すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ト―シメレ、マズアダレ

2019年02月18日 | 雑記帳
 ケンミンショーで、超田舎(笑)の家のなかでの寒さを話題にしていた。寒冷地の冬季は部屋による温度差があり、屋外にあるトイレ・風呂場への行き来のこと等、懐かしい気持ちで見入った。なかでも掛布団が重い、いや重くなければ駄目という話は亡くなった祖母や母がよく口にしていたし、感覚的に十分理解できた。


 東北や北陸出身タレントが、「昔は部屋の戸の開け閉めをしっかりしないと怒られた」と言った時、妙に記憶がよみがえり、家人とつい声を合わせたのが「ト―シメレ(戸を閉めれ)」だった。何度も何度も耳にした一言だ。今は家中が適温というのが普通で、そこに行けば暖かいという場がなくなったと改めて気づく。


 「マズ、アダレ」とストーブや炬燵のそばに招き入れられることも少なくなった。まったくの郷愁と言えるかもしれない。しかし何でもフラットを目指す今の世が果たして良いものなのか、つい考えてしまう。寒さがあり暑さがある、厳しさがあり優しさがある…自然に限らず、人間社会でも当然のことだったのに。


 とひとしきり妄想をして…今年は地区内の班長で広報配りなどの役目を月数回行っているが、冬場に廻るとまた面白い場に出くわす。融雪溝が整備されていない道沿いの住居はやはり除雪が大変で、玄関へのアプローチは両脇に雪を積みながら通すことになる。その「壁」の高さが人の背に近く、そこでまた思い出す。


 昔はこんな住まいが多かった。それより地面近くまで除雪せず、雪で階段を作っていたではないか。裏出口はそんなふうに作るのが自分の役目だった時もあったなあ。山間地の教員住宅に泊まった時は連日そんな繰り返しだった。その寒さ、冷たさが部屋や教室のストーブでほどける瞬間を思い出す。幸せの一瞬だ。

アナログだから向き合える

2019年02月17日 | 読書
 たけし「初の書下ろし恋愛小説」ということで、一昨年話題になった本である。たしか、又吉直樹が『火花』で芥川賞を取ったので、対抗して…と冗談交じりで何かの雑誌に書いていた記憶がある。中味にそれほどの文学性は感じなかったが、テンポのいい文体だ。何よりいい装幀だと感じる。ここにも北野色がある。



2019読了17
 『アナログ』(ビートたけし  新潮社)



 アナログという語を改めて辞書で引いてみる。電子辞書3、紙辞書3の計6で「数量を連続的に変化する量で表わすこと」という本来の意味だけを記しているのは4つ。広辞苑には「物事を割り切って考えないこと。また電子機器の使用が苦手なこと」三省堂現国は「人間の能力や直感を重んじること」の記述がある。


 もちろん、小説だから後者であることは言うまでもない。主人公の悟はデザイナーでありながら、PCにあまり慣れず、設計プランの模型を手作りしたりする男である。ハードな仕事を抱えながら、介護施設に入れた母への思い、ある日入った店で隣合わせたみゆきとの出逢い…と二つの軸が交差する風景で動き回る。


 悟とみゆきは連絡先を交換せずに、木曜日に「ピアノ」という店で逢うという約束だけをする。現代の世の中では考えられない。しかしそれはかつて「待ちぼうけ」や「行き違い」「すれ違い」といった、一定以上の年代の者であれば経験したことのある情況に近いゆえに、感情移入が容易で読みやすく心に沁みた。


 「アナログ人間」はその非効率を責められたり、貶されたりするが、様々な場で抱く割り切れなさに正直であることは、自分に向き合っている証しに見えた。さて、悟の親友の二人、高木と山下のかけ合いは実に見事な漫才であった。演芸口調そのものに思えた。著者はここを書きたくてペンを取ったかと思わせるほどだ。

