すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

と、キーボードを叩く矛盾

2018年09月02日 | 雑記帳
 七月頃から、安物の万年筆を使ってちょぼちょぼ「視写」をしている。読んだ本の中から一節を選び、ゆっくりと書き写す。惚け防止には少し早いかもしれないが、京都橘大学の池田修先生がツイッターで素晴らしい筆蹟を見せてくださることがあり、真似したくなった。わずか数分間程度だが、その集中は心地よい。


 手書きと言えば、NHKBS-3で「手書き倶楽部」という番組を不定期ながら放送している。デジタル全盛の世の中だからこそ、その貴重さが際立ってくるが、手書きでなければ出ない味というのは確かにある。味という言い方がふさわしいかどうかは別にして、その字には「書き手の情報」が満載されているのだ。



 学校に勤めた者として、手書きについての大きな岐路が2回あった。一つは学級通信、そしてもう一つは通知表の所見欄(教師の文章)。この時にずいぶんと考えたことを思い出しても、やはりそこに尽きる。伝える相手つまり保護者、子どもに対する情報として、圧倒的に手書きが有利なのである。その自覚が必要だ。


 たまたま、寝入り漫画として読んでいるのが『とめはねっ!』という高校書道部の話だ。小学校高学年の時に少し練習した毛筆、大学で実技講座を受けた書道の経験は多少あるが、本当に根本を知らなかったと今頃恥じ入った。毛筆で「一」を書く場面が出てきて、基本は「体全体を使うこと」と悟った時は唸った。


 結局、毛筆にしてもペン書きにしても、文字と身体との関わりはこうしてキーボードを打つことと決定的に違うんだなと、今さらながら思う。養老先生の「脳化社会」を持ち出すまでもなく、ヒトとしての感覚の劣化は日に日に増していく。まずキーボード、タッチパネルから少しでも離れて!とキーボードを叩く矛盾。