すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

100円読書の秋、始まる

2010年09月15日 | 雑記帳
 じゃあ、読もう。

 知っている人は知っている「国民読書年」のコピーである。

 だいぶ涼しくなり少し体調を壊しそうになったが、なんとかこらえた。秋だなあと思う。
 やはり、読書の秋か…と書店に足を運ぼうとしたが、少し手前にある「本」という大きな看板に惹かれて、某古書店へ。

 こういう店に入るならもう決まっている。
 100円モノしかないでしょう…と思ったが、小さな店内なのであまりコーナーは広くない。
 それでも、こうし制限されたところから見つけるのも楽しいんだよなあ、と考えて、表紙読み・著者読み(勝手に名づけた)を開始。

 100円なので手当たり次第…という思考にもならないようで、なんとなくペラペラとめくって確かめ選ぼうとしている自分が可笑しい。

 かなり古そうな、つまり日焼けしているものや、何度も何度も値札が貼りかえられているものは避けたい。
 文庫本のあまり小さな字はちょっと無理があるなあ。
 話題の作家ではあるが、何だか登場人物がいっぱい出てきそうで覚えられるかな。
 おっ、授業のネタになりそうな資料発見!でも2003年じゃ古すぎるか。
…とこんな調子で、新書4冊、文庫6冊、計10冊の1000円也でした。
 なんだか結局ビジュアル的に選んでるところがあるなあ。

 と反省しながら、まず読み出した新書が『適当論』(高田純次 ソフトバンク新書)なので、どうにも締まりがない読書の秋のスタートです。

「ください」は命令形なのだと

2010年09月13日 | 読書
 『日本語の作法』(外山滋比古著 新潮文庫)
 
 筆者の文章には時々どきっとさせられる。

 だいたい「ください」が多すぎる。「ください」は命令形であって、目上の人には使えない。対等の間柄でも強すぎることがある。
 
 「ください」は命令形か…そんな意識はあまりなかったな。保護者や地域向けの文章を書くときでも「~~お願いいたします」という語尾が重なるのを避けるために、結構「~~ください」を使用している。
 そこにはお願いの意味しかなかったのだが、誤用なのかなあ。誤用ではないにしても、ふさわしくはないのだろうか。

 辞典を調べてみると、確かに「くださるの命令形」とある。
 「くださる→くだされ→ください」という流れの変化である。
 また類語辞典をみると「くれ」の丁寧な言い方、「くれる」の尊敬語という記述も見られる。

 語意は「相手に何かを要求・依頼する意を表す」で、記述として「請い求める」「懇願」「要望」という表現もある。
 こうした解釈によれば、保護者向けなどの文書に使うことは間違いとは言えないと思うのだが、結局根本にある「くれ」という願い方が、少し丁寧さを欠くことは確かなので、そこから受け取られる可能性はあるわけだ。
 
 このような文章がある。

 「お待ちください」と言いつけられるより「お待ち願います」くらいにしてもらった方が落ち着く。
 
 受けとめる側として、「言いつけられた」感覚になるかならないかが分かれ目なのか。

 それにしても、筆者によると、こどもに対しての言い方であっても「提出してください」は命令形だから敬遠されているという。
 私ならば、「ください」と懇願するような言い方を教師が頻繁にするべきでないから、控えるようにと考えている。

 使用基準がずいぶんとかけ離れているものだ。

 迷いが増した読書になったが、ただ「ください」で大方済まそうとする意識には、チェックをかけることができたのは収穫だ。喜んでください。(って誰に、どんな気持ちで言っているのかね)

トップリーダーの言葉を引き寄せる

2010年09月12日 | 読書
 NHKで「仕事学」なる番組があることを、この前知った。
 番組欄で目には入っていたのだろうが意識したことがなく、先日書店で『トップリーダーの仕事学』(NHK出版)という雑誌を手にしてわかったことだ。

 今までの放送で登場した方が10人。それぞれ10ページを超える分量で、仕事についてのエッセンスを語っている。「プロフェッショナル仕事の流儀」にかなり似通っている面が多いとも言える。

 信条、発想法、警句…一流の方々が語る言葉は頷けるものが多いが、自分に引き寄せ書き留めておきたい文章を三つ選んでみた。

 BMWの支店長時代から私自身が実践してきたのは、「ホウ・レン・ソウは上司から」という考え方です。(林文子・横浜市長)
 
