すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

食卓を取り戻す舵を考える

2012年09月17日 | 読書
 職場に送付されてきた『小学校時報』の特集が「食育・健康教育」ということで、冒頭にかの服部幸應氏の文章があった。

 いわゆる「食育」の立役者のお一人で、これまでも何度かそれに関連した文章を見た気がするが、今回のはなかなか惹きつけられた。

 特に「食育に取り組むきっかけは若者の乱れた食生活」と題された章は、二十三年前の服部栄養専門学校の学生たちを取り上げ、その食生活の実態を、赤裸々に述べている。

 服部氏は、学生の新入時に一週間の食事日記を提出させ、その結果のバランスの悪さを把握した。そして食事についての専門的な知識や技術を学ぶ2年間で改善するように言い渡した。

 そして2年後、再度一週間の食事日記を提出させた服部氏は、その結果に大きなショックを受けたのである。

 改善率を数値にして算出した結果は、わずか6%だったのである。
 半数程度の改善を予想していた服部氏は「目を疑いました」と書き,この結論を得る。

 頭では理解しても、それがいざ自分の生活習慣となると、驚くほど活かされていない

 青年期における食生活改善はすでに遅いことを悟り、正しい食習慣を幼少の頃から…という願いで、今の取り組みに至っているということである。

 しかし、おそらく様々な書籍やメディア等で指摘されているように、家庭内の食事はかなりのスピードで崩れかかっている現状がある。

 そういう実態を踏まえて、社会教育などによる啓蒙もあるにはあるが、やはり学校教育において推進しようと持ち出されてきたのが食育の大雑把なところではないか。

 今の食生活の現状をどうみるかを、親・保護者の世代に問いかけて、どの程度の反応があるものだろうか、少し心配である。
 それは家庭教育の衰退ばかりが原因とは言えないからだ。
 私たちを取り巻く食産業、流通産業の方向ひいては自給や経済全体が影響を与えていることは間違いない。

 それを「食育」、学校においては「食に関する指導」で改善の糸口を見つけようなどとはどこかピントが甘いような気がする。
 もちろん「食育否定」ではない。やるなら、もっとダイナミックに舵をとらなければ、食生活改善には結びつかない。結局のところ栄養専門学校の生徒にように「頭でわかっていても」の状態となるのではないか。

 服部氏が求めているのは「食卓」を取り戻すことだ。
 それはもはや食の問題ではなく、政治経済の問題であり、価値観の問題であると思う。

全てマンネリ化の道を歩いている

2012年09月16日 | 読書
 横山験也さんのサイトで、次の本が紹介されていた。
 http://www.kennya.jp/%E8%89%AF%E6%9B%B8/noudama/

 『のうだま やる気の秘密』(上大岡トメ・池谷裕二  幻冬舎)

 池谷ファンであるとともに上大岡プチファンの私ならば、読まねばなるまいと思って早速注文した。

 書名の「のうだま」とは、今まで読んだことから言うと「脳騙(す)」のことだなと思っていたが、実はそれではなく「脳球」のことらしい。二つの掛け合わせということもあるかな。

 「のうだま」と称された「淡蒼球」という存在は興味深い。
 自分の意志では動かせない「球」を動かすための起動スイッチが4つあり、そのコツはどれも今まで何かで読んできたことだが、それらをコンパクトに頭文字をとって「BERI」と名付けられているところも、ストンと入ってくる。
 このコンセプトがあるからこの二人だ、と思える。

 「のうだま」をくるくる回すイメージ、その動きが遅くなったら、または止まりそうになったら、どれかのスイッチを押して、また回転させていく…それが絵的に残るので、嬉しい。


 言葉として一番残るのは「馴化」「マンネリ化」である。
 それを「善玉マンネリ化」「悪玉マンネリ化」と称したのは傑作である。

 「教育とは、より良き習慣をつけることにほかならない」とよく言われる。これをこの本流に言い換えれば

 教育とは、よき行動を選択し「善玉マンネリ化」を進めることである、とでもなろうか。

 継続は力なりと信じて取り組むのだが、結局はマンネリ化のことだと心得ておくことはとても大切なことだ。
 それがどの方向を目指したものか、善玉であるためにどんな変化を取り入れるかといった視点でチェックすればよいか、わかりやすい。

