すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

余裕とか俯瞰とか安全地帯とか

2018年09月20日 | 雑記帳
 「文章の中に、あまり『とか』を使うと、『とかとか病』になってしまうよ」

 若い頃、そう教えてくれたのはK先生だったろうか。
 その場で少し笑いがでたのは、「とか」という語が、秋田方言の「とかふか」「とかしか」(そわそわするという意)を連想させたからではないか。

 とにかくあまりいい助詞ではなく、不用意には使われないとなんとなく思ってはいた。
 最近あまりそうした文章など気に留めることもなかったが、新潮社の『波』9月号で複数見かけて、つい思い出してしまった。

 一つは刊行記念対談の中で紹介されたジェーン・スーの新刊本の題名。
 『生きるとか死ぬとか父親とか』

 もう一つは、楽しく読んでいるブレイディみかこの連載「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の今月の題名。
 『分断とか波風とか地雷とか』

 もちろん作家、表現者であるので、意図的な遣い方をしているはずと考えてみる。



 まずは「とか」の意味である。
 広辞苑によると「例示し列挙するのに用いる語」「一つの物事だけを挙げ、他を略して言う、またはそれと特定しないで言う表現」とある。

 『波』にある二つの例は「とか」の三連続であり、前者と考えられる。

 ブレイディみかこの連載は、我が子を取り巻く人種問題を扱っており、その意味では予想のつく単語が並べられている。「地雷」であっても人間関係にある「地雷を踏む」という比喩は想像しやすい。

 それに比すると『生きるとか死ぬとか父親とか』はどうだ。
 これは前と中があまりにスムーズで、最後がひねってある。ひねったというより、もしかしたら意味が「特定しない表現」を付加しているのかもしれない。
 つまり『生きるとか死ぬとか/父親とか』という形で、「父親」は「親」や「家族」の典型として掲げたのでは…という予想も成り立つ。
 馴染みのない作家なので、買って読むことはないと思うが、なんとなくテーマも見えてくる気がする。


 それにしても「か」という助詞一つで印象が柔らかくなるし、限定を避ける効果が強くなるものだと感心する。
 従って、ある種の「余裕」も感じるし、見方としては「俯瞰」に通ずる趣も出せる。
 もちろんそれだけではない。
 「か」を並立の助詞と考えるか、係助詞として疑問、反語を表すか諸説あるようだが、どちらにしても発音の響きと裏腹に、曖昧さが残る。それは、傍観者的で身の安全を保つことが優先する「安全地帯」のような気配もする。

 「とか」は使う時に自分がどんな観点なのか、はっきり意識するべき言葉だ。

 それが不明確だと「とかとか病」と言われても仕方あるまい。

日日是好日の人、逝く

2018年09月19日 | 雑記帳
 個性派という形容では収まらない、唯一無二の女優とも言うべき樹木希林が逝ってしまった。昨年だったか再放送されていた『寺内貫太郎一家』を見て、今さらながら、その表情の多彩さに驚いたことを覚えている。最近の是枝映画や名作『あん』『わが母の記』など、彼女の演技抜きで成立しない作品は非常に多い。


 ご存知の方は少ないだろう。20年以上前樹木希林の主演した連続ドラマがあった。『鬼ユリ校長、走る』と題され、隣県花巻の小さな小学校を舞台にしていた。当時は学校が舞台のドラマが多く、ほのぼのとした作品だった。今思うと、彼女が発していた人間を丸ごと認める受容性こそ、学校に求められている気がする。



 『日日是好日』という映画がこの秋公開されるという。サイトを検索したら、これまたなかなか渋い。落ち着いた趣のある作品だろうと想像できる。樹木希林の身体を通して語られることも、きっと今までと同じように心に染み入ってくるだろう。「日日是好日」、書としてもよく掲げられる禅語。かの大国でも観た。


 その経典の冒頭「過去をおいゆくことなく また未来を願いゆくことなし/過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに」が根底精神であることを以前メモしていたが、いまだ修業足らずの我が身を恥じるこの頃だ。樹木希林を惜しむ周囲の言葉からは、まさに「日々是好日」を具現していた人と感じる。