 この姿勢は言うには容易いが、心構えを維持するには信念がいると思う。「一生懸命にならないと相手には伝わりません」とさりげなく書かれているところに、その強さを見た。

 相手の頭の中にはAとBしかないと見切ったら、私が通したいCという企画をAとBの関数だけで説明することが肝心です。(藤原和博・大阪府教委特別顧問)
 
 とかくCを持ち出しがちな自分にとっては噛みしめたい言葉だ。対象を分析してみるという一歩前に、もっと留意すべきと教えられる。

 大事な情報というのは、いつも人が運んできてくれるんだ。人との出会いは大事にしなければいけないんだよ。(岡野雅行・岡野工業代表社員)
 
 書物やネットなどを通して得られる情報を軽視するわけではないが、やはり直接語る言葉には及ばないと思う。身近に息遣いを感じ理解できる情報の中にこそ、大事なことはある。

 しかし、一度でも出会った方であれば、仮にネット上の発言であっても肉声に近いように受けとめられる感覚になることも多く経験している。
  直接に話を聴く、教えを請う機会を持つことは感度を維持するうえでも、とても重要なことに思える。
 
 登場した10人のトップリーダーの話をいつか耳にしたいものだ。

9月11日といえば

2010年09月11日 | 雑記帳
 9月11日といえば、あのニューヨークのテロということになる。
 早く就寝してしまったので、テレビであの光景を見たのは翌朝だったが、「映画だろ?」と思ってしまった感覚は今でも覚えているほどだ。
 「9.11」という様々な語られ方を自分がどう受け止めたのか。整理できなかった、そして整理する視点を持ち合わせていないとその時に気づいたことを成長と呼ぶのはあまりに楽天的すぎるか。

 9月11日といえば、ずいぶんとテレビCMで露出しているあの『悪人』の封切日である。そうは言いながら、おそらく映画館では見ないだろうなあ。
 しかし数年前読んだ小説『悪人』は本当に印象が強かった。今回のキャストは少しイメージと違うが、妻夫木くんはいい役者だと思うのでまあ許す。

 テレビでのインタビューでは盛んに「初めての悪役」という訊ね方がされる。しかし実は私にとって妻夫木くんが印象深いのは『リミット』というテレビドラマ(主演:安田成美)でのチンピラ?役だった。
 あれから10年経つんだねえ。たしか『天国と地獄』のリメイク版でも犯人役だったので、意外とあるんですよ、悪役は。それが結構はまっている。

 そして今回は、深津絵里さんですか。
 これは典型的に齢を重ねて魅力を増す女優のパターンであり、数年前から注目していたので「受賞おめでとう!(握手したい)」という感じです。『きらきらひかる』あたりの野暮ったさを考えると、もはや涙ものです。

 深津絵里とくると、なぜか夏目雅子です。

 共通項は…そうです、三蔵法師役。

 夏目雅子がもし今いたら…残念ながら、想像できない。また想像することにも意味はない。

 80年代のあの輝きを、人は夏目雅子と呼ぶ気がする。

 9月11日といえば、夏目雅子の命日です。合掌。

子どもはタイミングを待っている

2010年09月10日 | 雑記帳
 学校に県の主催する巡回ミニコンサートが設定されて、子どもたちと一緒に演奏を聴いた。
 学校ブログはこちら→http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-320.html

 そのエレクトーン奏者の方と昼食をご一緒することになった。
 名物の蕎麦の店に案内し、少しお話することができた。

 プロの演奏家となる人というのは、どこが違うんだろうかという興味もある。
 いつ頃からエレクトーンを始めたのか、尋ねると
 「中学年の頃でしたね。遅いほうでしょうね。」という返答。
 その言葉に続けた一言は、ちょっと心に響いた。

 「タイミングというのが大事ですね。早くから親がやらせようとしても駄目なんじゃないかな。」

 同行した方もいて、それ以上根掘り葉掘りは聞けなかったが、なるほどと思った。
 プロの演奏家になれるといったらほんの一握りであろう。環境や運も大きい。
 まあ、その点は重々承知して考えてみたことだが、技術や精神を高めるためには、本当に子どもが強く「やりたい」と思う気持ちを持った時からスタートさせることではないだろうか。
 