 それにしても、コレステロールの例を考えると、悪玉といわれるマンネリ化も全て無くなるというわけではないので、そこそこのバランスをとっていることが健康なのかな。

 コレステロールもマンネリ化も悪玉に支配されている私の言い訳である。

教師の対話術を数える

2012年09月14日 | 読書
 『発問・説明・指示を超える 対話術』(山田洋一 さくら社)の続き…

 ちょっと時間があったので、著者が提示している35の技術を表に簡潔にまとめてみた。
 「引き出し型」「束ね型」「寄り添い型」と並べてみて、ぽつぽつと共通の要素があることがわかる。

 端的にいえば「おもしろさ」「わかりやすさ」「やさしさ」ということだろうなと考えた。
 単独の要素だけでなく、二つを混ぜ合わせたり、三つが重なったりしている技もあるように思う。

 個人的に、ああ使ってみたいと思った二つのことがある。

 ひとつは、「束ね型」の最後にある「簡単なことを高度に、高度なことを簡単に」の項目だった。
 何気なく実施しているとは思うが、この意図はなんだったかと改めて振り返ることが出来た。

 もう一つは「寄り添い型」の「同じ表情をする」。これはかなり効果的のように思う。
 天性のようにそのことを出来る人がいるが、それはきっと性格的なものが多分にある。
 そして、その同調行動は小学生の場合は安心感につながることを改めて思う。


 さて表にまとめてから、ふと思いついて、地域の研究会が主催する授業参観に使ってみることにした。
 授業者はこの対話術の35項目をどの程度使うものだろうか、何か特徴がでるものだろうか。

 途中、別教室に行ったが40分弱は参観できた。
 その教諭の結果としては「引き出し型」が4、「束ね型」が1、「寄り添い型」が1というチェック数だった。途中のグループ指導についていけなかったので、おそらく「寄り添い型」がいくつか増えると予測できる。

 一単位時間としてはこの数ぐらいが妥当なのだろうか。
 また、教師によっての違いはどの程度なのだろう。おそらく得意な(頻繁と使う)技術はあるだろうが、バランスはどうなるのか…いろいろと膨らむ。

 これからの研究会シーズン、記録して分析してみれば結構面白いのだろう。

 しかし、そこまでは到底無理だな。誰かやってくれる研究者などいないものか。

対話術を意識してつかう

2012年09月13日 | 読書
 『発問・説明・指示を超える 対話術』(山田洋一 さくら社)

 「対話」が教育界のトレンドの一つになっている気がする。
 そして、この本での「対話」はきわめて限定的である。

 対話の対象は「教師と子ども」であり、ここには子ども同士は含まれていない。そして中心場面は「授業」をメインとした学校生活になっている。
 つまり「発問・説明・指示を超える」という形容からわかるように、主として学習を成立させたり、意欲を高めたりするための、子どもに対する対応技術、そのうちの直接的な言語面を取り上げていると言ってもよいだろう。

 さて、野口芳宏先生の授業名人たる所以の一つに、その「受け」の技術がある。
 それは先生ご自身のご人格もさることながら、若い頃から積み重ねてこられた膨大なキャリアに支えられて構築されたものと考えられる。
 授業を拝見するたびに、また模擬授業をうけるたびに、その柔軟さに舌を巻く思いをすることがあるのは,私だけではないだろう。
 それは「受け」が、いわゆる「攻め」に比べて上達論を示すことに難儀であって、なかなか身につかないと感じている人が多いことを示しているような気もする。

 この著には、野口先生や他の授業名人と称される方々が使われている技術を端的に示している箇所が結構見られ、参考になる。
 さらに、「引き出し型」「束ね型」「寄り添い型」と日常の場面に即して分類していることも成功しているように見える。

 いくらか重複している点や、技術としての表現にやや一貫性が欠ける点もあるが、これらの技術は基本的に「使える」し、全てでなくとも(感覚的にはおよそ半分を)身につけることで、かなり対応力に自信を持てるのではないか。

 教師のタイプは様々でも、子どもとの対話を軽視するわけにはいかない。そしてそれは明らかに、いわゆる教師力の一部である。
 「対話術」を突き詰めて、意識してつかうことの大切さを、著者は説いている。

 第一章にある「周りの子どもたちへの意識が、教室における対話術の真骨頂」という言葉から、集団統率力までに思いが及んでいるこの部分は、なるほどと納得させられた。

 集団統率力とはいったい何かと問われれば、私はその一つとして「一人の子どもに指導しているときに、周りの子どもたちを意識できる能力」を挙げます。

 日常の学校、教室に、そういう「時」「場」がいかに多くあるか、今さら言うまでもない。

これも表現のエネルギー

2012年09月12日 | 読書
 『みんなで国語辞典② あふれる新語』(北原保雄 大修館書店)

