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目の前のワンダーウォール

2018年09月04日 | 雑記帳
 朝ドラの名作と言われる『カーネーション』はほとんど見ていなかったので、再放送しているものを観ている。尾野真千子のキャラにぴったりだし、展開に変化とめりはりが感じられてなかなか面白い。主題歌にクレジットされる脚本家は「渡辺あや」という名。あまり目にしないが先日録画していたドラマに見つけた。


 7月下旬に放送されたNHKの地域発ドラマ『ワンダーウォール』。京都を舞台して、学生寮建て替えに反対する寮生たちを中心に描いた物語だ。今どき寮なんて…と思う者は多いだろうが、望んで入寮してきた学生たちにとってその存在は大きいし、教育や社会全体の流れの中でその意義を考えさせられたドラマだった。



 『ワンダーウォール』、訳せば「不思議な壁」か。ワンダーをどう考えるかがポイントだろうが…。具体的な壁として、ドラマ内では反対を唱えて押し掛ける学生たちの前に作られた、学生課の壁(仕切り、受付口のような)を指している。しかしそれは明らかに心理的な壁であり、構造的な壁の一部として出現する。


 このドラマ番組のことを取り上げたあるサイトに、渡辺のメッセージが載っていて、感銘した。今の世の中にたくさんの「壁」があることは、ほとんどの人が意識していることだろう。そして息苦しさを覚えている人も少なくない。その現状へ焦点を当てながら、渡辺はこの作品に込めた思いをこう記していたのだ。


 壁とは本来、私たちが弱い自分を守ろうとして建てるものなのだと思います。
 けれども壁の中に守られるということは同時に、壁の向こうのわかりあえたかもしれない誰かや、ゆるしあえたかもしれない機会、得られたかもしれない強さや喜びを、失うということでもあります。
 壁だらけの私たちの社会とは、そうした喜びがすっかり失われてしまった日常と言えるのかもしれません。
 それでも私たちの人生は、そんなさびしい現状をあきらめ続けるためにではなく、いつか壁を乗り越え、ふたたび向こう側の誰かとの喜びを、とりもどしてゆくために続くのだと信じたいです。


 この拙ブログのテーマにある「陥穽」も、壁と似ているイメージを持つ。うっかりと陥ってしまった穴と知らず知らずのうちに築いてしまった壁。どちらにも言えるのは、そのままでは居られない、真の喜びのある場へ近づきたいと願うこと。忘れずに時々位置を見定めねばならない。自ら壁を高くしてはいないかと。