すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもが担うべきもの

2008年04月10日 | 読書
 そのテーマを成立するか否かの最終的な責任を、担任教師が背負っていると子どもが判断すれば、お気楽なテーマを選ぶ危険性があります。でも、その責任を自分が背負っていると子どもが判断すれば、責任ある判断をするものだと思いますよ
『忙しい!を誰も言わない学校』(西川純著 東洋館出版社)

 「子どもが担うべきもの」まで口を出したがる、世話をやきたがる教師の心の中には、どうも利己的な部分が見え隠れする。

 限られた時間や楽に流れる子どもの集団心理など言い訳ならいくらでもあるが、子どもに任せると腹をくくる実践がなければ、子どものなかに責任は芽生えないし、ひ弱なものにしかならないだろう。

 毎日の授業にしたって、そうした選択の連続だ。

個人として主体的に

2008年04月08日 | 読書
 親たちが、それぞれ個人生活を全うし、子供を個人として主体的に生きさせる。親と子の関係をそうした目で洗い直すことが、いまわれわれの社会でも必要とされている

 気骨の作家、故城山三郎の文章である。

 城山の子育ては、言葉ではなかったらしい。
 「いきなり水をかける」「物置に入れる」「部屋に入れて外から鍵をしめる」…そうした体験を城山の子どもたちは語っている。
 
 「余計な説明もしないかわり、言い訳も一切聞こうとしない」
 「自分の頭で考えてごらんという、父のメッセージ」
そんなふうに子どもたちは語っている。
 
 それらの方法が効果を発揮できるのは、まさしく「親の背中」があるからであり、それが「個人生活を全う」するということと言えるだろう。
 自らの生き方、仕事への真摯さはやはり背中で語られるべきことか。

 そう考えると、「きちんと子供と向き合って」「わかるように説明する」姿は、自信のなさの裏返しに読み取れる場合もあるということだ。

取り出すための言語化

2008年04月07日 | 読書
 自分の経験から言うと、五感はいったん言葉に変換しないと記憶できない

 ビジネス誌に載っていたソムリエ田崎真也の言葉である。
 
 もちろん私たちは全てを言語化して生きているわけではないが、知識とは言語であり、よりたくさんの知識を得ることはよりたくさんの言葉を知ると同じとも言える。
 言葉では表現できないような感覚、といった言い方があるが、そういったものこそあえて言葉で表現する…文字で書く、人に話すといった過程で、自分の受け取った感覚をより鮮明に脳に位置づけることができるのではないか。

 つまり、取り出すための言語化。
 言語によって整理が可能になる。

 その手始めが、メモであったりノートであったりすることに改めて気づかされる。
 

タフな現実に向かう芯

2008年04月06日 | 読書
 私には、いまの子どもは、ある種の無常観すら抱えているように思える。
 大人は、子どもがこれほどタフな現実を生きていることを、もっと理解するべきだと思う。

 『バカ親、バカ教師にもほどがある』(藤原和博・川端裕人著 PHP新書)

 「タフな現実」とは、便利さが築き上げてきた社会のことである。
 コミュニケーションの必要性がないほど「ラクな」社会は、夢も感動ももちにくくなっている。
 その現実を踏まえて、教育のための環境をもっと見つめる必要があるのだと思う。

 今できる資源の活用は何か。
 これはもちろん都会と地方では違うだろうし、もっと細かく地域ごと、学校ごとにも違いがあるだろう。
 全体像ならもうすでにわかっている。もっと子どもに接する環境に目を向けて、そこから教育を創造していく営み…何を通して力を身につけたのかということを大切にしなければ、子どもが自ら生き抜いていく芯にならないのではないか。
 と、そんなことが浮かんでくる。

知が動き出す場

2008年04月04日 | 雑記帳
 クイズ番組を見るのが好きだが、入院したときに一人でそんな番組を見ても全然つまらなかった

 ある式の挨拶で、某氏が言われた一言である。
 確かに知的好奇心、知的欲求でそうした内容の番組をみることもあるのだろうけど、それ以上にそこに他者もいて、解答を考えあったり、正解を知っていることを少し自慢してみたり、競ったりするからこそ、番組の価値が出てくるように思う。
 
 少し大げさに言えば、知は他者の存在抜きに活性化しない…教室での授業はまさしく知を活性化させる具体的な場面であることがある。
 教師の働きかけは全体に向ける問いであり、それに対応する子どもの声や動きを組織していくことだと、今さらながらに思う。

 新年度の教室に、子どもらの声が帰ってくる。

個性と死

2008年04月03日 | 読書
 人が大事で、個性が大事で、社会は個性を大事にするように動こうという考えは、つまり日常生活から死が遠ざかってる社会である。
 死の隠蔽と個性の尊重は表裏にある。


 講談社のPR誌『本』2月号に、コラムニストの堀井憲一郎が書いている文である。落語に関しての連載であり、「左利きのサムライはいたか」というのがその号のテーマであった。

 基本的に左利きを無視した社会、時代…そこには確かに現在より「死」が身近にあったのだと思う。
 左利きが個性かどうかは検討の余地があると思うが、今当然のように「個性の尊重」が叫ばれる社会は、生存についての危機感が薄いからだとは言えそうである。

 しかし、考えてみればそれは極めて限定された地域、限定された時代の代物ではないか。新聞を広げるまでもなく想像できることである。
 私たちが育てようとしている個性は、どれほどの強さがあるものなのか…

レッテル剥がしから

2008年04月02日 | 読書
 自分にレッテルを貼る行為は、相手を自分に合わさせようとしたり、自分は相手への強調や妥協を拒否しようとする、傲慢な姿勢でもあるのです。

『憎まれ役』(野村克也・野中広務著 文藝春秋)で野村克也は語る。

 「僕は~~しない人だから」「私ってこういう人だから」といった言葉に、違和感を覚えたのはいつだったろうか。そうしたレッテル貼りは単なる言い回しのように見えて、変化に対する拒否以外の何者でもない。

 そうすれば、教員の間でとかく口をついて出そうな「あの子はこういう子だから」「あの子は必ず~~だ」という言い回しも、深く疑ってみる必要がある。
 その中身が消極的、閉鎖的な言葉であれば、それは明らかに変化・変容を断ち切ろうとする意志の表れであろう。
 レッテル貼りは、自ら壁を作っている行為にも似てはいないか。

 新年度は、自らのレッテル、子どもへのレッテルを剥がすことから始めてみよう

さらぴんの一日を続ける

2008年04月01日 | 読書
 今日もまた、さらぴんの一日が始まります。

 『東井義雄 一日一言』(致知出版社)の一節である。
 「さらぴん」とは広辞苑にはなかったので、おそらく方言なのかなと思う。
 ネット検索してみると「新品」「真新しい、おろしたてのモノ」という意味のようだ。

 学校は今日が元旦。さらぴん中のさらぴんの一日である。
 継続は大切なことであるが、上手にリセットや切り換えを使うことで進んでいけるはずである。

 毎日さらぴんの気持ちで、今年度も歩んでいきたい。