 2009年の刊である。実は自分の携帯電話内に電子辞書?として内容が入っていた。しかし画面でみる習慣はないので、古本で見つけたときに、すぐ買ってしまった。

 それにしても、この造語エネルギーは凄い。
 いったい誰が作っているんだろうと想像してみるが、何か流行らせるための集団がいるのだろうか、訊いて回る役目の人がいるんだろうか…いろいろなことを考えてしまう。
 最終的にはこの辞典の企画で募集していることはわかっているが,どこかで使われているのは確かなようだし…

 さて,第1章の「恋の新語」をぺらぺらと見ながら、仮説がひとつ浮かび上がってきた。

 こんなふうに新語をつくりだすことが、もし今の若者の特徴の一つだとすれば、それはきっと、
「言葉に自分を近づけるのじゃなく、自分に言葉を近づけたい」
「自分(もしくは友人など)の今の状態には、新しい名づけが必要だ」
 そんなふうな思考が底にあるのではないかな。
 簡単に読めない赤ん坊の名づけも、それに近い感覚ではないかな。

 語彙数が少なく、自分が知っている、よく普及している言葉の組み合わせによって、言葉を作り出し意味づけしてしまう…基礎基本を教える職業上の立場からは苦言を呈したいこともあるが、実は若干の羨ましさもある。それは作り出すエネルギーや目のつけどころに新鮮さを感ずることが結構あるからである。

 意味の拡張は、一つの連想である。
 言葉と言葉のドッキングは想像力の一つといってよいし、俯瞰する力も入っているように思う。
 編著者の北原氏は「若者言葉のたくましさ」という。

 ここに収められた約1200語のうち、百分の一も使うことはないだろうし、忘れていってしまうのは当然にしても、まさしく表現のエネルギーが感じられるのは確かだ。

 「オノマトペの新語」を見ていたら、そういえば自分のオリジナルの一つとして、オノマトペを創り出して俳句をつくる実践があったことを思い出した。
 「擬音語で俳句を作っちゃおう」…個人集約を読み返してみる。
 おっ,なかなかいい句ができているではないか。

 ぺらぷらとお世辞止まらぬ母の口

 しゃりしゅると鏡の中で歯をみがく

二人の朝のお話

2012年09月11日 | 雑記帳
 学校への入り口の交差点、横断歩道を渡ってから10mほど行ったところで、A男が「おおうっ、でっけええ」と言って立ち止まった。
 どうやら、青虫か芋虫でも見つけたらしい。

 集団登校の同じ班の子たちは、一瞥しながらさっさと校舎の方へ向かっていったが、A男はしゃがんだままなかなか離れない。
 そばで登校班の来るのを待っていた2年生の二人組も参加して、じっとその行方を見守っている。

 そこに自分の班から遅れて、悠々と?登場したB男が加わる。
 かの場所は完全な歩道であり、危ないということもないから、この後いったいどうするものか、少し声をかけないでおこうと決めた。

 横目で見ながら、街頭指導を続けていると、次々に子供たちがやってくるが、ほとんど目をやるだけで、さしたる興味もないまま(といっても街頭指導を続けたままで、横目で見ていたから正確ではないが)校舎の方へ足を進めていた。
 2年生二人も登校班に加わり、その場を離れた。

 改めて目をやると、加わったのがC子。自分の登校班から抜け、立ったままだがじいっと見入っている。
 A男は、細い枝なのか草なのかわからないもので、接触?を試みている。それをB男が何やらつぶやきながら見ているようだ。
 C子は少し経ったらなんとなく立ち去り、結局残ったのはA男、B男の二人となった。

 登校班の列が少しきれて、二人(+虫)のいる所を通る子が少なくなったのだが、一向に動こうとしない。

 やはり「好奇心が旺盛」?「目の前の出来事にすぐ目を奪われる」?「周囲と安易に同調しない」?タイプなのか、この二人は…と考えてしまう。
 職員間の話題によく登場する子たちであることに、妙に納得してしまう。

 もしかすれば教師にとっては扱いにくいタイプであっても、見方が一通りでなければいくらでも解釈が成り立つし、それにそった助言ができるのではないかなあ。
 そんなことを考えていると、最終の登校班が横断歩道を渡り、二人のいる場所の方へ向かっていく。

