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過剰さは「まもる」ため

2018年09月13日 | 雑記帳
 万里の長城や故宮・紫禁城、兵馬俑など誰もが知っている世界遺産の規模も、やはり実際に目で見ると「半端ない」と強く感じる。いったい、これほどまで築き、造る必要があったのか、それは何のためか。天安門広場から故宮の数々の門と殿が次々に目に入ってくると、権力者の威厳を示す空気が色濃く漂ってくる。



 それは全容が解明されない兵馬俑も同様だろう。そして約6700㎞という長城のわずか三千分の一に満たない距離を歩きながら、この下に数えきれない工夫の犠牲者が埋められていることを想像すると、その過剰さの正体を探りたくなる。…「まもる」ことだろうか。守る、護る、敵対する者たちから、大自然の脅威から。



 それは直接的には民というより支配者、権力者のためであろう。いつの世も、どこの国でもその点は似通っているかもしれないが、過剰さゆえに際立つことは確かだ。今回は、羽田を発着点とすると計5回航空機利用をしたが、出入国をはじめ、中国国内におけるセキュリティチェックには辟易するほど驚かされた。


 手荷物検査やボディチェックも厳しい。出入国ならともかく国内の空港、ホテル、主要観光地施設の数ヶ所で求められるパスポートチェックも煩雑だ。我が国が甘すぎるという論調はあるにしろ、頻繁に個人証明を求められる場所の居心地は、施設内容や景色がどんなに素晴らしくとも少し染みのついた印象を残す。


 さらに人的な面でも色々と考えさせられる。目つき、声付きが日本とは比べものにならない。現地ガイドの方々はさすがに日本人を心得ているが、他の施設職員等の素っ気なさ、時に居丈高な様子は、そうして自分を護ることの現われでもある気がした。民族間の抗争、支配者の変遷そして社会構造が反映している。