すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉の周りに漂う汚れ

2018年09月17日 | 読書
 中国では出入国に限らず、空港や核施設などセキュリティチェックが目立つことを先日書いた。その煩雑さとともに、発する声の大きさ、きつさに驚かされたこともあった。何かを指摘、指示、注意したのだろうが、言葉を知らない者にとっては、その口調や表情しか伝わらない。


Volume116
 「誰かとおしゃべりしているとき、言葉って、意外と聞いていない。どちらかというと言葉そのものよりも声を聞いている。私は言葉を信じていないのだ。声というか、響きとか、息なのかな。うまく言えないけれど、とにかく言葉のまわりに漂っているものだ。」


 料理研究家、高山なおみの文章。同じ言語を話す者同士であっても、こういうときは、ままある。何かしらの表現を生業としているなら、なおさらだろう。そしてそういう接し方は、多かれ少なかれまた意識するしないに関わらず、私たちの誰しもが持ち合わせているのではないか。



 かつて早川義夫は「ぼくの恥ずかしい僕の人生」という曲で、こんなふうに歌った。

♪本当の心だけしか、伝えることは出来ない
 伝わってくるものも、本当のことだけ
 もしも嘘をつけば その嘘は伝わらずに
 汚れた息づかいが 伝わってしまうだけ♪



 自分の言葉と心にしっかり向き合う人は、このように吐露できる。それに比して、今のテレビ等で垂れ流されている言葉と言えば、例えば〇〇演説でもいい、メディアによって切り取られた接し方しかできないが、その言葉のまわりに漂っているものは、あまりに汚れていないか。