すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

食料自給率1位の県に居て

2019年02月08日 | 雑記帳
 地元選出の某国会議員が挨拶のなかで、食料自給率の話題を出した。この国の自給率が40%程度であることはよく知られている。ところで、と出したのが「都道府県別ではどうか」ということである。なんと「本県秋田が192%でダントツ1位なんです」と声を大きくした。へええと思い、念のためにとスマホで検索した。


 確かに農水省にそうしたデータがあり、数字も間違っていない。ただダントツかと言うと平成27年度までは北海道がトップであり、28年に秋田が1位になったが差はわずかである。100を越しているのは東北を中心にわずか数県、ちなみに東京はずっと1である。考えなくとも理屈はわかる。明るい話題とは言えまい。


 ただ、明るくなくとも考える材料にはなる。第一次産業の振興は難しくともその重要性に変わりはないわけだし、課題は豊富な食料生産基盤が目の前にある強みを生かす点に集約されるのだと思う。また個としてみれば、どの程度の県内自給率(考え方は複雑だが)を所帯として維持しているか考えるきっかけになる。


 だからどうだと一言では言いにくい。漠然とした願いとして、経済があまり大きくない範囲で回ってほしいということはあるにせよ、現実に日常を振り返ると、大きな波の中に呑み込まれている実感がある。自給自足という懐かしい四字熟語は、「自足」はそのままかもしれないが、「自給」から益々手足が離れていく。


 秋田の数値192中、100が県内消費とは誰だって考えない。今の流通経済ではそれが価値あるとは言えない。しかし高く売れる展開ばかり目を向けなくとも、地元で最高のモノを提供できる態勢づくりをもっと大胆に考えても良くないか。エコノミスト藻谷浩介氏の「今だけ・ここだけ・あなただけ」という言葉が浮かぶ。

細かい事が気になる僕の悪い癖

2019年02月07日 | 雑記帳
 ときたら『相棒』。右京さんの名台詞のように、昨夜の回で妙に気になったことがあった。冠城亘の知り合いである犯罪心理学者が、妻である元人気キャスターに嵌められてしまう内容だが、その夫が現在執筆している原稿に書かれた文章にエッと思った。「いつも私を影から支えてくれた、愛する妻~~~」とあった。


 そう、この「」である。こうした場合、通常は「」を使うのになあ、脚本家(根本ノンジという方でした)の単なるミスなのかあ、と思った。念のために辞書で確認するとやはり「表面に現れないところ。うしろ。裏」という使い方は「陰」が普通である。「陰・蔭」と「影」は見出しが別になっている場合が多い。


 ところがドラマが終盤部に近づいて、その夫と妻が警察内でやり合うシーンのときに、またその原稿が小道具として使われ、妻が激高しながら叫ぶ箇所があった。「なんで私が、あなたのカゲなのよ!」…ははあっ、ここで漢字を当てはめるとすれば、これは陰より影かなあ、と思った次第。そのために細工されたのか?


 陰は「場所」を表わすのが主であり、影だと「姿」を表わすことになる。このシナリオは、最初は華やかに活躍していた妻が夫と結婚し、夫の方が逆に忙しくなり、妻の人気がかげっていく背景を持っていた。従ってどちらも当てはまるが、影の方がインパクトは強いか。そこまで考えているとしたら脚本家はエライ!


 でも校閲部の河野悦子なら…(笑)。ところで夫役の宮川一朗太は、地味だが様々な小人物をこなすいい役者だと改めて思った。対して妻役は、なっなんと真中瞳ではありませんか。最近『まんぷく』に出演したとき、その印象的なホクロ顔を見て、名前がなかなか出てこなかったが、改名(東風万智子)していたとはね。

サイコパスはそこに姿を…

2019年02月06日 | 読書
 『相棒』を初め結構刑事ドラマ、警察モノが好きである。最近とは言えないが猟奇的殺人などを取り上げることも目立つ。犯罪者の異常人格についてサイコパスという用語は使われていたか定かでない。検索するとアニメ作品として「PSYCHO-PASS」があった。聞いたことはあるが、まだ馴染みはないと言えるか。


2019読了13
 『サイコパス』(中野信子  文春新書)


 読もうと思ったきっかけは、著者の対談記事を読んだからだ。その中に「(サイコパスが)大企業のCEOとか政治家に向いているという言い方もできる」という箇所があり、俄かに興味が湧いた。逮捕拘留されている某大企業の元トップの顔や誰とは言わぬが有名政治家の顔が浮かび、その可能性に少し心が揺れた。


 サイコパスには適切な訳語がなく、精神医学としての正式用語でもなく「反社会性パーソナリティ障害」という診断基準なのだという。定義づけることは難しいが、著者の文章において「サイコパスは尊大で、自己愛と欺瞞に満ちた対人関係を築き、共感的な感情が欠落し、衝動的で反社会的な存在」とまとめられる。


