すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

文化の日『悪人』再読

2011年11月04日 | 読書
 連休に心躍らせたわけではないが、三時半頃に目が冴えてしまって起き出す。

 日曜日夜に昨年話題となった『悪人』の映画がテレビ放送されるとあったので、もう一回あの小説を読んでみようと思った。
 
 4時頃から読み出し途中少し休みつつも10時前に読了した。やはり面白い。
 単行本が発刊されたときに話題になっていたので購読した。あれから吉田修一にはまり、文庫本は全て読破しているがやはりこの作品が一番のように思う。

 2008年の正月に、こんな感想を書いていた。 

 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/ae46dce863a8a1f74cc3bd6ad9fc19f8

 今回改めて感じたことは、こうした手法(登場人物の回顧、証言などが挿入される形)が実に効果的であるということ。そして、それらは、そのままテーマである題名と突き合わせられる形になっているんだなあということ。ここのあたりは巧みだなあと思う。

 さて、映画が話題になったあとの読書だとイメージされる人物にどうしても顔が浮かぶということがある。しかし、実際のところ、妻夫木聡と深津絵里しか覚えていなかったので、それ以外はどんなキャストにするんだろうなあと、やや想像をめぐらしてみるのも楽しかった。
 特に、主人公の祖母役、殺された石橋佳乃の父親役などこの人に演じさせたらぴったりなのにという俳優が浮かびあがってきた。
 読み終わった後に検索して調べたら、全然違っていたけれど、それぞれ樹木希林、柄本明なら、納得の配役だろう。

 おおっと思った配役が、大学生の増尾圭吾役と殺されるOL石橋佳乃役である。岡田将生、満島ひかりではないですか。
 若く弱い、ある意味で醜悪な姿として描かれるこの二人だが、なるほどの抜擢である。
 期待してみたい。

 原作のどこを省いて作品化するのか、いやこれは逆だろう、どこを集めて作品化するのか、そういう視点でも観てみたい。

晩秋の月となり

2011年11月03日 | 雑記帳
 振替休業日があるので四連休という、ちょっとした秋休み気分である。もっとも土日には大会などがあり、忙しく過ごす子どもたちもいるのだが。

 さて先週末から、視聴覚教育の研究会に参加したり、図工の講座や授業研で絵画鑑賞が設定されたりで、絵や写真などに縁がある日が続いた。

 国語教科書に写真や絵画資料を中心とする教材が取り入れられ、また美術では「対話による鑑賞」という活動が出てきたりで、いわゆるPISAの読解力対応とされる動きが活発だ。
 個人的には非常に面白く感ずるし、この類の実践がもっと豊富に出てくることは大歓迎である。
 
 それにしても、絵画などの資料を見て自由に語る活動は、いろいろと可能性があるなあと考えさせる。
 社会や理科などで、資料を見て「気づいたことを発表させる」活動はよくあることだが、鑑賞の場合の自由度はもっと高い。つまり想像を膨らませていけるわけだ。
 だからこそ、教師の助言や問い返しなどは重要になってくる。

 個人の感覚で取り上げられたことの背景を探ったり、イメージが広がる、または伝わるように言い換えさせたり…。
 言葉への敏感さは国語教師以上のものが要求されるのではないか。

 1日の講座で、図工・美術の授業である以上は「造形的要素」に触れることが大切と今さらながらに教えられた。
 自分が描いた絵に、説明やふりかえりを書かせる活動はよくあることで、そのコメントが丁寧さや頑張ったことだけではやはり片手落ちである。

 そういえば、もう二十年も前にこんなふうにして自分の作品にコメントをつけさせたことがあると思い出した。
 造形的要素を取り上げた文章がたくさん出てきた。
 なかなかいい指示と、今になって自画自賛である。

 「自分の作品のどこがいいか、ありったけ誉めまくる文を書きなさい」


 晩秋の月に入った。
 初日の朝は、濃霧が9時近くまで続いた。
 絵に挑戦する自信も余裕もないので、せめてマイカメラで季節を撮ろう。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-eb7a.html

「分かりやすい授業」を分かりやすく

2011年11月02日 | 雑記帳
 今日、参加した授業研究会で、協議の視点の一つ目が妙に気になった。

 分かりやすい授業

 いや、ごく普通の言葉であり、よく使われているのかもしれない。数日前に送られてきた指導案等を見ても何も感じなかったのだが、さてKJ法を取り入れた協議を始める段になって、付箋に書こうかと考えたとき、「えっ、分かりやすい授業ってどういうことよ」という思いが突然浮かんできた。

 これがもしかしたら、国語とか算数などであったらそんなことを感じずにいたのかもしれないが、参観した授業は美術…少し立ち止まるのは人情?というものだろう。

 少人数だったし、グループ内に授業者がいたので、素直に尋ねてみる。

「美術で、分かりやすい授業って言ったとき、どういうことを指すんですか?」

「んんっと、子どもたちがその時間何を目指して活動するか、進め方がわかる、ということですかねえ」

「ああ、そうすればも、子どもが活動しやすい授業ということですかねえ…」
と7割ほどは納得して、時間もないので協議を始めたのだった。

 しかし、そこはいつもの私の性癖で、「結局、分かりやすい授業とは何を指しているのか」という3割の疑問が徐々に頭を支配してきて、いつものごとく自問ブログになるわけである。

 「分かりやすい」が参観者の視点でなく、学習者の視点であることは確かだろう。
 従って、理解する教科であろうが技能教科であろうが、あまり大差はないだろう。
思いつくままに挙げればこんなところだろうか。

 「活動する目的がわかる」
 「活動する手順や方法がわかる」
 「活動を集中して、熱心にできる」
 「活動後したあとの満足感、充実感がある」

 図工や美術であれば、それは作業態度や作品という形で結実するのでわかりやすいではないか…と。
 ところがどっこい、「鑑賞」の授業なのである。

 鑑賞活動における「分かりやすい」はどこに置けばいいか迷いがでるが、少なくとも最終段階で、新しい気づきや自分には今までないものの見方を学ぶことに疑いはないだろう。
 しかし、そこへのアプローチは様々であり、それらの手法が「分かりやすい」かどうかという形容は、あまりふさわしくない気がする。

 そう考えると、国語や社会の授業においても同様で、この表現自体がもう古い!と言い切ってしまおう。
 もはや手垢に染まってしまった。
 世代交代して、新たな表現にしよう。

 学びやすい授業

 どうです。これなら対象もぶれない、その視点での教師の働きかけの意図も問える。
 分かりやすいでしょう。