 8月16日BSプレミアムで「にっぽんのお盆」を生放送した時、出演予定の樹木希林は病床から電話で声を寄せていた。地元の盆踊り中継があり録画していた。番組冒頭の場面で、彼女は「そちらへ行くかも」と明るく笑って語っている。電話を終えるその声に、東儀秀樹の吹く笙の音が静かに重なって流れていた。

笑う「老人」の原則

2018年09月18日 | 雑記帳
 三連休かあ、と格段の喜びも感じない生活になっていることを感じる。今回は地元のお祭りでもあるので、それなりの陽気さはあるにしても取り立てた役どころもないので…と思っていた最終日。「はいっ、これ」と娘から、なんと敬老の日プレゼントを孫名義(笑)でもらってしまった。


 そうか、敬老の日か。口では老人だ年寄りだと言ってるわりに、実際にそんな気分かといえば、気持ちは十代とさして変わらず(大笑)、ただ現実的に身体の衰えは確実に近づいてきていて、最近は寝る時は「冷えピタ」が離せない(爆笑)有様なのだ。「老」を労わられても仕方がない。



 頭痛など若い時分からあったではないか、身体を気にかける暇があるから増幅するのだと、あまりにいい秋の青空を眺めていたら、初夏にやり残したデッキのペンキ塗りを思い出した。通販で買ったキシラデコールという塗料の缶を開け、2時間弱、少し汗ばむいい作業ができた。


 ペンキ塗りや草むしりといった、いわゆる単純作業のときに時々思い出すことがある。それは酒井式で著名な酒井臣吾先生の言葉だ。何度か直接お話を聞き、横手で下の娘と一緒に実技指導をうけたこともある。いつも心の中が満たされる時間だった。酒井式指導の原則は四つだ。

 ◆踏ん切る(見切り発車をおそれない)
 ◆集中する(かたつむりの速さで線を描く)
 ◆「良し」とする(結果を肯定する)
 ◆それを生かす(間違いもプラスの方向へ)


 校長になって2年目、5年生の図工授業を1年間受け持たせてもらった。その折、描画に限らず4つの原則を繰り返し言って聞かせたことを覚えている。学習や仕事の日常にぴったり当てはまると信じていたからだ。ふと「老」を生き抜くことも全く同じと気づく。「笑」にも近づく。

言葉の周りに漂う汚れ

2018年09月17日 | 読書
 中国では出入国に限らず、空港や核施設などセキュリティチェックが目立つことを先日書いた。その煩雑さとともに、発する声の大きさ、きつさに驚かされたこともあった。何かを指摘、指示、注意したのだろうが、言葉を知らない者にとっては、その口調や表情しか伝わらない。


Volume116
 「誰かとおしゃべりしているとき、言葉って、意外と聞いていない。どちらかというと言葉そのものよりも声を聞いている。私は言葉を信じていないのだ。声というか、響きとか、息なのかな。うまく言えないけれど、とにかく言葉のまわりに漂っているものだ。」


 料理研究家、高山なおみの文章。同じ言語を話す者同士であっても、こういうときは、ままある。何かしらの表現を生業としているなら、なおさらだろう。そしてそういう接し方は、多かれ少なかれまた意識するしないに関わらず、私たちの誰しもが持ち合わせているのではないか。



 かつて早川義夫は「ぼくの恥ずかしい僕の人生」という曲で、こんなふうに歌った。

♪本当の心だけしか、伝えることは出来ない
 伝わってくるものも、本当のことだけ
 もしも嘘をつけば その嘘は伝わらずに
 汚れた息づかいが 伝わってしまうだけ♪



 自分の言葉と心にしっかり向き合う人は、このように吐露できる。それに比して、今のテレビ等で垂れ流されている言葉と言えば、例えば〇〇演説でもいい、メディアによって切り取られた接し方しかできないが、その言葉のまわりに漂っているものは、あまりに汚れていないか。

