古めかしい言い方
 [なぜ]   …どういう理由で、そうなるのか(なった)のか理解できず、問うたり考えたりするときに用いる語

 この比較からは「なぜ」「どうして」がふさわしい用語だということがわかる。

 ところでもう一つ、「なんで」があまりいい感じがしないのには何かわけがあるのだろうか。
 大辞泉(小学館)を引いたら、二番目の意味としてこんなことが書いてある。

 ②反語表現に用いて、強く否定する意を表す 

 「なんで泣かずにいられようか」などという古めかしい例文も載っているが、それはともかく「否定」の二文字にインパクトがある。今まで調べた辞典の例文を集めてみると

 「なんでけんかなんかしたのだ」
 「なんでおまえは、そう弱気なんだよ」
 「なんでそんなことをするのだ」

 つまり最初の意味であっても問い詰める形の使い方が典型であり、相手の行為の否定がそこに込められていることがわかる。例文に似た言葉を使ったことのある教師は案外多いだろう。また、逆の設定もある。乱暴な行為をする子を止めたときに「なんで?」と強い言葉で返された経験を持つ人は結構多いのではないか。

 「なんで」という私的な言い方には、日常の否定的ニュアンスがつきまとうことが、落ち着かないわけだったか。
 「なんでだろう♪」というお笑いコンビの歌があったが、これも遠まわしながら、否定的ではあるがよくしてしまいがちな行為を客観化して笑うという(くどい)説明ができると思う。

 「なんで」でこんなに引っぱれるとは思わなかった。
 
 「なんで、朝からこんなことを書いているの」と言いたい自分も確かにいます。

つまりは、みんな学校で教えること

2007年07月04日 | 雑記帳
 小学生の語彙を増やしていくために有効なことと言ったら、それは読書であり辞典活用であり、何より学級生活や授業場面においての言語活動につきるのかもしれない。
 前日も書いた『日経ビジネスAssocie』の特集を読み進めて、それらの実践にプラスするもの、重なるものがないか探してみる。
 
 「『言葉』を増やす7つのトレーニング」と題して、7名の方法が取り上げられている。人選はこうだ。

 ソムリエ、ビジネスマン対象のセミナースクール所長、医学博士
 お笑い芸人、小学校教諭、歌人、アナウンサー

 正直それほど目新しい方法が提示されてはいないと思う。
 しかし、学校教育の内容として取り上げられているものと共通するものが多いことに改めて驚く。
 たとえば、かのソムリエ田崎真也が提言する「湖でのトレーニング」は初歩の作文指導によく使われている。「きれいな湖」という一言で済ませないで「五感」をつかって表現してみるということだ。
 たとえば、スクール所長である渋井真帆が強調しているのは、新聞の音読や早口言葉である。辞書を引くということに関しても複数の人が取り上げている。

 そう考えると、結局「語彙を増やす」という意識を持って指導にあたる、というごく基本的なことが結論となるといえよう。
 ただ、それは言葉にしてみると簡単だが、現実にそうなっているとは断言しがたい。
 指導者である教員自身の「言葉への関心」に支えられる部分が大きいかもしれないと感ずるからである。言葉への関心については差違があるだろう。
 
 今私の範疇で考えられる「言葉への関心」とは、ふだんつかっている言葉の吟味それから新しい言葉への興味という二点が大きい。
 少しこのことについて考えてみたいと思っている。

言葉で回転させていく身体と心

2007年07月03日 | 雑記帳
 『日経ビジネスAssocie』(日経BP)が「人を動かす『言葉の力』」という特集をしている。

 冒頭に提言編とあり、二人の方が語彙について書いている。
 そのうちの一人、あの水泳の北島康介を育てた平井伯昌コーチが興味深いことを書いている。

 言葉というのは、実はスポーツ選手にとって、とても重要なものです。

 好きなプロ野球選手の例を だすまでもなく、耳にしたことがあるしその通りだと考えているが、平井氏の実体験からの話にもまた納得させられる。
 ずっとと指導してきた選手がばたりと伸びなくなる…その理由は自分で考えることを知らなかったからだと気づく。ある程度のレベルまでいった選手について、平井氏はこう断言する。