その「いだてん」見逃せない

2019年02月16日 | 雑記帳
 NHK大河ドラマだからだろうが、視聴率が一桁に落ちたことが新聞記事にもなる。来年の五輪を意識させつつ、宮藤官九郎脚本で話題を集めたいと願った制作サイドの思惑は今、いかに…。ずっと大河は見続けていて、確実に言えるのはよくも悪くも「異色ドラマ」ということだ。


 視聴率が悪い点の理由を「時代設定(近現代は駄目)」とする論が多い。主たる視聴者層を考えると、そうかもしれない。しかしこのドラマ、第一話を観た時点で、これは視聴率は上がらないだろうと既に予想できた。場面構成や展開にスピード感があり過ぎ、のんびり観ていられない。


 個人的に宮藤脚本は好きだし、演出も含めて意図はわかる。視聴率という数的データから離れ、高評価している人も少なくないようだ。それにしても、ゴチャゴチャ感が溢れている。豪華な役者陣のキャラは立っているが、細切れで伝わりにくい。その混在を楽しむ論もあろうが。


 宮藤は週刊誌連載に「このホームドラマ感が僕は大好きです。城がどうの兵がどうのと、男のしかめっ面ばかりが大河じゃない」と記している。確かに、ホームドラマとして観れば親愛の情溢れるシーンは巧い。ただ大河の持つイメージとの両立には筋を見やすくする工夫が必要だ。


 もちろん「貫く」ポリシーがあるかもしれない。大河ウォッチャー(笑)として見続けるつもりなので、その変化の有無に注目したい。「いだてん」とは「足が速い」こと。「足がはやい」が腐敗していく意味か、それとも売れ行きが上がっていく意味になるのか。ドラマ作りが見逃せない。

手助けになる根を持つ

2019年02月15日 | 読書
 若い頃、「先生は哲学者だな」とある方から言われて、面食らったことがある。大学で専攻したわけでもないし、そもそも哲学の素養すらない。学級通信などに理屈っぽいことを書き散らしていたからかなあ。しかし読書歴を振り返ると、哲学者の本(最近のごく簡単な著)も結構読んでいることに気がついた。憧れかな。


2019読了16
 『魂のみなもとへ』(谷川俊太郎・長谷川宏  朝日文庫)


 「詩と哲学のデュオ」という副題がある。御終いまで読むと、谷川の詩を長谷川と編集部で選び、それに長谷川が散文を付けた形だとわかった。詩と哲学の違いなど考えてみたこともなかったが、谷川の言では(谷川の父は哲学者だ)、必ずしも対立するものでもない。「考えや表現の根っこ」をどこに持つか、であろう。


 「哲学者は論理を武器とするのに対して、詩人は論理によっては、少なくとも通常の意味での論理によっては到達出来ないところに行こうとする」と谷川は書く。だから、長谷川が選んだ詩に文を「つける」という作業は「対立と同調」という言葉に集約される。本来、読むとはそういう行為なのかもしれないと気づく。


 あとがきで知ることになったが、この著のテーマは「生・老・死」であった。谷川の詩は初期作品「うつむく青年」「鳥羽」など全部で三十篇。テーマのどれかに当てはまる。最終篇で取り上げられたのは、『生きる』(あの有名な詩と違う)であり、長谷川はそこで繰り返される「生かす」を挙げて、こう付けてみせた。

 歳をとることは、「生きている」という実感が少しずつ「生かされてある」という実感にとってかわられることかもしれない。人といっしょに、物といっしょに生きていること。



 これはありきたりな「感謝」などという概念とは異なる。「生きる」にある能動性とはまた別に、一歩引いたところから見つめることから生ずる、周りからの視線や気配と共振する思いとでも言えようか。「生かされてある」実感を持てれば、それは結構な人生と言えるのではないか。詩や哲学が傍にあることは、手助けになる。

そんなオマエにがっかりだよ!

