すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもの頭の振れが止まるとき

2011年11月18日 | 雑記帳
 まったくそちらの方面は疎い自分でも、「二期会」という名前ぐらいは聞いたことがあって、本公演の前に九月に少人数で訪れていただいた時も、ちょっと聞き入った記憶がある。

 今日は総勢40人ほどの来校である。
 文化庁の「次代を担う子どもの文化芸術体験事業」に申し込み、県内では唯一の開催ということで、実に幸せな体験となった。
 数枚のスナップを、学校ホームページのトップに配してみた。
 http://www.yutopia.or.jp/~miwasho/

 オープニングは本校校歌を四部合唱にして披露し、子どもたちの知っている歌を交えながら、後半はオペラ「魔笛」のハイライトバージョンで締めるという練られた構成だった。
 
 しかし如何せん対象は全校児童、つまり1年生もいるわけで、休憩を挟んだとはいいながら90分を越す長丁場、後半には低学年のおよそ半数の頭がぐらぐらと…。中にはイスから立ち上がってしまいそうな子もいたりして…。

 ところがそうした低学年席でも、妙に頭の振れが止まり、集中を見せるときがある。
 それが何回となく見えるので、どういうときか興味を持った。

 それは全国で巡回公演をしてきた方々の一つの工夫でもあろうし、集中度を高めるための原則のようなことも見えるかもしれない。

 自分なりに発見したのは、次の三つである。

 まずは、声量が大きくあがったときのようだ。
 小学生にとっては難解な歌詞なので、やはりメロディやリズムに関心を持たせていくことだろうが、子どもたちが惹きつけられるのはやはりたとえば高音で声を張りあげたりするときのボリュームアップする時だった。

 次に、笑いを誘うような表情、動作が加わったとき。
 どうしても視覚優先ということはあるだろう。落ち着かない子どもでも目で動きは追っているということだ。

 そして、キャストが子どもたち(特定の誰かのそばであってもいい)の近くに寄ってきたときだ。
 子どもたちの絡みがあるわけではないが、距離が縮まるとぐっと惹きつけられるのがわかる。

 「声の力」ということを考える。
 鍛え上げられたプロの声には魅力がある。それだけでも十分価値はあるのだが、(あまり興味なさそうな)観客を前にしたときに惹きつけるための方策をいくつ持っているかという付随的な要素の大きさは無視できない。

「自分の言葉で」という驕り

2011年11月17日 | 雑記帳
 ある学校の冊子で研究主題の一部に「自分の言葉で表現しよう」という文言を見た。
 けして珍しい言葉ではないが、少しひっかかる気持ちが湧いた。

 「自分の言葉で」といったとき、どんな姿をイメージするのだろうか。
 文字通りに読めば、特殊な例を除き、誰しも自分の言葉で語ったり、書いたりしているだろう。
 それをわざわざ「自分の言葉で」と書くにはわけがある。

 その設定理由の説明では「主体的・意欲的」にという面が強調されていた。誰かに指示されたり強制されたり促されたりするだけでなく、自分から進んで表現することは当てはまる部分があるだろう。
 ただ一般的にいってもそれだけではちょっと足りない。
 「自分なりの」「個性的」といった意味合いが付け加わるのではないか。

 自分なりの言葉、個性的な言葉が表現されるのは、なかなか難しいことだ。だからこそそういう取り上げ方をしたのかもしれない。

 ただ、その自分なりの言葉、個性的な言葉の表現ということに、「文学的」なイメージを持ってしまうのは私だけだろうか。
 もちろん、その言葉に価値がないと言っているわけではない。究極的に人はそういうものを欲するのかもしれない。
 しかしそれは結局「自分が、自分は」を目指し、言葉そのものにきちんと向き合えない危うさも持つのではないか。
 それは驕りではないか。

 最近、頭にこびりついている一つの言葉がある。
 何かの雑誌の俳句コーナーで見かけたように思う。

 自分は小さい。けれど言葉は大きい。

 その自覚を手離さずにいたい。
 教育現場でも「自分の言葉で」と使うとき、どんな姿をいうのかもっと具体的で相応しい言い方はあると思う。

道具を武器と意識する

2011年11月15日 | 読書
 『武器としての決断思考』(瀧本哲史 星海社新書)

 先週の休日、大会応援の隙間時間に立ち寄った書店の新書コーナーでたまたま見つけた。複数の方々がネット上で紹介していたので、さてどんなものやらと買い求めてみた。
 
 「ディベート=意思決定のための具体的方法」ととらえて、詳しく論を進めている。非常に実際的でわかりやすく、一本ぴしっと芯の通っている好著だと思った。ぜひ娘に薦めたい(もう手遅れか、笑)。

