すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自分の精神のストーカー

2009年10月18日 | 読書
 自分の精神のストーカー
 
 ストーカーという言葉をこれほど前向きにとらえた表現があっただろうか。

 さすがに糸井重里である。

 『考える人』(新潮社)の最新号の特集は、「活字から、ウェブへの……。」であり、そこでのロングインタビューの中で語りであった。特集にふさわしい人選だと思う。

 糸井とネットの出会いについては、『ほぼ日刊イトイ新聞の本』を読んでおりあらましはわかっていたが、ここではまた違った切り口でエピソードが語られていた。

 最初のころはやっぱり、メールとエロかおもしろかったですね。

 さりげなく「エロの世界の見せ方」について感心してみせる糸井の自由さには憧れを感ずる。
 そして「何を素敵だと思っているのか。捨てたくない画像って何か」をどこまでも追及していける人、それがストーカーという表現となる。情報を集める、眺める、考える、判断する、動き出す…
 ただ、その結果一人のポルノスターを追いかけて、ネバダ州の酒場で踊っているらしいとまで追いかけていけるネットの強みを心の底で感じられるためには、「自分の欲望のありか」をしっかりと見定めていく必要があることを今更ながらに思う。

 便利を越えて、豊かに

 このことが大切だとわかっていても、時に(いや日常的にだろう)それを見失って、誰かによって「増幅」された情報に踊らされる。

 では、どうするか。
 方法はたくさんあるけれど、決意することはいくつかなのかもしれない。

 今号の『考える人』は読みごたえがありそうで、ヒントを得られる気がする。

だってそうではないか、の筒井康隆

2009年10月16日 | 読書
 本当に久しぶりに、筒井康隆の小説を読んだ。

 『銀齢の果て』(新潮文庫)

 いわば、老人版の「バトル・ロワイヤル」といっても差し支えない内容なのだが、とにかく登場人物がかなり多く、イメージを描けないままに登場し死んでいくというような有様で、シッチャカメッチャカ(何だか懐かしい表現)な筋立てでもある。

 しかしこういった展開は筒井の得意とするところで、ずいぶんと高校生の頃は読んだように思う。
 人が考えたり、しゃっべったりしていて、自分自身で高揚していく様など、引き込まれていくように読んだのだろう。
 今回も、何気ないこうした表現に心が高ぶった。

 だってそうではないか。だってそうではないか。だってそうではないか。
 
 この繰り返しにはまいったなあ。
 確か高2の頃、暇にまかせてクラス内で廻した一冊の自由帳(それを2Dノートと名づけた)。一番の投稿!者は私自身だったが、そこで級友を登場人物にしてナンセンスでシュールな小話を書き連ねていた自分が蘇ってくるようだった。

 ところで、なぜ終末があんな展開になるのか、わからなかった。
 毅然と振舞う主人公の九一郎に惹かれて行動を共にした猿谷を最後の最後で疑う、そして九一郎は生き残る…このしっくりこないエンディングは、断末魔における人間の弱さそのものか。
 そういうどうしようもなさが、この話を忘れられないものにしそうだ。

 だってそうではないか。

 そう呟いて、解説を書いたのがあの穂村弘であったことも一つ驚きで、「中高生の私が愛読していた」と書いた件を読み、えっと驚き、やはりと考えてしまう。

 だってそうではないか。

「二人目の母親」でいいのか

2009年10月14日 | 読書
 机上にあった冊子の目次をぺらっとめくってみた。
 愛読している正高信男教授(京都大学)の連載、今月号の題名を見てなるほどと思った。

 「二人目の母親」になった現代の父親
 
 先日、知り合いと飲んでいたときに、「入学式や卒業式に両親が揃って出席するのが多くなったのはいつからだろう」などという話をしていて、喜ばしいことなんだろうが何か今一つその風潮にしっくりこないものを感じる自分がいた。