2019年02月14日 | 雑記帳
 議員や首長の失言・放言問題は、いまや日常茶飯事のように報道でこぞって取り上げられるので、食傷気味で関心がわかなくなった。ただ、今回の五輪相の発言は「がっかり」が大きく取り上げられて、一言の重みを感じてしまう。このごく普通の擬態語でも、使い方を誤るとこんなふうに騒がれるという典型だろう。


 「自分にがっかりする」はやや特別な言い回しで、「がっかり」する対象は他者を指すことが本来の使い方になる。従って今回の大臣の落胆・失望は池江選手に向けられたものだ。何に対する「がっかり」かと言えば、選手本人が病気になったことにより、五輪活躍の可能性が減ることを指していたように受け取られた。


 ただ、今回の白血病報道を初めて聞いたとき、心の中で同じニュアンスでがっかりと少しも思わなかったか、というと自分には一瞬あったと認めざるを得ない。身内や知り合いだったらそんなことはないだろうが、活躍の姿を見ているだけの者としてはごく自然に湧き上がった。もちろん、表出するには憚られる感情だ。


 まして政治家であれば、言葉を選ぶことこそ最重要とされる資質なのだから、責められてしかるべきである。他者に対して「がっかり」と言えるとすれば、それは与えられた条件下での頑張りや工夫などが足りないと評価するときだ。天変地異や病気等について用いる語ではない。他者への想像力がコントロールする。


 久しぶりに『擬音・擬態語辞典』(講談社)を引いてみた。見出しに書かれている意味は「予想や期待が外れて落胆した様子」と普通だが、添えられた例文が「派閥順送りの大臣心待ち組はがっかりしただろうが」(朝日新聞00.12.6)とあり笑ってしまった。そんなことを繰り返してきた方々には、想像力は期待できない。

如月の耳目に触れたこと

2019年02月13日 | 雑記帳
 バレンタインが近いからか、チョコレートに関するTV番組が放送されていて、何気なく観たら、驚きの情報にあった。普通の板チョコにも長方形があったり、ギザギザ模様が表面にあったり、丸味を帯びていたりするが、それは単なるデザインではないと言うのだ。成分の味や香りなどを強調するための形状だという。


 誰しも知っている二宮尊徳。今さらながらかの実践主義者はいいことを言うと、小説に引用された語句を読み痛感した。「飯(めし)と汁 木綿(もめん)着物は身を助く 其(その)余は我を責むるのみなり」…ご飯も味噌汁も食しない日がある。綿100%のシャツ、少なくなったなあ。なんと、責められている毎日だ。


 カーリング競技の面白さは正直あまりよくわからない。TVなど見ていても、女子選手の真剣な眼差しに魅力を感じるぐらいだ。ただ、先日「スキップ」という役割があることを知り、少人数のリーダーだけにその明確さが印象に残った。司令塔として、本来の性格を抑えてでも強さを演技していくという姿勢に共感した。


 将棋ブーム?は続き、NHKで新番組ドラマも放送されている。その冒頭で実際の羽生善治九段が登場してインタビューに応える場面があった。主人公の記者が何手先まで読めるのか訊ねると「プロ棋士なら100手先…」といった返答だった。ただ、それが細かく枝分かれすると考えたら…凄いとしか言いようがない。


 「恥を知れ!」この頃聞かなかったが、そう言いたくなる人はたくさんいたように思う。文春に載ったこの記事などは、まさしくその通りだと考える。国会周辺には、まだまだたくさん居るはずだ。ただ、この言葉は大妻女子大学の校訓として有名だ。本来は他者へ向けるより自分への問いかけだと忘れてはいけない。


本当に大切な欲望へ

2019年02月12日 | 読書
 最近というわけではないが、自分の中で心と身体は別物だなあと想像することがある。身体面の衰えを感じるようになったから、余計そんなふうに思うのだろう。心はずっと相変わらずで、肉体だけがポンコツになっていくような…。しかし現実はそうではなく、せめぎ合ったり慰め合ったりしているのかもしれない。


2019読了15
 『永遠のとなり』(白石一文  文春文庫)