 言葉でうまく自己表現できない選手はダメですね。
 ほとんどの場合、それ以上の成長は見込めません。

 北島も最初は「言葉が曖昧で自らを分析しきれていない節」があったという。トレーニングを積み重ねて「出てくる言葉が徐々に明確になっていった」。言葉の上達が競技の上達につながった最高の例といっていいのだろう。

 言葉に出して、冷静に自分を分析する

 ごく普通に語られることの多いこうした言葉を、教育現場の日常でどう受け止めたらいいか。
 実は、課題は多い。低学年の教室をイメージして、そのためにどんなことが必要かを数え上げてみれば、夥しい要素(実践していくこと)があることがわかる。
 しかしそうは考えながら、突き詰めてみれば「言葉にいっぱい触れさせること」と「話をきちんと聞くしつけ・雰囲気」の二つになるかなと思う。
 この二つができている学級は、おそらく身体も心も豊かで強くなっている。

 身体も心も言葉によって回転させていくことで、大きな力を持つことを改めて感じる。

最も古くて根っこにある言葉

2007年07月02日 | 読書
 いつも書いてきた、何度も書いてきたように思う。
 それほどに強いことばを発するのが、私にとっての「むのたけじ」である。

 むのたけじが新刊を出した。
 『戦争いらぬやれぬ世へ』
 「むのたけじ語る 1」とあるのでシリーズ化されるのだろうか。齢九十を超えても、その炎は燃えている。

 語り言葉を大事にするむのは、書こうとすることを録音テープに吹き込み、検討を加えながら文章にするという。それは、語り言葉が「最も古くて根っこにあるもの」だからであり、「表現の土台」として大切にしているからだ。

 農耕が生まれた一万年前、食料が富になり、富が権力となり、国家となり戦争が始まった。それ以前は互いに助け合うことでしか生き延びる術がなかった人間であったが、農耕という食料自給の革命により移動生活から解放され、同時に深い課題を抱えたのである。そして、言語に関わる大きな変化も生まれたという。
むのはこう書いている。

まさにそういう戦争の始まりと平行或いは重なり合うようにして書き言葉=文字が登場した。むろん人の世の状態がそれを必要としたからにちがいない。声帯では間に合わない複雑で多量の言語表現が必要になった。長く記録する必要や広く命令などを通達する必要なども発生したにちがいない。始まった戦争と生まれたばかりの文字が互いに影響し合ったに違いない。ともあれ、最も喜ばしい福音であったはずのものが最も無残な罪悪を誘発したこの万世紀を私たち現代人はどう受けとめるか。
 
 声だけで意思を伝え合う時代では単なる諍い、争いで留まったものが、文字という手段が広まることによって、組織化され拡大していったという見方もできるのかもしれない。
 文字であれ、電気であれ、インターネットであれ、画期的な発明や革新がもたらす功罪について、我々はもっと目をこらさなければいけない。
 そんな些細なことで何が変わるものか、と笑うなかれ。そういう営みの積み重ねが未来を作っていくと信じたい。

 むのは「車座」での講話にこだわっていた。
 それは「語り合う」ための姿だからと言っていいだろう。
 ふと先日見たテレビドラマの最終回と重なる。いじめを巡る一種の学園物であるが、その学校が再生しようとするとき、どの学級でも行われた道徳の時間にそれまでとは違った車座での形で生徒の発言が続くシーンがあった。それは、やはり語り合いの大切さを象徴するにふさわしい設定なのである。
 教室の黒板に大きく書かれた語り合いのテーマは、むのが見ていたら笑顔で肯くに違いない言葉だった。

 「世界を変えることは、できますか?」