すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

罪深き一人の弁明①

2020年08月18日 | 読書
 池上彰著の『わかりやすさの罠』を読了したのが、ちょうどひと月前だった。その新書は「『わかりやすいこと』には陥りやすい点が多いので気をつけよ」とわかりやすく説明していた…と、こんなふうにまとめてしまうこと自体の危うさも武田砂鉄は指摘する。そう習慣づいてしまった自分は罪深き人間なのか、と想う。


 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄  朝日新聞出版)


 ある雑誌の連載の単行本化。その連載は目にしていないので、その通りに並んでいるかどうかはわからないが、目次にある1から4までの小題だけを挙げても、携わってきた学校での仕事のあり方(それは公私共に得た様々な知識や技能…例えば野口芳宏先生に学んだこと等も含めて)について振りかえざるを得ない。

1 「どっちですか?」のあやうさ
2 「言葉にできない」
3 要約という行為
4 「2+3=〇」「〇+〇=5」




 今さら「〇×方式」について深く言及するつもりはない。それは学習過程の一環に組み込まれてこそ有効性を発揮するものだし、クイズと変わらないだの、豊かな発想や解釈を阻害するなどという声は、位置づけを明確にできないだけと考えているからだ。「わかる」が「分ける」を基にしていることは明らかなはずだ。


 選択の細分化を提案しているわけではない。著者が危惧するのは、学校教育に限らずこの情報社会に氾濫している、選択提示の仕方や選択内容の窮屈さである。効率化、スピード化が進行し、拒否や保留に対する非寛容さだけが募っている。様々な意見を認めているようで、実は一元的な管理に頼る学校にも根はある。


 確か一年生を受け持った時に言った記憶がある。「赤ん坊は、痛くてもお腹が空いても泣くことしかできない。でも君たちは違うね。言葉を覚えたし、それを使って人に伝えることが出来る」。この運用を高めることが教育の重要な役割であることは否定できない。肝心なのは常に全体⇔個別という視点を忘れないことだ。


2020の旧盆日記

2020年08月17日 | 雑記帳
 アナログでも残してはいるが、今年はこちらにも残しておきたい。
 来年のお盆を迎えるときに読み直すことと思う。


8月13日(木)
 今日は通常勤務日。このあと休みが続くので、先を見通しながら通信づくりや原稿下書きなどを進める。某件に関して教育委員会へ報告があり出向く。通りを歩く人が例年より少ない気がする。いつもの華やぎ感がない。夕刻退勤して、実家の兄たちと墓参り。その後、例年のように一献。ここには世代交代の波が出てきた。まだ「迎えられる身」になる(笑)には早い気がしている。楽しく飲める。


8月14日(金)
 下の娘は休みではないというので、孫がやってくる。ベビーカーで久々に散歩する。常にキョロキョロしている姿は、外的な刺激に対する反応で見ていて飽きない。録画していたNHK「#あちこちのすずさん」を視聴する。アニメ映画『この世界の片隅に』をもとに、視聴者からの投稿で構成した番組。戦時下においても人間の普遍さが感じられるいい内容だった。夕刻、馴染みの理髪店へ。


 もう咲き始めました 20200814

8月15日(金)
 先週から読み進めていた『わかりやすさの罪』(武田砂鉄)を読了。いろいろ考えさせられた一冊だ。孫がこない今日明日で部屋の片付けに入ることにした。昼は珍しくカレーライス。新しい炊飯器の実力を見た。なかなかよろしい。地元新聞の「大曲の花火」に寄せる特集企画に短文を投稿してみた。ずっと通い詰めたお祭りのない寂しさを改めて思う。夕飯後、孫に誘われ、線香花火に付きあう。


8月16日(日)
 朝の寝床でヨシタケシンスケの『欲が出ました』を一気に読了。前作の方が面白かった。今日も片付けを進める。とにかく二人の男児に荒らされないように配置を工夫する。数年ぶりに机を動かし、リフレッシュ。あと一週間ぐらいで届く新しい相棒(PC)の受け入れ準備の意味もある。それにしても溜まったデータ、なんとかせねば…。盆踊りのお囃子が聞こえてこない夏、皆どう過ごしているか。