 ほぼ同世代の作家。以前に一冊だけ読んだことがある。その時の印象とはまた違って、案外するりと染み入ってくる話だった。描いている人物もまた作家が投影しているようだ。住む場所や経歴が違っていても同時代感覚があると、その思考には共感できることが多いのだろう。何気なそうな一言に、ぎくりとする。

 「私は、私という人間のことが本当に嫌いだったのである」

 企業の営業や企画で働いていた主人公が、40代後半に会社合併や不倫、部下の自殺等を経てうつ病を発症し、精神科の病室で初めて内面に気がつく。そして、彼は登り続けてきた果ての現状を「ずっと厭いつづけてきたかつての自分自身たちから強烈なしっぺ返しを受けているのだ」と語る。過去を貶めてきた結果だと。


 今でこそ自己肯定感という語が幅を利かせているが、自己嫌悪の渦にずっと浸かってきた者には、弱さを受け入れる困難さが根強く染み込んでいる。それを底から癒すものは、一体何かと考えさせられる。本作ではそれがであり、故郷と言える。いたって平凡ではあるが、その筋道を見つけられるのは幸せなことだ。


 社会的な成功を収めたが今は病に苦しむ友と、心の底から話し合える主人公。互いに「再生」し合えるような関係である。誰とであれそんなつながりの有無は、人にとって「大切な欲望」の一つだろう。我々の欲望は次々と細分化され、それに見合ったサービスが提供される世の中だが、本当に大切なものへ届きにくい。

苦味を口に覚えて知ること

2019年02月11日 | 雑記帳
 2月10日は「ふきのとうの日」と言われても、豪雪地帯に暮らす者にはぴんとこない。宮城県で2と10の語呂合わせで制定したようだ。本県でも海岸沿いなら今月あたりからそろそろだろうが、内陸山間部は少なくともあとひと月半は待たねばならない。春の訪れを感じる一つの印として、あの苦味が口中に浮かぶ。


 ふと気づいたことがある。最近、孫の食欲が旺盛になってきて何でも口にしたがるが、まだ駄目だろうという食べ物を欲しがるとき、「これは、ニガイニガイ」などと言っている。味覚の「五味」(甘・塩・酸・苦・旨)の中で苦味は独特なものだ。識別する信号としての役割は「毒の存在を知らせる」ことだとされている。


 苦味や酸味は、大人になるまで少しずつ繰り返し体験して学習し、おいしいと位置づけられるようだ。考えれば、ずいぶんと苦いものが好きになっている。Beerは言うに及ばず、ふきのとうやぎんなん、魚の肝に一部の野菜の葉など、それからチョコレートも好んでカカオ分の高い品を選んでいる。かなり学習した(笑)


 言い方を変えれば、「毒」を口に入れても平気になったということか。味覚だけでなく、人間とはそもそもそんなふうに「安心できる・大丈夫なもの」の感覚を身につけ、だんだんと「危険な・きつく感じる」ものへ手を出していく。そのスピードやバランスには様々な差はあるとは言え、大概その道をたどる。


 食べ物はさておき、人格的成長?に関してはずいぶんと消毒が徹底した世の中になってきているようだ。毒や悪の存在を野放しにしておけないのは社会通念だろうが、実は取り締まる方が猛毒だったり巨悪だったりする例も、ちょっと考えれば思い浮かぶ。そんな穿った見方も、苦く苦しい経験をして身につくようだ。

朗らかな空気を入れたい

2019年02月10日 | 教育ノート
 最近目にした記事で、納得しつつ落胆する思いになったのがこれだった。


 優秀な若者を教職に引き寄せてきた日本で、とうとう始まった「教員離れ」


 ここに載っている統計も(笑)、もちろん吟味が必要だが、傾向としては指摘されている通りだろう。
 児童生徒の「将来なりたい職業」といったアンケート、ランキングなどにも顕著に表れている。