犬が拾った話を読む

2018年09月16日 | 読書
 「」という語は結構多義である。手元の電子辞書には名詞として10個の意味があった。クイズにして教材化したこともあった。さて今回の小説の文中に「負け犬」という言葉が出てきて、「なぜ、犬なのか」と問う文があり、なるほどと思った。確かに「負け〇」に他の動物は入らない。人間との密着度の高さの表れか。


2018読了88
 『レインコートを着た犬』(吉田篤弘  中公文庫)



 犬が語り手を務める。このパターンは珍しくはないが、やはりそこは吉田篤弘色で彩られていている。客の少ない古びた映画館の番犬であるジャンゴは、行ってみたい場所として「銭湯」と「図書館」を挙げる。もちろん映画が何より好き。手の届かない情報に飢えながらも、様々な知識と独特の感性で物語を綴る。


 「犬には思い出せないことが多々ある。覚えられないことが沢山ある」と嘆き、神様に対して「写真を撮る能力や文字をしたためる術」を何故授けなかったかと問う。しかしその嗅覚、視覚、聴覚を生かした人間の観察は、十分に面白い。ある意味では、人間の作りだした様々な「文化」を掘り下げる話にもなっている。



 「ここ」が小説のテーマだ。人が「ここ」という語を発する時、それは特定の場所を指すことが多い。その場合、範囲はある程度決まっている。しかし抽象的に「ここ」を考えたとき、それは何処を指すのか、決まっているだろうか。訳の分からぬ小難しい問いは必要ないか。違う。「ここ」の「じぶん」が大事ならば。


 個性ある登場人物が多い。共鳴したのは古本屋の「親方」だ。名文句は数々ある。「人生は予告編だ。本編なんてものは決してやってこない」「本当に好きなら、やめないこと」…語り手の犬はきちんと拾う。それにしても犬の名「ジャンゴ」の由来はギタリストのジャンゴ・ラインハルト。懐かしいその名も意味深い。

何処にも「生」が在る

2018年09月15日 | 雑記帳
 なんだか不満や批判を書き散らした内容が続いたが、けして残念な旅行ではなかった。かの大国でなければ見られない絶景、対照的な歴史と今の混在など、刺激は多かった。かの大作『ラストエンペラー』を借りてきてもう一度観たい気持ちが強くなったし、きっとかつて観た時とは違う感覚で楽しめるに違いない。


 名所・観光地のほかに強く印象に残った場面がある。西安郊外にある兵馬俑から市内中心地へ向かう道々で、小さな街をいくつか通り過ぎた時の風景が忘れられない。家の外へ台を出し昼から麻雀に興じる人たち、バイクでリヤカーを引く老人、子供を前で抱えてスクーターを走らせる母親…垣間見える素の姿である。


(さつま芋が軽トラの荷台で売られている)

 三都市それぞれの現地ガイドが、地元愛を語り未来を憂えていた。当然と言えば当然、また観光PRには欠かせないことでもあるが、その口から聞く個の意見は、まさしく生きることを伝えていた。「今一番幸せなのは大学生」「革命時の紅衛兵世代はチンピラ」「もうすぐ人口減少が始まる」…備える姿勢も強く感じた。


 実は今回のツアー参加者で我々夫婦が一番若かったようだ。「初めての中国~」と冠していても、実は慣れた方々が多く、結構ハードな日程も淡々とこなされていた。特に驚いたのは最年長のご夫婦が一番のメモ魔であったこと。車内でも見学地でも熱心にペンを走らせる二人の姿は、何か生きる手本のようにも見えた。


(西安の青龍寺は、実は四国お遍路の旅の「0番札所」になっている)

 ツアーで突然死したりするのは60代が一番多い、とガイドさんが語った。そこを乗り切った方々には強靭さが備わるのかもしれない。空海所縁の青龍寺で、仏教徒ではないが記帳をした。話によると、50年保存だからその期間は安寧が約束されるという。唯一買い求めた大筆を眺めつつ、半世紀生きる覚悟を胸に問う。


