すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「国民の声」という修飾語

2010年09月02日 | 読書
 政治の世界が騒がしい。
 そういう時に決まって、テレビからはこうした声が聞こえてくる。

 例えば、野党が目いっぱい怒りながら
「まさに、国民不在としか言いようがない」

 例えば、街頭インタビューで、何かしゃべりたいご婦人が
「いったいなんでしょうね。もっと国民の声に耳を傾けてほしいわ」

 例えば、ワイドショーですました顔のコメンテイタ―が
「国民の声をなんだと思っているんでしょう。茶番ですよ!」

 あまりにもパターン化されている風景に慣れてしまっている自分にも少しいらだちながら、こう思う。

 いったい、『国民の声』って何だ?
 
 具体的に何を指して国民の声というのだろう。
 なぜかこの頃しょっちゅう実施される「世論調査」のことだろうか。あまりに頻繁に支持率の上がった下がっただのがありすぎて、何かタレントの人気投票か、テレビ番組の視聴率とあまり変わらないのではないか。

 国民の声というものが、街頭インタビューで取り上げられる一つ一つの総体だと考える人などいるだろうか。
 「国民の声」という言葉を使って、いかにも自分が正当な意見を述べているように飾り立てているような気がする。

 しっかり「私の声」を聞け、私はこう思う、というなら話は明快だ。しかし、私が含まれているのかどうかも定かでない「国民の声」という漠然とした言葉を持ち出して、自らの考えの無さを飾るんじゃない、と小さく怒ってみました。

 もう一つ突っ込んでみたとき、こんなことも思う。
 そもそも政治家は国民の声を必ず反映させるべき者なのか。
 政治家は自らの主張を明快にして、国民を引っ張っていく者ではないのか。
 両面があることは承知だが、本質としてどちらかにはっきりと軸足を乗せなければ、政治家など務まらないだろう。

 従って、国民の声に左右されないという政治家がいても、それは当然というべきではないか。暴論か。
 ただこれも一国民の声であることは間違いない。

 かくも国民の声とは多様なものだ。

リーダーを必要とする活動とは

2010年09月01日 | 読書
 どんな体験がリーダーを育てるのだろうか。

 『児童心理』誌に、汐見稔幸氏が興味深い例を示していた。

 札幌市のある民間保育園の例である。自前のバスで山林に連れて行ったときの出来事から園長先生が結論づけた言葉だった。

 リーダーが必要な活動って、失敗するとけがをするかもしれないとか、手を抜くと危ないとか、もっている力を120%発揮するとすごくおもしろいことができるとか、そういう活動なんだということがわかった。そういう活動に取り組むときに、初めてリーダーが必要になるんだ。
 
 納得である。
 そして、この箇所を読むと、学校がいかに窮屈な場であるかも感じてしまう。

 「失敗するとけがをするかもしれない」「手を抜くと危ない」…そういった活動は、事前にチェックし、けがをしない、危なくないことが前提としてある。まして、そうした活動を子ども中心で行うなどとしたら、それはもう危機管理不足の一言で片づけられるかもしれない。
 
 しかし、考えればそういう小さな?リスクを背負いたくないために、リーダー不在という途轍もない危機を迎えようとしているのがこの国ではないか。
 おっと突然話が大きくなってしまった。抑えて抑えて…。

 では何ができるか。
 現実的に「もっている力を120%発揮すると、すごくおもしろいことができる」、これはやれそうではないか。
 こういう体験をいくつか積み重ねている子どもたちは、きっと起爆力も備わるように思う。

 大がかりなものでなくとも、学級活動の中でイベント的なことを組んだり、外に向かってアピールできる活動に参加してみたり…。
 むろんここにも制約的な要素が振りかかってくるだろう。
 それをどう振りはらうか、また逆に巻き込んでみるか、ちょっと戦略的な要素が必要だ。
 
 結論として「味方をつくる」だろうか。

 ここには、それを仕かける教師のリーダー性も不可欠になるということだ。
 その活動をすごく面白いと思うことによって成り立つわけだが。