 「他人の痛みを感じない」ことが端的な特徴で、100人に1人の割合で存在する。特に関心を持ったのは「勝ち組サイコパス」という言葉だ。つまりサイコパスの中には、古くは部族から追放されたりした者や犯罪者になったりする者もいるが、そうでなく社会の成功者として支配する側に立つ者も珍しくないのである。


 堂々とふるまい果敢に行動する姿は人々に魅力的に映る。その惹きつける力によって他者を巧みに利用する。しかし意図的に隠された内面は「反省できない」「罰をおそれない」。その危険性を知らなければ、犯罪や抑圧から逃れられなくなるだろう。有名な人物に限らず、身の周りにも存在することを忘れてはならない。


 サイコパスの思考や行動は「本人の意思や努力で後天的に変えていくことは難しい」とされている。とすれば、社会がどう向き合うかが問題だ。研究はまだ途上であり、犯罪とつながる危険性は絶えず抱える。しかし、著者は機械的な排除の論理を危険視する。人種間の差異より困難であっても、共存を模索せねばならない。

その名づけが浸食する

2019年02月05日 | 雑記帳
 アラサーやアラフォーという語が流行ってから、もう10年以上が経つ。今はあまり聞かなくなったとはいえ、派生してアラフィフとかアラカンなども出来たからインパクトはあった。しかし結局、そもそもが「商品購買層」という括りであり、対象が移りゆくとその語は使い捨てられるのが自然だ。名づけとは儚い。


 クイズバラエティを見ていたら「ジャパウ」という言葉が問題に出され、選択肢を見て、ああ雪のことかと思った。「ジャパン・パウダースノー」…我が秋田県では縁遠いが、サラサラの雪が外国人ボーダーやスキーヤーにウケるということで観光資源になっているらしい。縁遠いことではあるが、上手なネーミングだ。


 雑誌を見ていたら、有名なラーメンチェーン店「天下一品」の記事があった。あの店は当然「こってり」が中心だが、「あっさり」もある。そしてなんと、そのハーフ&ハーフ?もあるのだと!その名前は「こっさり」。あまりの混ぜ方に笑ってしまった。中間や普通、レギュラーとは言わないのは、発想が違うからだ。


 名付けに関して考えるのは面白い。そう言えば市町村合併が盛んに進められていた頃、一番白熱していたのは合併後の新市町名だった。学校を統合する場合についても同様だ。そこでは、ずっと親しんできた名前への愛着が、大げさに言えばアイデンティティと重なっていた。しかし、上に書いたような名づけは別だ。


 つまりアラフォー等は「標的」としてある。ねらいを定めるための名づけだろう。また、ジャパウやこっさり等は「釣り餌」のように考えられているのだと思う。語として流行らせアピールしていくために名づける。否定するわけではないが、それらの浸透、浸食によって個の主体性が崩されやすくなる一面もある。

同じ地平に立つ自覚

2019年02月04日 | 読書
 愛読している『波』(新潮社)の連載に、ブレイディみかこが今月こんな文章を書いていた。

Volume.142
 「人の中にある意識や感情というものは、あの茂みのようにいっぺん刈ってしまえるものではない。『表出する』ということと『存在する』ということはまた別物なのだから。」

 以前も書いたようにこの連載「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は、英国在住の著者が息子の日常を綴りながら、差別や国の現状などを鋭く突く内容である。

 今回も地域内のあるエピソードをもとに、上記のように語っているが、これは万国共通とも言えるだろう。

 個別に抱いている差別意識がある。
 その多くは昔の封建的な生活の中で、知らず知らずに刷り込まれてきている。
 時代が遷り、少しずつ歴史的なことを学びながら、そういった意識が誤りであることがわかってくる。
 がしかし、すべては消えきっていないことに、時々気づかされたりもする。


 それは身の周りや地域的なことから、国レベル、人種のことまで存在している。
 表面上は美しく温かなことを言えても、心の底に淀んでいる意識を掃うことは、なかなか難しいものだ。

 もちろんそのような事に惑わされず、隣近所から国際社会までつき合える人はいる。
 しかし、ただ見習うだけでは同じようになれるかと言えば、これまた難しいかもしれない。


 選別するような意識・感情の存在をまず認め、その折その折の出来事に照らし合わせて、落ち着いて考えてみるしか手がない。

 見渡せば、ご近所の些細な出来事から、マスコミで取り上げられる日韓の問題、テニスの広告、大相撲力士のことなど、そんな日常に溢れている。
 同じ地平に立っているなかで起きていることを自覚したい。

永遠解きたい君は、永遠説く

2019年02月03日 | 読書
 久しぶりに歌集を買った。

2019読了12
 『えーえんとくちから』(笹井宏之 ちくま文庫)