 それは例えば、友達が入るから同じ部活動に入部するとは違うことだろう。親が好きなので、一緒にやっていたから自然と始めたということでもない。
 きっと印象に残る「出合い」があったということだ。

 それは、偶然ということもあるが、準備されている場合もあるだろう。
 それまで気づかなかったことに、ある状況によって気づくということもある。年齢による意識の変化が出合いをもたらすこともある。

 そう考えると、親はもちろんだが、教師の「種まき」は幅広く様々な種類を、と心がけることが大切だと改めて思う。

 子どもはいつもそのタイミングを待っている。

巨人は寡黙なもの

2010年09月08日 | 読書
 『寡黙なる巨人』(多田富雄著 集英社文庫)
 
 なんとも凄い記録だなと思う。
 67歳の誕生日を迎えて間もなく脳梗塞に襲われ、半身不随となった筆者の闘病いや「闘生」記録である。

 いくら想像力を働かせても、その苦しみの深さには及ばないが、「生」の可能性に向かっていく日常を飾らずありのままに綴ったことは胸を打つ。
 第二章の項目が「生きる」「考える」「暮らす」「楽しむ」という順番に並べられたのは、たまたまではあるまい。
 つまり、生きることはまず生きること、それから考えること、次は暮らすこと、そして楽しむことだ、と読みとれはしまいか。

 動かない身体の内部に「新しい人」を発見し、それを「巨人」と名づけた筆者。
 この巨人は、鈍重であることの一つの比喩として生まれた言葉だ。この巨人の成長を見守っていくことで、着実なリハビリとは言えないまでも、自分の動きを一定のところまで拡大していく。
 「寡黙」と形容したのは、時に応えようにも応えられない巨人のもどかしさと、多くを語らせる無意味さも同時に表現しているかもしれない。
 身体は、動くことが全てでもあるのだから。

 反面、「自分」がしっかりと確立している筆者自身の言葉は、後半で様々な分野について触れられ、キレを増している。

 特に興味深く思えた箇所は「愛国心とは何か」「美を求める心」という件だった。

 後者はともかく、愛国心、愛郷心については最近思うことがあったので、意を強くした。改革という名の下に教育現場にその役割を担わせる前にもっとするべきことがあるのではないか。

 帰属意識の大きなよりどころ
 
 まず大人がそれを作る努力をしなければならない。
 形は大切である。そのために、形を自ら示すことを怠っていてはいけない。

 巨人は寡黙なものである。

進歩は小事に宿る

2010年09月07日 | 読書
 『森信三 一日一語』(寺田一清編 致知出版社) を読了した。
 
 仕事に「身を捧げる」ことができる人の大きさ、深さを感ずる。
 こうした献身的な偉人は数多くいるだろうが、この著書の中に「田中正造」の名前が出てきたときは、なるほどと感じた。

 教科書に載っていた当時に繰り返し学んだ田中正造の生き方に通ずる意志の強さ、これは実に色濃く、様々な文言にある。
 森先生は『田中正造全集』発刊の陰の功労者でもあるという。

 そういう目で、またページをめくってみると、凡人にはため息の出る、叱責されているような言葉のなんとも多いことよ。

 人間は、進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。
 現状維持と思うのは、実は退歩している証拠である。
 
 とても無理無理と言って、こうした本を遠ざけるのは、これはもはや退歩そのものであり、せめて…と思う。
 
 親論、子育て論だけでなく、食べ物のことや男女関係のこと、日常の細かい心がけなどもあって、意外な発見もある。
 この言葉もぴりっと光る。

 「笑顔は天の花」
 笑顔によって、相手の心の扉が開けたらー。

 解説によると「鏡笑法」と称して、毎朝、鏡に向かって笑顔の練習をすることを勧められたという。

 進歩は小事に宿る。

苦手宣言から「もったいない」へ

2010年09月06日 | 読書
 似たことは以前にも書いているが、整理整頓は苦手中の苦手だ。
 「才能がない」などと言い訳?しているほど見事なものだ。
 
 そのうちに、この物品関係の処理の仕方が下手ということは、きっと思考もそうなのだろうと薄々気づいてきた。
 いつも注目しているデザイナー佐藤可士和の、整理の極地とも言うべきオフィスの写真を見たときに、その思いは確信と変わる。