 式への出席自体が何か意味を持つわけではないが、そこで子どもを見つめる目が変わってきているのではないか。母親の目に、父親の目が近づいている…共に「母性」的となっているとは言えないだろうか。

 正高氏も書いているように、父性と父親、母性と母親は決して同一ではない。しかしその入替もまた簡単なことではないはずだ。
 まして地域環境の変化は、子どもたちが外部の大人と接触することを減らしているし、家庭外の父性にあう場も少なくなっている。正高氏はこう言う。

 地縁に期待できない現代の父親は、子どものほうを向いて、積極的に父性を背負っていかなければならない 

 最近よく見られる「子育てに熱心な父親」の多くは、あまりそのことは意識していないのかもしれない。私の見る範囲で感じることは次の文章によくあてはまる。

 ここで言う「子育てに熱心」であるというのは、母親の補助的役割を担う、「二人目の母親」としての育児参加なのです。
 
 異なる役割を担う、演じるという自覚がなければ、きっと「父親の出番」などと言われてもぴんとはこないだろう。問いかけを強めていきたいことだ。

中味より器のような話も

2009年10月13日 | 雑記帳
 数えてみれば17,8年前になってしまうが、初めて複式学級を持ったときに、当時の教頭先生に手伝ってもらって一部単式授業をしたことがある。

 それは3年生の社会科であった(2年生の生活科と離したということになる)。
 しかしその社会科の授業たるや、まったくレベルの低いものだったといわざるを得ない。
 言い訳は奥羽山脈ほどあるがそれは封印しておこう。
 その恥かしい授業のことが思い浮かんだのは、先日野中信行先生がブログで書かれた「味噌汁、ご飯」授業を読んだからである。

 朝4時起きをして二学年分のプリントづくりや準備(主として算数、国語)をする毎日の中で、いかに単式とはいえ社会科は優先順位が低かった。
 そこで考えたのが「板書だけはしっかりやろう」ということ。といっても事前に赤刷りに目を通すぐらいしかできず、その中味たるや、きっと味気なく栄養もないものだったと想像できる。
 廊下から覗いた社会科が専門の同僚に、「あんなふうにするの?」と少し軽蔑気味に語りかけられたことを、今でも覚えている。

 では何も収穫がなかったか、と言えばまんざらそうでもない。
 教育実習の指導でもありがちな言葉だが「板書は授業の設計図」たりえる感覚が、つまらないこと?を続けることによっても身につけられたように思う。

 当時を振り返ると、「発問・指示」「ネタ」中心の授業づくりから、何か安定した「形式」を作れないものかと模索していた時期とでも言えるだろうか。

 結果、日常のべたで地味な授業づくりのためのいくつかの安定した形式(というよりポイントか)を取り込んできたように思う。
 それは、社会科でいえば「ノートづくり」である。
 国語でいえば「視写の位置づけ」であり、算数は「子どもの発言の板書化」である。

 なんだか「中味より器」のような話になったが、それもまた無視してはいけない気がしている。

鑑賞という味わい方ができれば

2009年10月12日 | 読書
 久しぶりに『新潮45』を買って読んでみたら、養老孟司の対談シリーズが実に興味深かった。
 初回だそうだが、その相手は高橋秀実というノンフィクション作家。読んだことのない作家であるが、実にユニークな発想、語りをする人だ。

 現在は中学受験をテーマに書いているそうで、子供たちを取材して「できない子」を目にして次のようなことを語っている。

 できない子というのは、どこかみんな「景色」を見ちゃうんですよ。「解く」んじゃなくて「鑑賞」しちゃう。
 
 ふむふむ。
 算数の文章題などで、確かにそんなふうに思えることがある。
 「できる子」は、解に向かって最短を歩もうとするから、それ以外の要素を見ずにさっさと解いていくことができる。だから、本当にその設問を理解しているかを見るために、「条件過多」といった文章題にする方法なども一般的になっている。

 しかし、そうなると「できない子」にとって、様々な鑑賞の要素が増えることになり、ますます解から遠回りするということになるわけか。そんな酷なことを使っているのだという自覚は大事だなあと思う。