※今日から「写真」篇を別ブログで始めました。
 よろしかったら→「ただいまのけしき」へどうぞ

躊躇のなさが壁なのか

2018年09月14日 | 雑記帳
 中国の道路では「自分を護る」ことと正反対に思える行動を頻繁に目にできる。車の車線変更、歩行者の道路横断の自由奔放なことに驚かされる。バス車中から幾度も危険な光景が見えるので、最後には慣れてきた。横断者の前を平気で通り抜ける車、バイク。幹線道路を平気で横切る歩行者には躊躇という感覚はない。


(北京市の渋滞)

 例えば、ショッピングにおいてもそうだ。名物とされるシルク、寝具用品、工芸品店に入る。観光コースに盛り込まれるのは一つの宿命だが、それらの店員の勧め方はかなり強引だ。こちらが購入意欲を示さなくとも、全く意に介さない。相手が悪印象を持つだろうことなど眼中にない。とにかく攻めまくる感じだ。


 自分が行ければいい、売れればいい、儲かればいい…「唯我独尊」とまでは言わないにしても「利己」は確かだろう。その心性を正直に出すことをためらう日本人にとっては羨ましいほどだ。個人の問題でもそうなのだから、まして国同士となると圧倒されるのは当然かもしれない。壁の存在がはっきりと見えてくる。


(男子トイレによくある掲示)

 中国の業者がQRコード決済の日本の地方進出を目論んでいることを渡航前にニュースで見た。上海のホテルで到着後にビールを求めようとして自動販売機に向かったら、現金もカードも使えなかった。ガイドさんに訊くとそれが一般的らしい。一流ホテルでさえ代替手段が用意されない現状は、やはり唯我独尊か。


 三都市とも高ランクのホテルに宿泊した。予想通り(笑)必ずどこかに欠陥がある。例えば、風呂の蛇口とシャワーの切替、温度調節、冷蔵庫電源等々。そう言えば日本も昔そうだったと思い出した。外見レベルは損得なく揃えられていても、インフラ細部には気が廻らない、いや目に入らない。この国はこのまま進むのか。

過剰さは「まもる」ため

2018年09月13日 | 雑記帳
 万里の長城や故宮・紫禁城、兵馬俑など誰もが知っている世界遺産の規模も、やはり実際に目で見ると「半端ない」と強く感じる。いったい、これほどまで築き、造る必要があったのか、それは何のためか。天安門広場から故宮の数々の門と殿が次々に目に入ってくると、権力者の威厳を示す空気が色濃く漂ってくる。



 それは全容が解明されない兵馬俑も同様だろう。そして約6700㎞という長城のわずか三千分の一に満たない距離を歩きながら、この下に数えきれない工夫の犠牲者が埋められていることを想像すると、その過剰さの正体を探りたくなる。…「まもる」ことだろうか。守る、護る、敵対する者たちから、大自然の脅威から。



 それは直接的には民というより支配者、権力者のためであろう。いつの世も、どこの国でもその点は似通っているかもしれないが、過剰さゆえに際立つことは確かだ。今回は、羽田を発着点とすると計5回航空機利用をしたが、出入国をはじめ、中国国内におけるセキュリティチェックには辟易するほど驚かされた。


 手荷物検査やボディチェックも厳しい。出入国ならともかく国内の空港、ホテル、主要観光地施設の数ヶ所で求められるパスポートチェックも煩雑だ。我が国が甘すぎるという論調はあるにしろ、頻繁に個人証明を求められる場所の居心地は、施設内容や景色がどんなに素晴らしくとも少し染みのついた印象を残す。


 さらに人的な面でも色々と考えさせられる。目つき、声付きが日本とは比べものにならない。現地ガイドの方々はさすがに日本人を心得ているが、他の施設職員等の素っ気なさ、時に居丈高な様子は、そうして自分を護ることの現われでもある気がした。民族間の抗争、支配者の変遷そして社会構造が反映している。

三千年を6日で巡る

2018年09月12日 | 雑記帳
 巨大な隣国、中華人民共和国。一度は足を踏み入れてみたいと思っていた。お手軽そうなパックがあったので申し込み、六日間の旅をしてきた。現地ガイドの班さん曰く「中国を知るには、百年の歴史で見ると…上海。千年の歴史で見ると…北京。三千年の歴史では…西安」とのこと。その有名な三都市を順に巡った。


