ショパンコンクールで優勝した人は二月まで自宅に帰れないようなツアースケジュールが組まれているそうで、今後、世界を回って人々の賞賛を受けることになります。一方、残りの140名ほどの参加者はコンクール前と対外的にはさほど変わらぬ日々であることでしょう。音楽は人それぞれの好みで、そもそも参加できるということ自体、すでに多くの人々に認められた証拠ですので、彼が圧倒的に優れているということではなく、単に審査員が気に入った点と気に入らなかった点の総合点が他の人よりも高かったというだけのことです。
このコンクールの1965年の優勝者はマルタ アルゲリッチで、その時のファイナルで弾いたコンチェルト一番の演奏がYoutubeで見れますし、その後三十年後にN響と共演で弾いた同曲のビデオも見れます。私、アルゲリッチの指使いのキレのいい男らしいところ(女性ですけど)が好きですし、派手な速弾きもいいと思ってはいるのですが、これらの彼女の演奏と今回のコンテスタントや他のプロの人の演奏を比べみても、アルゲリッチがとりわけ良いとは感じませんでした。アルゲリッチや今回のBruce Liuが技術的に優れているのは間違いないでしょうけど、そもそも音楽は技術面以上に、聞き手の好みでそれぞれが聞いて楽しいかどうかを評価するものだと思いますし。音楽のコンクールで誰が何位だったとかいう話にどういう意味があるのでしょう。
今の世の中、競争社会で、みんな勝ち負けで判断する傾向があります。勝ったからよい、負けたからダメで、勝ったものが負けたものを見下したりします。これは資本主義を支える人間の根源的な性質に由来していると私は思います。
悪魔の辞典では「幸福」の定義に、「他人の不幸を眺めることから生じる快適な感覚」とあります。シャーデンフロイデ、人の不幸は蜜の味、ですけど、これは皮肉でもなんでもなく、我々が感じる「相対的」幸福の中心原則です。
コンクールに勝つとなぜ嬉しいと感じるのでしょう。努力が報われた、人に認めてもらえた、という気持ちの根源を深く考えれば、それは、大勢のライバルが敗退していったという事実があるからこそです。もし幼稚園のように、全員が金賞で全員が優勝だったら、コンクールの優勝には意味がないし、「勝利の快感」もありえないです。勝ち負けというのはそういうものです。勝利の快感は敗者の屈辱に支えられている。そうした競争を、資本主義社会では、既得権益もつ権力者が「切磋琢磨」によって良いものが生まれのだ、と肯定的に喧伝し、社会を競争によってクラス分けをするよう変えてきた結果、一部の勝者を目指して人々は限りある人生を競争に明け暮れて過ごし、結果、勝った人も負けた人も、不幸の中で死んでいくということになるわけです。そして権力者自身は常に審査員席に安全な位置を確保して、他人の努力を批評する立場なのです。
人間の幸福の半分以上はこうした相対的なもので、比較する他人の不幸を必要とする幸福であって、油断すると、勝った方は驕り、敗者や弱者を見下し、負けた方は勝者を妬み、羨み、場合によっては憎しむことになり、幸福を求めるがゆえに、醜い心を生み出しては、ますます業を深めて、不幸の蟻地獄に陥ることになるのです。あー、アホらし。
社会がこうなってしまっている以上、勝った負けたの相対的な幸福感から完全に離れるのは難しいものです。しかし、そんな時には「わたしはわたしのことをする、あなたはあなたのことをする」とゲシュタルトの祈りを唱え、夏休みの青空や、休日の昼間の一杯のビール、あるいは、薔薇の花の上の雨粒や子猫のヒゲ、銅製のヤカンや毛糸のミトンなどを想って、絶対的な幸福というものがあることを思い出すのがよいと思います。
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