 「これが、最後の班だよ」と、二人の方を向いて声をかけてみたら…結構、淡白にその場を離れてしまった。
 ちょっと肩すかし…。
 「見てみて、ねえ」とでも言われたら、すぐ寄っていったのに…。
 「体験」としては十分だったのかな、何か「学び」につながる声をもっと早くにかけるべきだったか。

 二人が校舎の方へ向かった後、その場所を通るとき、相手をしてくれた青虫くんはどこかなと探したら、いたいた、こんなところに。
 お礼の意味を込めてパチリと撮ってみました。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-fbe3.html

転職するなら,この商會へ

2012年09月10日 | 読書
 愉快な本である。

 自分の頬がこんなに緩みっぱなしなのは珍しい。
 今年初の五つ星ランク。自分の好みにぴったりはまった。

 『ないもの,あります』(クラフト・エヴィング商會  ちくま文庫)

 こんなふうに誘われる。

 よく耳にするけれど,一度としてその現物を見たことがない。そういうものがこの世にあります。たとえば<転ばぬ先の杖>。あるいは<堪忍袋の緒>

 もうだいたい想像がつくと思うが,要するに「比喩として使われる物体あるいは自然物などを,販売すると仮定して,その使用法,使用上の注意もしくは心得などを,真面目に?語った本」である。

 なんだかこの言い方は,「身も蓋もない話」だなあと思いつつ,この商會では,そんな話の載った本は売っていなかった。

 私が特に気に入ったのは,商品番号第3番の「左うちわ」。第7番の「地獄耳」。

 ああそれから三本セットとなっている「相槌」なんかも重宝だなと思った。

 「予備」として販売されている,第9番「自分を上げる棚」を買いに行きたいのだけれど,ここに書いてある通りにたしなめられるのだろうな。

 購入される前に,現在お持ちになっている,生まれもっての「棚」の大きさや,材質,使用頻度,使用年数,さらには使用理由などを,よく確認して下さい。

 はいっ,とすごすごと帰宅するしかないのである。

 でも,ああいい店だったなあとニンマリしてしまう。

 できれば,この商會で仕事をしたかった。

「やまなし」への道という呪縛(笑)

2012年09月09日 | 教育ノート
 二学期の初授業は木曜日。
 5年生の宿泊学習があり職員も手薄になっていて、さらに都合があり2学級が空くということなので、それならばと、4年生の2時間をいただいた。

 教科書に「付録」として載っている教材『茂吉のねこ』で、音読学習をやろうと少し構想を練り、シート作りをしようと前のデータを見ていた。

 そしたら、ちょうど去年の今頃、前任校で6年の「やまなし」に取り組んでいたことを思い出した。
 時数配当がほんとにわずかで、昔のような読解はできないことは承知で、二つの学級の担任へいくらか協力できないだろうかといくつか指導構想を持ちかけ,選択してもらった。

 まあ、たいしたことはできなかったが、読解の補助的な役目をもたせるために、「ミヤケンタイムズ」とふざけたネーミングの資料を1時間毎に児童へ配ったことを覚えている。

 「やまなし」の次に配置された伝記的な教材を使い、「はがき新聞」という形式でのまとめを計画していたので、その参考にもなろうか、と考えたのだった。

 授業の記録はとっていなかったが、今、改めてそのデータを見直すとおぼろげながら様子を思い起こすことができる。
 この機会にと思って今日PDF化し、ホームページに載せてみた。
 お暇な方はご笑覧ください。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP148.html

 時数が少なかったという理由で網羅的になったわけではなく、結局突っ込みどころ満載で絞り切れなかったということである。
 部分的に見ていくと、先日セミナーで習った音読演習に近いようなことも取り上げており、案外使えるかもしれないと頷いている。

 それにしても、いくところいくところの学校で「やまなし」に首を突っ込んでいる自分。
 心の奥に,『「やまなし」への道』という呪縛があるのかしらん(笑)

 そしてあと何度、こんなことができるだろうか。

今時,とても難しいこと

2012年09月08日 | 読書
 『あなたの人生に「奇跡のリンゴ」をつくる本』(木村秋則 小学館)

 先月末、弘前での研修会の折りに買い求めたものだ。
 木村さんの本が何冊か並んでいて、一番ビジュアルなものに手を出してみた。
 木村さんの半生は、以前読んだ本でわかっているし、ちょっと切り口をかえたものをと思って選んだ。

 リンゴ畑の写真も豊富で、インタビューやさらには木村さんが回答する人生相談的なコーナー、そして「プランターでできる木村式 自分でつくった安心野菜を食べよう」という章があり、ずいぶんページが割かれている。