 その理由は当然複合的だと言えるだろうが、学校現場経験者として言いきってしまえば、職場の中に笑顔が減っていることが大きいのではないか。

 あまりに感覚的すぎるだろうか。


 かなり昔に知り合いの教員に聞いた話がある。

 受け持っている高学年の男児が「将来、先生になりたい」と言ったので、その訳を訪ねると、こう答えたそうだ。
 「だって、職員室にいくといつも先生たちが笑っていて、楽しそうだから

 これは言うなれば、本筋ではないかもしれない。
 授業や諸活動の中で、教師の真剣さ、明るさ、優しさなどに触れて感化され、こういう大人になりたいと思ったりするのが普通だろう。

 ただどういう場であれ、同じ空間で同じ時間を過ごしている大人が楽しそうに見えるということが、子どもにとっては何よりのモデルたり得るはずである。


 それが、学校という場から明らかに減ってきている。

 そしてそれは、進路や職業選択に関わりを持つことはもちろん、子どもが未来を生きる力に直結する大事な要素ではないのか。

 このようになった原因を特定するのは難しいが、政策として行われたいくつかを指折ることはできる。
 危機管理の名のもとに、現場に指示されたある調査など歯ぎしりする思いで取り組まざるを得なかったものもある。

 全体的に括ると、ダブルバインドの状態に置かれた学校の中で、閉塞感だけが強まっていき、朗らかな空気が薄くなったと言えるだろう。


 待遇、条件面での改善は言うに及ばず、それ以上に教員に与えられるべきは、力量や願いを発揮できる場である。
 「専門職性」つまり教師個々の裁量を狭めず、自由度を高めたとき、子どもが育つ場にふさわしい朗らかな空気が入り込んでくる。

 もちろん教師もまた工夫しなければ、空気の通りは悪くなる。

その写真集は郷愁を超える

2019年02月09日 | 読書
 ちくま文庫版で第3巻まで手に入れ、4巻を借りに図書館へ行ったら他に2冊あったのでまとめて借りてきた。収められた作品はほとんど重なっている。木村と言えば、なんといってもあまりに有名なこの写真。昨夏活躍した金足農の吉田輝星に似ていると感じた人も多いだろうが。こちらはかなり年季が入っている。



2019読了14
 『木村伊兵衛写真全集昭和時代第4巻 秋田民俗』(筑摩書房)
 『木村伊兵衛・秋田』(ニコンサロンブックス)
 『木村伊兵衛の秋田』(朝日新聞社)


 これらに収められている写真の意義は、写真史をかじった方ならご存知なのかもしれない。昭和二十年代後半、既に有名写真家だった木村が審査会のために秋田を訪れ、主催者から案内された地域を回ってから、足しげく撮影に通うようになり、後期の代表作品を作りあげた。晩年の評判はそこに集中しているという。


 ある資料に、木村は「条件がよすぎて自分があまやかされ、写真の本質が写らなくなるんだ。吹雪の中で自分の体を痛めつけ、苦しんでいくことによって、写るようになるんだ」と語ったとされている。朝日新聞社版の解説には、むのたけじが「転換するムラ・転換する写真家」と題して、その出逢いを分析している。


 むのは、木村と秋田との関わりを「偶然から出発して、しかも必然の成り行きであった」と書く。そして、報道写真への思いを抱きながら現実の創作にやや行き詰まっていた木村が、たまたま訪れた秋田で覚醒し始める様子を、次のように表現している。「悩む写真家が悩む農村へ、のめり込むように吸い付けられた


 「新旧ふたつの世代の対照」をねらったというが、実際には「去っていくもの・消えていくものにひたすら執着していく」作品が圧倒的だ。写真集をめくれば、少なくとも昭和30年代前半生まれ世代までは、今の生活と突き合わせ問いかけざるを得ない作品に出合える。単なる郷愁を超えた、生の原点を観る思いがした。


 ちなみに、自分が一番気に入ったのはこれでした。(雄物川渡し昭和38)