 個人的に興味深く読んだのは「情報収集術」の章で、インタビューが取り扱われている箇所である。

 どんな人も「ポジショントーク」しかしない

 インタビューは「ナメられたもん勝ち」


 この小見出しは結構深い。
 ここでは企業での勤務上のことや人生計画などが例にだされているが、私がふっと思ったのはこれは教育研修としても十分使えるなあということ。

 この頃、学校や所属している組織などで講師を迎えて研修をするとき、質疑応答の進行をすることが多い。これは単なる司会ということでなく、講話の内容をさらに突っ込めるような意図で行っているの、やはり事前準備なしにはできない。
 ある程度のリサーチをしながら、予想される展開からいくつかの項目をピックアップしてみる作業をしている。
 どんなふうに尋ねるか、広げるかはその時次第だか、原則的なことがこの著には書かれていると思った。

 結論ではなく「理由(根拠)」を聞く

 一般論ではなく、「例外」を聞く


 誰しもポジションで語ることは避けられないのだとしたら、理由・根拠こそ聞く者にとって共通性を見いだしやすいもの、例外こそその方法等の特徴を見いだしやすいものではないか、そんな発想が浮かぶ。
 遅ればせながら自分もそうした技に磨きをかけたい。

 そう書いてみて、この本の書名にある『武器』という言葉が気にかかってくる。
 比喩には違いないが、それに著者の一番の思想が表れているのではないか。

 道具と武器では道具が上位概念であるから、武器と限定したことに、著者の強い意図がある。
 一つは「はじめに」に記されている。

 自由と解放を求めて自ら戦場に立たなければならない

 つまり、そういう社会認識への背中押しである。

 もう一つは有効な道具を手に入れた者は、その力を使って生きていく、戦っていくという信念である。

 伝える者のエネルギーによって左右されるその教育効果こそ、私たちが意識しなければならないことである。

繰り返される動きの哀しみ

2011年11月14日 | 雑記帳
 週末にイッセー尾形の一人芝居を観た。
 三度目となる。
 今回はいずれも震災以後に創った新作ということだった。
 http://www.issey-ogata.net/
 
 何か特別な題材を取り上げているわけではない。しかし、自分としては三度目になってようやく、どうしてこの舞台は面白いんだろうかと考える余裕みたいなものが心に浮かんだ。
 優れた人物描写には違いないのだが、何か共通項のような観点があるのではないか。

 今回の舞台で取り上げられた、「自転車に乗れない女」「機械工」「ホテルのボーイ」等々…どれをとっても「繰り返される動き」に笑いが誘われる。
 その動きは、その人の履歴や嗜好などが見事に理解できるように組み立てられるから、観客に伝わってくるのだと思う。
 もちろんそれは言語の場合もあるのだが、イッセーのしなやかな身体によって強調され、目に焼きつくようなイメージを残してくれる。

 そしてまた、それを観て笑う自分たちの姿も、ちょっぴり俯瞰できるような雰囲気があり、普通の演劇や落語などとも違う独特の空間なのかなあと思ったりする。

 繰り返される動きは一種の哀しみを湛えている。
 それは誰しも持っているものである。
 仕事上のこと、家庭生活の中で、小さいときからの癖など…。
 それらは芝居の中では笑いによって客観化されるが、現実にそのどうしようもなさから脱け出ることはそんなに容易ではない。
 それでも一瞬であっても笑い飛ばせれば、自分の心をほぐしていくのではないかと思う。

 まず向き合おう、とイッセーは示しているのではないか。


 さて、今回のセリフで印象深いものを二つメモしておく。

 中小企業?の上司が部下に対してやや説教めく場面である。一面の真実と哀しい現実の取り合わせが、なかなか渋い。

「空気はなあ、読むものでなく、吸うものだ!」

「昔は、アレルギーとノイローゼの二つで済ませられたんだけどな」


 自分も思わず言いそうになる一言だ。

いちいち、いちいち

2011年11月11日 | 読書
 震災でキャンセルになってしまったが、楽しみにしていた落語会があった。
 柳家花緑と春風亭昇太という、落語を少しでも知っている人にとっては豪華な組み合わせ。残念ながら再公演の日は都合が合わなかった。

 そんなことでまだ聞いたことのない一人となる花緑の文庫本があったので読んでみた。

 『僕が、落語を変える』(柳家花緑+小林照幸 河出文庫)

