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さすがにさがすが多くなる

2018年09月29日 | 読書
 穂村弘の『ちくま』連載「絶叫委員会」は、この頃あまり面白くないなあと感じていたが、今回は題だけで惹きつけられた。

 加齢と言葉

 言語表現を生業としている穂村のような人と、一般人では感覚は異なるだろうが、確かに何かしら関わりを持つに違いない。


Volume118
 「二十代の自分が好んだ言葉のうちの幾つかは、今ではまるで禁じ手になってしまったかのように使えなくなってしまった。具体的にいうと、『おまえ』という二人称、『まみれる』という動詞、それから命令形。この辺りがどうしても自分の中から出てこなくなってしまったのだ。」



 自分にはそんな言葉があるだろうか。
 時々書棚の整理をして見つけた古い文章(学生時代のメモや、若い頃の学級通信など)を読み込んでしまうときがあるので、思い起こしてみる。

 まあそれほど目立つわけではないが、穂村に倣って少し拾ってみると

 まず「」という一人称は使わなくなった。
 それから「なぜ」という疑問形も多用していたが、ずいぶん減った。
 動詞は…「めぐる」「ねらう」などが、若い時は頻度が高いと感じる。

 そうすると、これらが「自分の魂(というのが大袈裟なら生理感覚)からズレた言葉」と言えるのだろうか。
 そこからは、老化が見え隠れすることは確かで、そうした感情や論理が薄くなっているのだ。
 言葉そのものの持つ響きや強さを次第に嫌うようになったのだと思う。

 ただ、その原因を単純に「加齢」だけに求めていいものかとも考える。

 もしその言葉が本当に必要だったら残っているはずだし、もともと定着が希薄だったと疑うべきだろう。

 とすれば、今もしつこく使っている語に着目することだ。
 自分の心身に合っていて、必要な言葉なのだ。

 はて、と読み直してみるが…。

 「さがす」が多くなるのは、単に加齢なのかもしれない。

 あら、「さすがに」も多くなっているか。