 この書名を一目見て、頭の中で変換したのは「永遠と口から」だった。
 しかし、この書名が使われているのは、この歌である。

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい


 「永遠解く力」だったのか。

 解説を書いている穂村弘は、最初「口から飛び出した泣き声とも見えた」と記す。つまり「エーエンと口から」だろう。

 ひらがな表記の意味付けに重層的なイメージがあるとすれば、穂村の見え方も自分の読み方も、まんざら重ならないわけではない。


 ちょっと難しく感じた。ちょうどこの歌が示すイメージか。

 「ねえ、気づいたら暗喩ばかりの中庭でなわとびをとびつづけているの」

 ただ、和歌や大御所的な歌人の作品よりは、親しめた気がする。
 イメージを浮かべて遊ぼうと誘い掛けてくるような歌もいくつかあった。

 それは、若い頃の実践として「伏字クッキング」と名付けて詩の授業構想に取り組んだ時を思い出させるようだった。


 少しだけ、拾い上げれば

 ①ひかりふる音楽室でシンバルを磨いて眠る【    】

 ②【     】のひとがゆっくりと砲丸投げの姿勢にはいる

 ③こころにも手や足がありねむるまえしずかに【   】をする



 君なら【    】にどんな言葉を入れるか。

 これはクイズではなくて、一つの創作活動になるのは間違いない。
 中学生なら文句なく面白いだろう。
 思い浮かんだ言葉でその世界を語り合う。
 その後に歌人の言葉と出逢わせ、話を広げてみたい。


 さて、作者は二十代で夭折した歌人。
 穂村が語るように、病床にある「永遠」を解きたかったに違いない。

 しかし読者からみれば、そのひとつひとつの歌が「永遠」を示しているように思える。

 その意味では「永遠説く力」に溢れている。


 ちなみに、伏字は ①一寸法師②美しい名前③屈伸運動

その人へも「おいしい」と伝えたい

2019年02月02日 | 雑記帳
 連ドラ『まんぷく』で、開発しようとしているラーメンの名前を「即席ラーメン」と名付けた時、「即席」という言葉がずいぶん懐かしく思えた。「インスタント」という語が一般化しているために、あまり使う人はいないが意味自体は浸透しているだろう。「その場ですぐにすること」「てまのかからないこと」(広辞苑)


 ただ「即席」が有効で価値を持つためには、言うなればそれとは真逆の、手間のかかる、地道な努力に支えられることは誰しも想像できる。ドラマのモデルである安藤百福のラーメンづくりは、まさに象徴的と言える。三年前の六月に横浜のミュージアムを訪れた時のことを「『食足世平』を貫いた人」と残してあった。


 今週は盛んにあの研究小屋「即席ラーメン研究所」で頑張っている場面が続いていた。実際にその家族が過ごした大阪池田にも、横浜と同様「安藤百福発明記念館」があるようだ。現物の再現で伝えたい精神は「たとえ特別な設備がなくてもアイデアがあれば、ありふれた道具だけで世界的な発明が生み出せる」ことだ。


 今、様々な起業者たちが口にする「創造的思考・クリエイティブシンキング」は、穿った見方をすれば経済的な成功が最優先のように感じる。しかし安藤は違っていた。求めていたのは人々の幸せであり、だから諦めずに思考を駆り立てていく。楽しい、リラックスした雰囲気で生まれそうな思考だが、最後は執念か。


 昨日書いたことと照らし合わせれば、インスタント食品は「作り手の見えない食品」に該当するだろう。しかし、即席での美味しさを実現しようとした開発者、研究者は安藤を初め、数多く存在する。時々はそのことに思いを馳せて「おいしい」と呟いてもいい。ただ、そうであっても一人で食するのは少し寂しいなあ。

「男は黙って」もはや彼方

2019年02月01日 | 読書
 自分があまり「おいしい」と言わない人間だと気づいたのは、結婚してしばらく経ってからだ。家人に指摘された。育ちに問題があったからだろう。受け持っていた子どもの保護者から、「先生は本当においしそうに食べる人だなあ」と言われた経験はある。けれども、食に関するコミュニケーション能力は低かった。


Volume.141

 「『おいしい』は共感だからです。『おいしい』は、口に入れて味蕾で感じる味覚的な感覚表現と捉えがちですが、その味覚で感じるおいしさとは別に、共感という活きを持っているのです。」


 グルメ番組で感想を言うとき、言葉が見つからなくとも「とりあえず『おいしい』で逃げられます」と土井善晴は語り、その訳を上のように書いている。それは表層的で習慣的で便利な言葉だけれども、何故よく使われるかを考えると、実はコミュニケーションに行き着くのである。当たり前のようでいて大切なことだ。


 つまり料理とて一つの表現であり、その表現に対して受け手(食べ手)が讃えることに価値が生ずるわけである。食レポの番組は数多くありその表現の巧拙が言われることも多い。映像的な問題とも言えそうだが、いくら言葉を尽くしても伝わらない人もいて、それは結局、作り手への敬意の見せ方の差かなと気づく。


 しかし世の中、作り手の見えない「食べ物」が日に日に増えていて、いくら「おいしい」と口にしても、伝わるべき人に届かない現状もある。距離が離れていることは幸せとは言えないだろう。ともあれ目の前に料理人がいる時はコミュニケーションをとろう。「男は黙って…」の時代は、もはや彼方の彼方なのだから。