 小林照幸というノンフィクション作家が、いわゆる聞き書きスタイルで花緑のことを語ったものである。およそ十年前に単行本が出されている。
 この十年は、俄か落語ファンの私にとっては範囲の広がった楽しい時期だった。その中で花緑と言えば、あの人間国宝「小さん」の孫という認識のままであり、注目されていることは知っていたが、私の狭い範疇ではめぐり逢わなかったというのが事実である。
 ただテレビ番組での「寿限無」はずいぶん有名になったらしく、なんと国語教科書(光村6年)にも顔写真入りで載っているではないか。

 さて、この本の内容はいわば落語家エリートとも言うべき花緑の光と陰の部分を伝えるものだが、いずれ凡人のはかり知れない、芸能の「伝統を担う」ことの重みがその端々から伝わってくるようだった。
 伝統芸能の世界にある「襲名」ということの本当の意味を、私はなかなかつかめないが、そこに込められた感覚はやはりその世界に染まった者でなければ受けとめることはできないかもしれない、などと考える。
 「師匠」「弟子」と言い方もよく使われる。一般的な意味ではなく、こうした世界における言葉の響きはもっと噛みしめてみると、芸能の中に流れていく筋のようなものが見えてくるのかな。
 何でつながっているのか、どこまでつながっているのか、そういう探り方も案外面白い。特に立川流などはそうだ。


 ところで今日はポッキーの日だそうである。今年は暦的にかなり稀な日ですよね。
 ちょいと記念にとってみました。
 今日までの男にならないように…。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-3826.html

こんな日もある

2011年11月10日 | 雑記帳
 日記といっても数行のメモ程度だが、ここ数年どうにか続けている。少しまとめて書きとめておきたいことは、このブログになるわけだが、たまには一日の出来事をここに残しておくのも悪くないなと思い、打ちはじめる。

 もう3時台で少し目を覚ましたが、うつらうつらしながら起き出したのが5時過ぎとなった。
 いつものようにメールチェック、日参ブログ等チェックをして、朝風呂の読書。月曜から読み始めた『僕が、落語を変える。』(柳家花緑+小林照幸 河出文庫)を読了した。

 7時35分自宅を出て、10分ほどで学校到着。今日の予定を確認してから校内を廻る。
 今日は久しぶりに授業がある日なので、それに持ち込む大型テレビを探したらいつもの場所になくて少し慌てる。使用した後体育館にあるということで、そこから移動。接続するデジカメと中味をチェックして、授業の準備終了。
 
 火曜日の研修会の感想集作成を始めたら、6年生の蒔絵体験活動の講師の方々がお見えになったので挨拶。感想集は表紙だけ作って、2年生の国語授業へ。
 もう自分のなかでは「定番」となった国語辞典の導入授業。
 今日もまずまず。ふだん目立たない子が活躍したと担任が言ってくれるので嬉しい。

 小休憩のあと、6年生の蒔絵体験授業の参観。写真を撮りながら、製作の様子をみる。なかなか貴重な体験だと思う。
 
 昼まで1時間ほどあるようなので、今週締め切った保護者アンケートの自由記述をまとめることにする。好意的な感想も多いが、やはり考え方は様々。どう折り合いをつけていくかは、毎年の課題である。要約してなんとか1枚にまとめる。

 お昼になって6年生の授業が終了したようなので、講師の方々と軽く談笑。漆器の普及の難しさを聞く。
 給食。メニューはとんこつラーメン。もちろん食べる頃には適度に(笑)冷えたスープである。
 食べ終わってから、学校HPアップ。
その後、1時前から学校の近所にある小規模のケアセンターを訪問。以前から、学校の子どもたちの発表など出来ないものかと相談をうけていて、そのための場所がどんなものか確認するためである。予想以上に狭く、内容面では限定されるだろうと話してきた。

 学校に帰ると、町の読み聞かせボランティアの方々がすでに来校していた。
 読書タイム開始のチャイムがなる頃に、実施予定学年が間違っていたことに気づき少し慌てる。
どうにか終了。少し懇談して、最近の読み聞かせの様子などを聞く。

 見送った後は、研修会感想集に取りかかる。個々の職員の感想をキーワード別に並べ換えて編集することに決定。写真も少し入れて体裁を整えようと頑張ってみる。
 2時半が過ぎた頃には、中学校から音楽の先生が来校。今日は5年生に指導をしてもらう約束をしていた。
 ここでちょっとした生徒指導上のトラブルがあり、ある子が担任に連れられてくる。中学の先生にも見てもらいながら少しやりとりする。その後しばし談笑し、5年生の打楽器指導を少し見る。音楽の指導は変化がわかりやすく実に面白い。
 