この本で立ちどまる

2020年08月14日 | 読書
 「辞典」という語を、辞典で調べてみる。広辞苑では「⇒辞書①に同じ」と記されている。辞書①とは「ことばや漢字を集め、一定の順序に~~~」のことである。この本には「語りかける辞典」という副題があるが、語の意味を説明しているわけではない。新聞の投稿詩への選評を、テーマを設け集約した一冊だ。


 『風のことば 空のことば』(長田弘・いせひでこ  講談社)

 辞典と名づけているのは、五十音順にテーマを並べたからだ。長田が亡くなったあと、講談社編集部が詩人の生前の願いとして出版を望んでいたことを知り、実現させた形だ。選評ではあるが「短詩」と呼べる言葉が、絵本の共著者でもあるいせによって描かれた絵とともに構成され、類書のない形式に仕上がっている。



 冒頭の「あ」で取り上げられたのは、「あさ(朝)」「あめ(雨)」と「ありがとう」だ。最初の一行がいい。

 朝は、鏡のなかに、新しいわたしを発見する時間。

 子ども向けに書かれたことばなのだが、大人の読者にも十分に考えさせる幅や深度を感じさせる。詩人ならでは、のことか。「ことば(言葉)」にはこんな一節がある。

 ことばはね、その人の器なんだ。
 詩のことばは、どんなに大きな思いも入れられる小さな器。


 様々な角度から読み取れるような気がする。一行目~「器」は大きさだけでなく、形や色、材質まで想像できる。自分が声にする、文字にすることばがどのように人には見えているのか。二行目~ことばを多量に書きつければ、器だけが大きくなっていくのか。それとも、思いを受け止めるに十分な器をつくるべきか。


 この詩人がたえず「語りかけてきた」ことの一つに、今の時代に向けた警告があるだろう。それは直線的でスピードを求める現代社会の我々に確かに向けられている。「こころ(心)」にある一節は考えさせられた。

 心をからっぽにするために、走る。
 心をみたすために、歩く。

 あとがきで紹介された「立ちどまる」という詩の一節は、ひどく哲学的だ。

 立ちどまらなければ ゆけない場所がある。
 何もないところにしか 見つけられないものがある。

牡蠣フライと文章と才能と

2020年08月13日 | 読書
 川上未映子が訊き、村上春樹が語るという構成の『みみずくは黄昏に飛び立つ』(新潮社)からもう一つ。
 「伝える」から一歩進んで、何のために文章を書くのか考えてみたときに、ホーッ、ナルホドと思わず頷いてしまう一節に出会う。

 「とにかく僕はその文章を読んだらもう、牡蠣フライ食べたくてしょうがなくなってくるとか、あるいはその文章を読んだらもう、ビールが飲みたくてしょうがなくなってくるとか、そういう物理的反応があるのがとにかく好きなんです。そしてそういう技術にさらにさらに磨きをかけたいという強い欲があります。」

 世界の大作家が高邁なことを書くのではなく、牡蠣フライを差し出しながら自分のありのままの思いを表現している点が実に面白い。こんなふうに続く。

 「字面を見ているだけで、牡蠣フライが無性に食べたくなってくるような文章を書きたい。

 これを受けて、川上がこんなふうに評する。

 「牡蠣フライ超えの意志がある」

 村上は、さらにこう重ねる。

 「現実の牡蠣フライよりも、もっと読者をそそりたい。」



 川上はこんなふうにまとめるのだが、このストレートさには気後れしそうだ。

 「それは、文章の純粋な魅力だから」

 文章を書くことを生業にしている人たちは、その魅力をいかに発揮するかに心を砕いている。
 例えば、果物の生産者と比較を試みたときに、「見かけ」「味」「香り」「食感」などの要素と重なる。どのような種を植え、どのように育て、どのような実に育てるかを、作家という人種はやっているのだなあと想像する。


 「食べたくなる」とは限らないが、衝動を引き起こすような味を出す文章には、きっと何か仕込まれている。
 そこまでの一連を才能と呼ぶのかもしれない。

活力という語に頼って

2020年08月12日 | 読書
 来春には名実ともに(笑)高齢者になる自分なのに、今月に入ってからなんて未熟なんだ、いつまでこんな事を!と思う出来事が続けざまに起きて、滅入った。「相変わらず進歩なし」と感じても必要以上に気鬱にはならなくなり、少し成熟したかと評価していたが、見せかけだった。「人間は変わらない」…家訓が重い。