 通常は10日から三週間が多いコース。しかしそれでも理解しきれないのは当然だし、6日では全くのさわりとしか言いようがない。その範囲と割り切ってはいるが、やはり何事も実際の経験は大切と思い返している。予習としての読書から見えてこない生の姿に触れたのは本当に貴重だった。驚きは南独より多かった。



 ガイド本を持ち出すまでもなく「」はキーワードであり、料理は楽しみだった。ツアーのパンフには昼夕食の欄に、郷土料理や各地名を冠した料理が並んでいたが、実質はかなり似通ったメニューであった。承知しているつもりでも、円卓はもちろん、席に並べられている食器類も同パターンで数日続くと辛くなる。


 平皿、小鉢、湯飲みが各1、レンゲと箸という構成で、日本の中華料理店のように取り皿の替えなどはない。従って量や種類は豊富にあるが、味が濁ることを承知の上で食べることになる。ここらあたりが大陸気質かと思うのだが、やはり繊細な味覚を求めたいショクニンとしては不満が残る。参加者皆同様だった。


 邸永漢の本に、キーワードとしての「」は「中庸」とあった。しかし旅半ばで頭に浮かんだ言葉は、流行語っぽく言えば「ハンパない」、ずばり一言では「過剰」だった。その印象は最後まで変わらなかった。この大国の過剰さは何が原因なのか解明はできないが、明日から少しずつ書き散らしながら紹介してみたい。

目の前のワンダーウォール

2018年09月04日 | 雑記帳
 朝ドラの名作と言われる『カーネーション』はほとんど見ていなかったので、再放送しているものを観ている。尾野真千子のキャラにぴったりだし、展開に変化とめりはりが感じられてなかなか面白い。主題歌にクレジットされる脚本家は「渡辺あや」という名。あまり目にしないが先日録画していたドラマに見つけた。


 7月下旬に放送されたNHKの地域発ドラマ『ワンダーウォール』。京都を舞台して、学生寮建て替えに反対する寮生たちを中心に描いた物語だ。今どき寮なんて…と思う者は多いだろうが、望んで入寮してきた学生たちにとってその存在は大きいし、教育や社会全体の流れの中でその意義を考えさせられたドラマだった。



 『ワンダーウォール』、訳せば「不思議な壁」か。ワンダーをどう考えるかがポイントだろうが…。具体的な壁として、ドラマ内では反対を唱えて押し掛ける学生たちの前に作られた、学生課の壁(仕切り、受付口のような)を指している。しかしそれは明らかに心理的な壁であり、構造的な壁の一部として出現する。


 このドラマ番組のことを取り上げたあるサイトに、渡辺のメッセージが載っていて、感銘した。今の世の中にたくさんの「壁」があることは、ほとんどの人が意識していることだろう。そして息苦しさを覚えている人も少なくない。その現状へ焦点を当てながら、渡辺はこの作品に込めた思いをこう記していたのだ。


 壁とは本来、私たちが弱い自分を守ろうとして建てるものなのだと思います。
 けれども壁の中に守られるということは同時に、壁の向こうのわかりあえたかもしれない誰かや、ゆるしあえたかもしれない機会、得られたかもしれない強さや喜びを、失うということでもあります。
 壁だらけの私たちの社会とは、そうした喜びがすっかり失われてしまった日常と言えるのかもしれません。
 それでも私たちの人生は、そんなさびしい現状をあきらめ続けるためにではなく、いつか壁を乗り越え、ふたたび向こう側の誰かとの喜びを、とりもどしてゆくために続くのだと信じたいです。


 この拙ブログのテーマにある「陥穽」も、壁と似ているイメージを持つ。うっかりと陥ってしまった穴と知らず知らずのうちに築いてしまった壁。どちらにも言えるのは、そのままでは居られない、真の喜びのある場へ近づきたいと願うこと。忘れずに時々位置を見定めねばならない。自ら壁を高くしてはいないかと。