 これじゃいかん、これじゃいかん、と周期的に片づけに入るが、継続できないままに数十年。(どうしようもなく軽薄な「重み」だ)
 整理ができるようになりたいという願いに翻弄され、目の前のペン1本も片づけられないでいる。

 さらに、物を買う。
 衣類などは買わない方だと思うが、捨てられないので溜まる一方。
 文房具やOA関係など、あまり意味もなく好きだ。
 さらに、書物、雑誌。どうしようもなく増殖するのはどうしてだあ。
 ちょっとHELPと言いたくなる。

 そんな埋もれている雑誌の中に、こんな一節が…。

 僕らはいつしか、もので溢れる日本というものを、度を超えて許容してしまったかもしれない。(原研哉『図書』7月号)

 日本を自分に、あるいは我が家に置き換えても同じではないだろうか。

 物質的な豊かさより精神的な豊かさを、という言辞はもはや使い古されたように感じるが、そんなことを繰り返し言いながらちっとも事態は進んでいない。
 結局、大量生産、大量消費を前提に動いている世の中で、どこかで明確に区切りを入れる行動ができないから、こうなる。
 「もったいない」は捨てる行為について指摘される言葉だが、それ以前の行為についても、もっと想像してみるべきだと、かの筆者は言う。

 もしそういう心情を働かせるなら、まずは何かを大量に生産する時に感じた方がいいし、さもなければそれを購入する時に考えた方がいい。
 
 自分にできることは、せめて買わないことか。
 
 整理整頓はあきらめて、捨てる、買わないことで、少しずつシンプルにしていくという手もある。
 
 えっ、できるのか?

苦手宣言の言い訳

2010年09月05日 | 雑記帳
 学校という職場にいながら、そうは言っていられないのかもしれないが、いわゆる「指導案検討会」が苦手だ。

 単元は決まっているが構想がまだぼんやりしていて、という段階でアイデアを言い合うのならともかく、きちんと単元計画から本時案まで出来ているのは、もう何を言ったらいいのかという気がしてくる。

 何か大きな研究指定にもなっていて、観点やら方法が規定されていて明確ならばなんとかなるかもしれないが、通常の校内研究あたりではそんなにキツイ縛りがないのが普通だろうし、どうしたものかといつも思っている。

 実際、そんなこともあって、どこの職場でも縮小方向で進んできた。
 本人の意志、提案を尊重することが大事ですよ、事前検討より授業後の研究協議を充実させましょうよ…とそんな言い方をしてきたけれど、それにしても時々どうしてそんなに抵抗があるのだろうと思ったりもする。

 ある冊子の対談で見かけた文章、ああ自分はこれに近いことを思っているんだと、膝をうった。

 面倒くさいんですよ、人の仕事を覗くって。人の考えたことを全部たどっていく必要がある。それでこれはちょっと違うんじゃないかって言い出すとね、違うに決まっているんだから。だから、それはもう自分たちでしくじったり、切り抜けたり、そういうことで乗り越えていくしかない。
 

 ただ、薄情なだけかな、という気もしないでもないが、正直なところである。

 この語りは、あの宮崎駿。
 巨匠に似ているのは薄情さか。

相当に遠い距離がある言葉

2010年09月03日 | 読書
 『森信三 一日一語』(寺田一清編 致知出版社)を少しずつ読んでいる。
 
 言葉を知らないなあ、知識が足りないなあ、と思いながら、電子辞書やネット検索を頼りに理解し、ようやく半分に到る。

 こうした言葉を使いこなせるようになりたいものだ。

 下学上達

 随処作主

 広辞苑にものっていない禅語もあり、調べるだけでも知識を得た気分になる。もちろん、気分で終わってはいけないと自戒するが、なかなかこうした言葉は遣いまわせないものだ。

 まだ、言葉との距離は相当遠い。

 国語の学習において常にわかりやすさを求めてきたツケもあるのだろう。
 その意味で、具体的な噛みくだいた言葉だけでなく、抽象語も指導の中で押さえていくという野口先生の言葉には納得がいく。

 知ることによって、まず目の前に姿を表す言葉。
 それを手に持てるかどうかは、毎日の生活や学びにかかっている。
 そして、それを身につけられるかどうかは、繰り返す頻度にかかっている。