 しかし、結局のところ居直る、誤魔化すしかないではないか。今回は「腹を立てた・怒った」ことや「だらだらと同じ事を続けていた」という行動パターンなので、これをひとまず「活力」と前向きな言葉に置き替えてみようではないか。そのうえで後押ししてくれるような「コトバ」を探せばよくはないか。少々安直だが。



 『みみずくは黄昏に飛び立つ』(新潮社)という対談集を読んだ。作家川上未映子が「訊く」役となり、村上春樹が「語る」構成である。村上ファンの川上が突っ込むので、著作をあまり読んでいない自分には難しすぎたけれど、ところどころに興味深い見識が顔を出して、面白い。川上が「死」を話題にふったときだ。

 村上はブルース・スプリングスティーンと同い年だそうで、そうしたアーティストとの交流も多いようだ。その経験から語ったのが、次の文章だ。

 別に若作りなんかする必要がなくて、ものの見方とか考え方が三十代であれば、それでいいじゃないかと思うわけ。そういう活力みたいなものが失われてきて、だんだん人が死に向かっていくというのは、きついと思うけど、まだ失われていない限りは、そこまで深く考える必要ないんじゃないかと。


 「ものの見方とか考え方」の質の問題であることは重々承知だが、とりあえず「活力」という語に頼る。肉体的な衰えはあっても精神的な点を維持できていることは価値と言えるのだ。古来の賢者たちも語ってきた格言だ。血の巡りを良くするのはやはり活力だ。でも、実は三十代レベルにも成れてない感覚がある。

ちょっと嬉しい半ちく野郎

2020年08月11日 | 読書
 外国人による日本という国及び日本人への辛辣な評価は珍しくない。その代表的な一つに、この本にも書かれているような「『自分ではない誰かがしてくれる』という気持ちが強い」という点が挙げられる。依存することが全て弱さではないが、多くの日本人は自らのその傾向を認めつつ、甘んじている。自分も、また…。


 『サコ学長、日本を語る』(ウスビ・サコ  朝日新聞社出版)


 著者は京都精華大学学長、アフリカ・マリ共和国で生まれ、中国留学を経て、90年に日本へ。日本語学校を経て京都大学で博士号を取得し、京都精華大学に勤め、2002年に日本国籍を取得している。経歴からだけでも想像できるように日本が好きでその良さを認めつつ、「なんでやねん」とツッコミを入れてくる一冊だ。



 やはり教育論に目がいく。サコ学長がこの本で語ることを、自分なりの視点でまとめてみると、総じて日本で重要とされるのは「深さ」であり「広さ」ではない、と括れるような気がする。典型的な例は日本にあるオタク文化と言っていいだろう。アニメを初め、評価の高い分野はそうした素地から生まれていないか。


 「趣味といったら、まるで専門家のような勢いになるので、ビックリする」とあった。確かにこの国の一断面だと思う。社会的な立場や業績とは違う領域においても「こだわり」を持って掘り下げている者を評価する意識は高い。茂木健一郎が「IKIGAI」という一冊で、日本人の特徴をまとめ上げたことを思い出す。


 解説で内田樹はいみじくもこう書く。「あれこれの分野について、ちょっとだけ興味があり、ちょっとだけ知っているという人は、日本社会では「半可通」とか「半ちく野郎」とか(略)呼ばれて、軽侮され」つまり、「中途半端な関心」を封じている社会、そんな教育になっている。その点をサコ学長は鋭く突いている。


 具体的な提言は「もっとだらだらしろ」ということ。もちろんそれを例えばメリハリという点で収めれば簡単に頷けるのだが、日本人にはかなり困難な課題かもしれない。先日書いた「退屈」のこともそうだし、時間に対する向き合い方そのものと結びつくはずだ。ただ、これ以上は、この「半ちく野郎」には言及できない(笑)