 再び、研修会感想集のまとめをしようと取りかかる。
 4時まで少し進めたら、今日は職員打ち合わせの日。来週の予定確認がある。降雪のことや今後の面談予定について話す。
 4時半前に、部活動の指導者の方と約束していたことがあり、来校していただき相談。児童数減が続くなかで、今後の展望について意見を伺う。

 5時過ぎに終了。職員室ではたくさんの職員があれこれと仕事をしている。作文、詩のコンクール等の締め切りが近づいていて、相談2件。それなりの返答をして、例の感想集を3行ほど区切りのいいところまで書き、パソコンの電源を落とす。

 退勤。振込まなければいけないものがありコンビニへ。525円振り込み、一応一回りしたら、ビールの棚に「とれたてホップ 一番搾り」と「冬物語」というラインナップがある。
 確か昨日が発売日だったような。
 ということで1本ずつ購入し、我が家へ…。お疲れ様でした。半分ぐらいのことしか書いていないが、結構いろいろなことをした一日だった。

秋、いのちの詩を読む

2011年11月09日 | 雑記帳
 昨日午後、秋田大学の成田先生をお招きして校内研修を持った
 「授業力向上セミナー」と銘うって続けているものである。三年生を相手に特別授業をしていただき、それに絡めた講話をしていただいた。

 本校の今年度の研究副主題として掲げてある「学習形態の工夫」に関わって、成田先生に提示していただいた授業は「連詩」の授業だった。
 この方法については十年ほど前に大内善一先生(茨城大)からお話を聞いていたのだが、実際の授業を参観する機会がなかったので実に貴重だった。

 詳細な学びについてここでは触れないが、とにかく子どもたちの明るい表情が印象的だった。「創作と鑑賞」を協同学習という形で取り組める魅力ある実践だと感じた。
 これは東京書籍の4年版教科書に取り上げられているので、教科書活用を考える意味でもいい刺激となった。

 さて、そこで子どもたちが創り上げた詩はたわいない内容なのだが、今日の全校集会で少し紹介して「芸術の秋」の雰囲気を漂わせたいと考えた。
 ただ話の構成としては、何か締めとしてじんわりと伝わるような詩などを読んだほうがいいだろうと思った。

 手元にある本を何気なくめくっていて、目にとまったのが三越左千夫という詩人の「いのち ~りすとくり~」という詩。

 秋という季節に、いのちの深みを感じさせてくれる内容だ。
 また、読む年齢が違えば、それぞれ受けとめ方が違うかもしれない。

 集会では2回繰り返して読んだ。
 じっと聴き入ってくれた(ように見えた)。

 ここで紹介されている。
 http://www.matsuyomi.co.jp/showashi/showashi_BN_021.html

わかっている人は、こう表現する

2011年11月08日 | 読書
 『佐藤可士和の超整理術』(日経ビジネス人文庫)
 http://www.nikkeibook.com/detail.php?class_code=16594

 超のつくほど有名なデザイナー(アートディレクターと書かれてある)である。
 デザインに関心はあるほうだが、造詣が深いわけではない。
 ただ自分の興味ある舞台によく姿を現わしてくるのが、この佐藤可士和である。

 それは雑誌であったり、ウェブサイトであったりする。
 本を手に取ったのは初めてだったが、読んでみるとこれが著者にとっても初めての単行本だという。

 整理術の本は他にもいくつか読んだことがある。その中でもこの本は実に喧しくなく、文字通り整理されている印象を持った。
 整理のプロセスは、状況把握、視点導入、課題把握とシンプルにまとめられていて、それをフォーマット化しているのでわかりやすい。

 特に印象深いのは次の二つのポイント。

 自分や相手の考えを言語化してみる

 アップデート


 目新しい言葉や考えではないが、実に明快だ。
 言語化しなければ、「見えない」「伝わらない」。
 視点は不変のものではない。定期的にそういう時間、作業を持つことで整理を維持していくという発想も強固だと感じた。

 デザイン、アートという仕事上のことでなく、「表現者」だなあと感ずる。
 また「わかっている人」なんだと思う。そうでなければ、こんな表現の仕方はなかなか出てこないと思った。

 表現とは、たとえればスープのようなものでもあります。たくさんの情報のなかから魅力を抽出したあとに、旨み(魅力)のエキスを凝縮するような感じ。

 超一流と呼ばれる板前やシェフもまた、整理に長けていることは間違いない。

自分で自分を教育する

2011年11月07日 | 読書
 『ただ一人の個性を創るために』(曽野綾子 PHP文庫)