 まあ算数の問題はともかく、生きていくうえで必要なのは「理解」ではなくて「鑑賞」かな、などとふと思ったりする。
 理解ができたからどうだという話はキリがないものだし、それに比べて鑑賞という味わい方ができれば、そりゃあ楽しいはずと、唐突に結論づけてみた。

見入る空気を肌で感じて

2009年10月10日 | 教育ノート
 先月の半ばから「読書の時間」を利用して、各学級を渡り歩いて(笑)紙芝居を読んでいる。
 毎日というわけにもいかず、途切れ途切れながら、ようやく全学級を一回ずつ廻ることができた。

 上演するのは手持ちの新美南吉シリーズか宮沢賢治シリーズである。作品はその都度変えているが、どれも喜んで聞いてくれているようだ。

 何回かICレコーダーで録音し、ちょっと自分でふりかえりをしてみたら、まだまだ工夫する余地はあるので、その意味で今後も続けるきっかけは十分である。
 なんだか自分の楽しみでやっているようだが、その心持は案外子どもたちにも伝わるのではないか。

 紙芝居を読んでいて、脚本を少しアレンジしたりすることも覚えてしまった。
 この言い回しではわかりづらいだろうなと思うところを言い換えてみたり、少しは身近に感じるものに置き換えたり(例えば「さつま杉」より「あきた杉」の方がいいだろうと思う)する余裕は出てきている。

 ただ、まだまだなのは、やはり間のとり方や緩急のあたりだなと思う。
 これは結局読みこみなのだろうが、一人の下読みだとどうも力が入らず、やはり「本番」の緊張感の中でどれほど繰り返すかになるのではないか。

 例えば「よだかの星」。
 初めの場面ではよだかがバカにされることを笑っていた男の子が、徐々に声を失くし、画に見入るようになっていく。
 そうした空気を肌で感じながら演じられるのは、本当に幸せなことだ。

 第2クールも地道に続けていきたい。

みんな買えてしまう現実

2009年10月09日 | 雑記帳
 NHKの朝の番組を見ていたら、「勉強がすきになっちゃた」と題して、いわゆる学習グッズと称されるものの紹介があった。

 最初に紹介された「道具とテキストがセットになっている学習キット」。
 これは、つまり定規と単位換算器がセットになっているものだ。中間にある「1」が可動式になっていて、そこを合わせると「1ha=10000㎡」といったことが読み取れるようになっている。

 これを見て「ああ、懐かしい」と思った。
 
 そういうキットを自作したことがある。
 もちろん何かの本を見て作ったのだが、封筒と画用紙を使い、封筒に目盛りと単位を書き、中心部分を切り抜き、中にいれる画用紙を可動式にした。
 受け持っていた六年生(だったと思う)子どもたちにも作らせ、算数の難関である単位換算のまとめに利用した。

 二つ目の「板書をそのまま書き写すノート」といったって、結局はノートに「板書」と「自分の考えなど」をどういうふうにコーナー分けするかということである。
 こういうことならずいぶんと試行錯誤しながら、様々な形式を作り上げた気がする。国語や算数、それから社会などでもノートにコーナーを設けながら、ここに何を書けば効率的か、活用できるか、さかんに頭を悩ませて取り組んできた。

 今は、それが商品となっている。
 確かに便利だし、きれいだ、特別に高価でもないし、簡単に手に入れられるだろう。
 その分教師は頭を使わなくなったから創造的でない、などと結論づけるつもりはないが、作ることに手間をかけたこと、どんなふうにコーナーを設けるか悩んだことは自分にとってびっちりと詰まった充実した時間として思い出される。