 以前読んだものは、木村さんの歴史をたどっていく物語だったし、これはいわば成功者としての木村さんが、野菜作りから生きかたまでをレクチャーする一冊と言ってもいいかもしれない。
 もっとも、木村さん自身は成功者なんて思ってはいないだろう。講演記録の冒頭、次の一文が自信ありげに?響いてくる。

 自慢できるといえば、一番失敗が多い人間じゃないかということです。

 これは単にそれだけ努力をした、あきらめなかったということの表現ではないと思う。
 つまり、失敗のたびに何かに気づく、少なくとも今試した方法では駄目だったことがわかる、ということの積み重ねでは負けないということではないか。
 心底そう言えたら、もう何も怖いものなしだろうな、と思う。

 「奇跡の○○」というと、私たちは何かネーミングだけで特別視してしまいがちだが、本当に価値がわかるものなのかという点も考えさせられた。
 ある子どもが木村さんのリンゴジュースを飲んで「普通のジュース」といった件は、なかなか象徴的だ。
 その真価は一週間後に判明するのだが…。

 世の中に「奇跡の○○」(食べ物とか、日常的に使うものなど)と呼ばれるものがあるとすれば、その価値はそんなに一瞬でわかる、感じるものではないような気がしてきた。
 それはたぶん、その価値をすぐに感じ取れないほど、鈍っているのが私たちの日常ではないかと。

 もう一つ、栽培コーナー「ダイコン」で取り上げられた、引きこもりがちだった中学生のエピソードは、教員好み?であろう。
 「自然の力を信じる」といえば、格好のいい表現だが、そのために何が必要だったか、それはまったく「見る」ということだな、と今度も同じ感想を抱いた。

 そのためにすればいいことは、そんなに難しいことでも、複雑なことでもない。

 ただ、「続ける」「待つ」という、シンプルな動きをいかに保てるかだ。

 そしてそれは,今時とても難しいことでもある。

混沌の中に声を聴く

2012年09月07日 | 読書
 『昭和のエートス』(内田樹 文春文庫)

 現在行われている、いわゆる教育改革や教育再生論といったものに与しない内田教授(もはやそういう職名ではないだろうが、これが一番ぴったりくるので使っている)の言葉は、いつも自分の立ち位置の意味を問いかけてくるように感じられる。

 常々主張しておられる「教育制度の惰性の強化」には、組織や制度をうまく使いこなそうという政治的視点がある。そしてそれは今盛んに進められている査定的な、懲罰的な管理の仕方とは大きくかけ離れたものだ。

 現在進められている施策の多くによって、教員の意欲は多極化している、いやその内実はおそらくかなり偏った二極化と言ってもよく、階級化・序列化への道につながっている気がする。

 それはまた、学ぶ主体である子どもたちの消費的、値踏み的行動を助長することにつながっている。この本に著わされているところの「ユビキタス的視点」や「カタログ化」の範囲での、形式的な学びがこれからも広がり、困難な状況に向かうのではないかと危惧してしまう。

 「秋葉原連続殺傷事件を読む」と名付けられた論考で、実に印象深い記述がある。

 個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるのではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。

 文脈を規定してしまうのは、出自や家庭、学校、職場…様々な環境要因が大きいといっていいだろう。
 そして自分の仕事として、限界を認めながらも、学校という重要なその現場にあることは確かだ。

 きっと毎日の取るに足らない些細なことによって、子どもの思考の糸は生成され、繰り返される日常、折々の非日常的な出来事によって細かく編みこまれていくに違いない。
 やはり授業は大きな要素だし、それ以外の時間にあっても子どもの目に映る教師の言動など、きっとどこかに編みこまれていく要素だ。

 その織物のような思考のなかに、投げ込まれる出来事を、個はどう包みこんでどう折り合わせるのか。全体像が把握できなくとも目を凝らしておく必要が私たちにはある。

 漠然とした物言いになったが、判断、行動を決める一番根っこのところには「他者への信頼」があるのではないだろうか。
 それが極端に薄ければ、悲しい事件と結び付きを強めてしまう。

 人間と人間が触れ合える場で得られる信頼、それは乳児段階での母子関係が始まりである。しかしだんだんと希薄になる現実がある。
 小学校という現場にも期待できなくなっている様相がある。

 それは学校を取り巻く査定的・懲罰的な管理の仕方と無関係だと、誰が言い切れるだろう。
 
 混沌としたなかで,まず足元を,という声だけは常に耳に残そう。