 この著の要諦を一言で表すとすれば、「文庫版まえがき」に記された、この箇所を挙げたい。

 自分で自分を教育するほど、楽しいことはない。

 しかしそれは同時に厳しいことであり、それを受けとめる覚悟をつくることを「教育」というのかもしれない。

 この本にも様々なエピソードが書かれ、また背筋をのばすように読むことができた。
 考えさせられたのは、著者が日本財団の理事として面接試験を通して驚いたと挙げてある、次の三つのことだ。

 誰もが揃いも揃ってリクルート・スーツなる没個性的な服を着ていること

 今の若者たちが、自己宣伝をすることに対して少しも羞恥を持たないこと 

 短い作文の実に下手なこと

 この三つの関係は、実に象徴的なのかもしれない。
 つまり、没個性的な外面だけれど、内面はそうでないと宣伝はできる。しかし、的確で強い芯を持っているわけではない。

 もちろん、先の二つについてはいわゆる就活のセオリー的なこと(我が家の子もそういうことをしていたのは事実)を守ろうとしているだけとも言える。
 だが、結局三つ目の指摘によって、その浅薄さは露呈してしまう。

 著者が小さい頃から文章表現に親しみ、見方が厳しいのだと言えなくもないが、おそらくはそういう教育があまりされてこなかった若者が大半であることには違いない。
 それは作文技術ということよりも、自分の考えを練り上げて短く端的に表すことがおよそ足りなかったと言っていいと思う。

 結局それは、そうやって組織や社会を形づくっていくほうが都合が良かったのだという見方ができる。
 口でいくら個性、個性と叫ばれても、目に見えないラインか有刺鉄線で囲われたような、真綿で包んだような世界の中で、わずかな相違をたいそうに語る程度のことしか意識されなかった。

 それはもはや、見せかけの個性づくりと呼んでいいかもしれない。
 現場にある閉塞感の大きな部分を占めているような気がする。

 そう考えると「自分で自分を教育する」楽しさを感じさせることこそ、それらを打ち破る核となるか。
 大きな言い方をしたけれど、日常の学校生活の中にも、一時間の授業の中にも、そのきっかけは溢れているはずである。振り返ってみる価値は十分ある。

小春日和にカメラ噺

2011年11月05日 | 雑記帳
 デジカメの普段使いラインナップを大きく変えて、九ヶ月が過ぎた。

 戯れに「愛人カメラ」と称しているリコーのCX4の頻度が圧倒的だが、本妻のα55も実際なかなか使いまわしがいいのである。

 自分にとって初めてのデジイチであるα55を触っていたら、思い出したことがあった。

 キャノンやニコンに手を出せなかったわけは様々あろう。しかしよくよく思うと、フィルムカメラ時代に購入したのもミノルタのαだった。ソニーと一緒になったのはいつだったろうか。

 ソニーブランドが特に好きというわけではないが、自分の年代にはやはりソニーという刷り込みが多少あるかもしれない。ビデオカメラもハンディカムだし、それなりの愛着はある。
 落ち目ではあるのだろうけど、もうちょっと頑張ってほしい。

 さて、ミノルタはごく安いモデルであり、初級者の自分には最適だった。
 自分の子どもはもちろん、職場でカメラ好きの人がいて一緒にこんなことをした。毎月テーマを決めて被写体を探し(多くは児童の姿だったと思う)、1枚仕上げ、職員にどちらがいいか判定してもらう。作品を貼り付け回覧して評価されてくるのを待つ…なかなかいい時間だった。遊ぶ余裕があった。

 もっと時間を遡ると、それ以前に自分が買ったコンパクトカメラが二つあることを思い出した。
一つはフジのような気がする。色も形は覚えているが検索できない。いわゆるコンパクトズームである。

 その前はこれはしっかり覚えている。
 初めて自分の稼ぎで買ったカメラである。
 あのジャスピンコニカだった。
 
 これはもう画期的なカメラだったと言ってよいだろう。
 カメラを持つことが普通になってきたことの一つの象徴的なモデルではないだろうか。

 この発売年、そしてコニカがミノルタと一緒になり、最終的にはソニーと一緒になったこと、今買ったのもαシリーズだということ…何か因縁めくものを感ずる。

 最終的にαを使いこなせるようになったら、自分でも嬉しいと思う。この齢だと中級者は目指せないかもしれないが、初級者のベテランぐらいまでにはなりたいものだ。

 昨日の午前は以前務めていた市のあちこちをめぐり、紅葉を中心に100枚ほど撮ってきた。全然満足していないが、まずは現状メモということで残しておく。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-7c69.html