 それが今、みんな金で買えてしまうという現実なのだということを受け止めてみる。
 そこから見えてくるものは、案外大きい。

言葉の一人歩きを止めるために

2009年10月08日 | 雑記帳
 参加した研究会で、指導主事が教科調査官の言葉だといってこのような「指導」を紹介した。

 「全部、そろえなさい」
 「コーナーもそろえなさい」
 「やり方もそろえなさい」

 どういう場面でその言葉が言われたのか詳細は知らないが、どうも気に入らない。いや、聞き捨てならない。

 系統性や指導のステップを重んじる考えがわからないわけではない。しかし、何の教科・領域であっても単純なそういう物言いが許されていいのか、と思う。

 何のために指導案があり、何のために学級経営案があるのか。それは子どもが違い、教師も違うからだろう。教師はそれぞれの願いを持ち、そこから様々な案を考え、工夫を凝らす。
 その場に制限や枠は確かにあるだろうが、その中の小さな創意こそ大切にするべきだと考える。

 セオリーやマニュアルを否定しているわけではない。必ず身につけたい技術は確かにあり、その数はけして少なくない。
 先行実践を忠実にやってみる価値の高さは十分承知し、自分もそうしてきた。

 そのことを踏まえてなお、自分の頭で考えることを停止してはならない。

 そうしないと、「そろえなさい」という言葉のレベルがどの位置にあるのか判断できなくなる。

 こうした「指導」の言葉の一人歩きを止めることもできなくなる。

毎日毎日種をまく

2009年10月07日 | 雑記帳
 精神科医のなだいなだが、昔診察した患者から、自分が発した言葉を聞いた話を書いている。
 もちろん、自分自身は忘れているわけだが、患者が忘れず覚えているということは、その人の人生に役立ったことだろうと書く。

 そういうことは、教師の世界にもあるように思う。昔受け持った子と成長して語り合ったとき、何気ない一言を覚えていてくれたりして、驚いたり感激したりするものだ。
 発した自分自身が記憶がないとすれば、きっとそんなに意識的に使った言葉ではないだろうし、ふだんの関わりの中で出てきた、また自分の自然な感情でしゃべったことといえるかもしれない。

 そういう一言を長い期間覚えているということは、その一言は言った本人を離れ、聞いた者のことばになっているのではないか。
 おそらく心の中で何かの度に繰り返され、根付いている状態といえるのかもしれない。

 そう考えると、医者や教員が発する言葉は、種のようなイメージでとらえることもできるだろう。
 対象となる者は全てを受け入れられるのではなく、自分の土壌にあったものが芽を出し、成長していく…そういうことになるだろうか。

 肥沃な土もあれば、からからに渇いた荒地もあるだろう。
 
 しかし、毎日毎日種をまく。

 その中で何が根付き、何が芽を出すかは、まだだれもにもわからない。

 それでも、毎日毎日種をまく。

耳が嬉しがっている

2009年10月06日 | 雑記帳
 オーディオに興味を持つほど耳もお金もないのだが、音楽好きであることは確かなので学生時代からミニコンポ程度は買っていた。
 前のは二十年以上前に買ったVICTOR製だったので、性能はたかが知れている。それを自宅を離れた娘にやり、次は何か買いたいなあと考えていた。

 本当はBOSEが魅力的であったが、アウトレットでも安くなかったのでちょっと遠ざかり、ねらいをウッドコーンスピーカーのVICTORに定めていたのだが…。

 買い物に迷うのはかなり自信がある?方なので、ネットで調べたり近くの量販店にいったりが結構長く続いた。

 先週のとある午後、会議が少し早く終わったので30分ほど回ってみるかと思い、K電器へ。
 先月も来たのだが欲しいと思う機器と値段との折り合いがつかず決めることができなかった。

 ところが…今回。
 魅力を感じていたある製品に、えっと思う価格。確かに展示処分ではあったが、ネット最安値から1万円以上安くなっている。
 しかも、5年保証がついている。約15分考えたが…私にしては即決と同じだ。

 PIONEER Z-7

 いい音で響いている。

 とにかく例の「耳雑音」から解放されたことで、晴れやかな気分になっていることは確かだ。

 何を聞いても、音の侵入を耳が嬉しがっているような気がする。