禁断へ踏み込めば、そこに…

2020年08月09日 | 雑記帳
 もうそちらへ行ったら戻れないな、きっと…そんなふうに感じていた。どっぷり浸かってしまった顔見知りも知っている。だが、駄目だ駄目だと思いつつも、衝動を抑えきれずに新刊棚に並んだその一冊を手に取り、貸出カウンターへ差し出した。とうとう、ああ…と、まあ何のことはない、実は「大活字本」のこと。


 フォント数が大きく見やすい。高齢者のためのシリーズが複数の出版元から出され、我が町の図書館にも入っている。目がしょぼしょぼするお年頃に向けられた書籍だ。揃っているのは小説を中心にベストセラーや一定の評価を得ている本で、興味がそそられる。そこに登場したのが『なつかしい時間』(長田弘)だった。



 版は少し大きいが何しろ見やすいので、ラクちんに読めるなと思い、ベッドで開いてみる。・・・んっ、あれっ、何かおかしい。たいそう字は大きいし漢字も読める、が何か頭にするっと入ってこない。フォント、字間、行間がスカスカしているようで妙に落ち着かない。絵本の大きな文字とは、また違うように感じる。


 そうか、今の自分の読書法は一語、一文を黙読しながら追っていくパターンではなく、もう少し広く見渡して「範囲」で文章を見ている傾向があるようだ。元になる新書も図書館蔵書だったので、翌日それを借り直して開いたら、やはりしっくりと馴染む。単に大きければいいわけではないと、当たり前のことを知る。



 そしてもう一つ気づくのは、自分がいかに丹念な読み方をしていないか。これはここ20年ばかりの習慣なのかなあ。もちろん、気になった箇所は目を落ち着かせるが大方は流れている。もしかしたらその引け目があってこんなメモを残しているのか…。いやいや、そこまで貶めなくても…。まずは「読めばいい」のだ。

器量で見つめる今を

2020年08月08日 | 読書
 「なつかしい」という語が、「過去の思い出」や「久しぶり」に伴う感情だけを表しているわけではないことを知ったのは、成人してからだと思う。そもそもが「なつく」という動詞がもとにあり「傍に居たい、心惹かれる、いとしい」といった感情を指す。この一冊を読んでいる場は、まさにそんな時間が流れていた。


 『なつかしい時間』(長田弘  岩波新書)



 図書館から借りて読了したが、書棚に置きたいと思い注文した。1995年から2012年にかけて書かれた文章であっても、時代を越えて本当に大事なものが詰まっている。私たちが何気なく使う言葉について深く見つめ、その精神を説く先達は何人か思い浮かぶが、著者も間違いなくその一人だと思う。学びは大きい。


 例えば、「『退屈』の研究」と題したページには、今日の人間が退ける語として「退屈」を挙げ、芥川龍之介の文章を引用しながら、彼の人生の破綻と退屈の捉え方を鮮やかに浮き上がらせてくれる。退屈こそ「万物の母」ではないかと言う著者は、こんな言葉で読者に問いかけている。

 「退屈」をゆっくりした時間、ゆったりした時間としてすすんで捉えかえすことができれば、「退屈」のない多忙、興奮のみをよしとする日々の窮屈さに気づくはず。


 最も唸ったのは「『器量』という尺度」という章。一般に人間を形容する語だが、社会や文化もその視点で「器量の器はハードウェアのこと。器量の量はソフトウエアのこと」という解釈が成り立つ。本来は一体化して使われたその語が、現在はその二つが分離して、アンバランスが際立つ。「器量」という尺度も後退した。


 技術革新が進みあっと言う間にそれに替わる尺度として、「性能」が現れた。それは機械のみならず、人間さえも対象とする。身心というハードとソフトを分離できない人間にとって「性能」を求められる世の中はやはり何かを犠牲にせざるを得ないのだろう。個人の器量、社会の器量…トータルに考え、取り戻したい。

深呼吸をして「あのとき」を

2020年08月07日 | 読書
 読書のマイブームというのは、時々やってくる。小説などは続けて何冊も読みたくなる作家に何年か一度は出逢っている。今回は詩人、長田弘。去年からの小さな波が、続けて寄せてくる。ずいぶん以前からその名前は知っていたが、あまり読んでこなかった。絵本の中の言葉に惹かれて、きっかけができた。

 『深呼吸の必要』(長田 弘 ハルキ文庫)



 なんと単行本は1984年刊である。散文詩、それも一行が20字という原稿用紙形式となっている。「あのときかもしれない」「大きな木」という二章立て?になっていて、特に前者は素晴らしいと感じ入ってしまった。「きみはいつおとなになったんだろう」という問いかけから始まる、その詩群は9つで構成されていた。

 無謀というか、不遜というか「引用だけ」でやや要約っぽく組み立てれば、こんな感じになる。

いったいいつだったんだろう。
子どもだったきみが、
「ぼくはもう子どもじゃない。もうおとななんだ」
とはっきり知った「あのとき」は?

歩くということが、きみにとって、
ここからそこへゆくという
ただそれだけのことにすぎなくなってしまったとき。
もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」
と言われなくなったことに気づく。そのとき。

「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、
「そうなっているんだ」という退屈なこたえで、
どんな疑問もあっさり
打ち消してしまうようになったとき

きみがきみの人生で
「こころが痛い」としかいえない痛みを
はじめて自分に知ったとき。



 ひらがな中心に「子どものきみ」へ宛てて書いている形だが、明らかに「大人」に向けている。子どもから大人になる過程で喪失しただろう、あるいは体感できるようになっただろう典型的な出来事が語られている。似たような経験を思い起こす者は多いはず。深呼吸をして、「あのとき」を思い出す絶好の機会となろう。


 「あのとき」まであったものが無くなり、それまでなかったものに気づく。それは成長の一つの形であり、誰しも受け入れてきたことだ。今を生きるために肝心なのは「あのとき」を時々振り返ることではないか。詩人の言葉は長い間放って置かれた「あのとき」を照らし、目の前に浮かび上がらせてくれる気がした。

こうして暑中が過ぎる

2020年08月06日 | 雑記帳
8月1日(土)
 梅雨明け宣言のないまま8月を迎えた。午前中は図書館のワークショップ。2回目で今度は中学年対象の工作が内容だ。講師は、知友にお願いしてあり万全だ。雨も降らず、牛乳パックで作った舟が気持ちよくミニプールに浮かんだ。町広報が届く。今月の拙文は「絵本の季節」と題してPR。題名はいい感じと思う。



8月2日(日)
 朝、自転車を使おうとしたら前輪の空気が抜けていた。パンクかあ。今どき修理はどこでするのか、車にも積めないし…としばし思案する。今日は大相撲千秋楽。今場所も波乱だった。新大関を期待の眼差しで見つめていたが、まだ一本芯が入らない。結局、目立ったのは地道に頑張り続けた力士たちだったと納得。


8月3日(月)
 午前は孫と一緒に公園へ。虫捕り網とカゴを持参するが、まだまだそんなレベルではない。夏のトンボは動きが速く自分も苦戦した。午後から町のふるさとCM撮影のサポート。今年は監督を替わってもらいやや余裕を持ってあれこれと手伝った。雨も酷くならず山のスイカ畑を終えて古民家へ、夕方までに終了した。


8月4日(火)
 ネット検索して自転車の件を調べてみたら自前で修理可能な部分らしく、百均で部品を買い、朝仕事で完成させた。こんなことまで簡単に出来る世の中になった。今日は館の仕事が盛り沢山。8月の玄関掲示を選び印刷まで済ます。9月ワークショップへ向けて依頼郵送等々。退勤後、歯医者へ。もう少し続きそうだ。


8月5日(水)
 ワークショップの感想をまとめる。午後からは館内ネットワーク回線改修?のため事務室に業者が入り慌ただしい。予定していた仕事も出来ずじまい。夏休みで生徒の利用が多くなり、配慮はしているがなかなか密が避けられない。退勤後、隣市の教委へ届け物。その後、知友と先日の反省会。七夕なのに街が寂しい


 (2020.08.05 PM6:20 の湯沢七夕でした)

8月6日(木)
 深酒はしなかったがやや寝不足。今日は勤務がないので、読みかけの『なつかしい時間』(長田弘)を読了した。実にいい一冊。下の孫とごろごろしながら遊ぶ。歩き始めずいぶん悪戯を繰り返す。先日TVで「一番能力が高まるのは悪戯をするとき」とあったと思い出す。その場に立ち会える幸せを思う。明日は立秋