大学生、大学院生、ポスドクの人が各地から集まって行う小さな一日シンポジウムが週末にあり、審査員を頼まれました。当日、会場に行って、割り当てられた十ほどのポスター演題を見て、発表者と話をして、他の審査員の人と演題を審査し、優秀な発表に賞金を出すのです。大手製薬会社が数社スポンサーをしています。演題は約250、審査員は50名ほど。このシンポジウムは教育的目的が強く、審査員は割当のポスター演者と実際に質問をしたり議論をしたりしないといけないので、これだけの数の審査員が必要なのです。割当ての演題のうち、私の専門にかろじて近いのは一つだけで、あとはハエ遺伝学、ニューロサイエンス、細胞生物学、蛋白工学、癌生物学、代謝、発生生物学、いろいろです。私が直接、話をしないといけない五人をまず回ることにしましたが、ほとんどそれだけで与えられた二時間が終わってしまいました。専門外の話はいろいろ興味深く、アレコレ話をしている間に最初の二人で既に一時間が経ってしまったことに気づいたときには、すっかり、あせってしまいました。
全く専門外の研究を評価するのは、昔はストレスでしたが、今はすっかり慣れました。結局は、研究者が自分の専門分野の研究を専門外の人にもわかるように説明したり発表したりするのは、その研究者自身の責任なのです。私が分からないのは私が悪いのではなく、分かるように説明できない発表者が悪いのです。
前もって渡された要旨を読むと、良く書けているのは一割程度でだったので、研究レベルの内容もそれほど高くないのだろうと勝手に想像して軽い気持ちで行きましたが、結構、要旨からの予想は外れるものです。要旨がよく書けていて期待していた演題が、あれっという感じで肩すかしを喰ったり、要旨ではパッとしなかったのに実際に話をしてみると、大変よく考えられたよい研究であったりしました。何より、発表者は経験の浅い人々のはずなのに、その辺のシニアポスドクよりもはるかに効果的に研究成果を伝えれる人ばかりだったのは驚きでした。思うに、わざわざこのようなシンポジウムに演題を出すぐらいだからおそらくやる気のある優秀な人が自己選択されてきてはいるのでしょう。私が彼らの年のころは、彼らの足下にも及ばなかっただろう、と感じました。
研究資金が総じて乏しくなってきた最近はとくに、研究コニュニケーションの重要さが強調されています。折角の研究成果を、関心のある人に効果的に伝えることは大切です。一歩進んで、研究成果の価値を広く理解してもらう「マーケティング」の重要さは、グラントを書いたことのある人なら否応なく実感しているだろうと思います。
私も、昔は、論文や研究費申請を落とされたりしたときに、レビューアの的外れなコメントに、ムっとしたりしたものでした。当時は、レビューアに分かるように書かなかった自分が悪いとはなかなか思えず、レビューアへの不満を募らせたものでした。実のところは、研究成果の意義や意味を社会の他の人に理解してもらうことは、重要な研究活動の一部であり、それは研究者の義務でもあるのです。
人に自分の研究を理解してもらうことの重要さに対する理解が不十分であったために、非常に優秀な人が研究現場を去らざるを得なくなった例を私は身近に知っています。彼の研究の内容は深く注意深く細部まで詰めてあり、いつも感心したものですが、彼はどうもその意義を他の人の立場に立った上で理解してもらおうという姿勢に欠けていたのです。彼がNatureの論文を出した時はそこから発展する複数の研究ネタがあり、前途は明るく見えました。残念ながら、彼はその研究を、研究成果を受け取る側の立場から見直して、研究価値をマーケティングするということを重要だと思わなかったようで、逆にむしろ自分だけの孤立した世界で研究を極める方向に突き進んで行ってしまったように見えました。
結局は、研究も人間がする社会活動の一つだということです。即ち、何か他人に役に立つことを自分が出来てはじめて、他人も自分に何かしてくれる、という相互作用の上に成り立った活動なのです。研究をさせてもらうかわりに、自分が社会や他の人に何ができるのか、ということを常に意識していれば、研究者として必要なコミュニケーションは自然ととれるのではないかな、と思います。(ちょっとこれは、説教臭いですね)
今回のシンポジウムは、若いやる気のある人と話ができて大変、楽しかったです。自分のやっている研究に情熱をもって打ち込んでいて、その情熱が発表にも溢れ出ているようなエネルギーいっぱいの若者、輝いていました。私もあと、何年やれるかわかりませんけど、彼らに負けない情熱をもってやって行きたいという気持ちになりました。
全く専門外の研究を評価するのは、昔はストレスでしたが、今はすっかり慣れました。結局は、研究者が自分の専門分野の研究を専門外の人にもわかるように説明したり発表したりするのは、その研究者自身の責任なのです。私が分からないのは私が悪いのではなく、分かるように説明できない発表者が悪いのです。
前もって渡された要旨を読むと、良く書けているのは一割程度でだったので、研究レベルの内容もそれほど高くないのだろうと勝手に想像して軽い気持ちで行きましたが、結構、要旨からの予想は外れるものです。要旨がよく書けていて期待していた演題が、あれっという感じで肩すかしを喰ったり、要旨ではパッとしなかったのに実際に話をしてみると、大変よく考えられたよい研究であったりしました。何より、発表者は経験の浅い人々のはずなのに、その辺のシニアポスドクよりもはるかに効果的に研究成果を伝えれる人ばかりだったのは驚きでした。思うに、わざわざこのようなシンポジウムに演題を出すぐらいだからおそらくやる気のある優秀な人が自己選択されてきてはいるのでしょう。私が彼らの年のころは、彼らの足下にも及ばなかっただろう、と感じました。
研究資金が総じて乏しくなってきた最近はとくに、研究コニュニケーションの重要さが強調されています。折角の研究成果を、関心のある人に効果的に伝えることは大切です。一歩進んで、研究成果の価値を広く理解してもらう「マーケティング」の重要さは、グラントを書いたことのある人なら否応なく実感しているだろうと思います。
私も、昔は、論文や研究費申請を落とされたりしたときに、レビューアの的外れなコメントに、ムっとしたりしたものでした。当時は、レビューアに分かるように書かなかった自分が悪いとはなかなか思えず、レビューアへの不満を募らせたものでした。実のところは、研究成果の意義や意味を社会の他の人に理解してもらうことは、重要な研究活動の一部であり、それは研究者の義務でもあるのです。
人に自分の研究を理解してもらうことの重要さに対する理解が不十分であったために、非常に優秀な人が研究現場を去らざるを得なくなった例を私は身近に知っています。彼の研究の内容は深く注意深く細部まで詰めてあり、いつも感心したものですが、彼はどうもその意義を他の人の立場に立った上で理解してもらおうという姿勢に欠けていたのです。彼がNatureの論文を出した時はそこから発展する複数の研究ネタがあり、前途は明るく見えました。残念ながら、彼はその研究を、研究成果を受け取る側の立場から見直して、研究価値をマーケティングするということを重要だと思わなかったようで、逆にむしろ自分だけの孤立した世界で研究を極める方向に突き進んで行ってしまったように見えました。
結局は、研究も人間がする社会活動の一つだということです。即ち、何か他人に役に立つことを自分が出来てはじめて、他人も自分に何かしてくれる、という相互作用の上に成り立った活動なのです。研究をさせてもらうかわりに、自分が社会や他の人に何ができるのか、ということを常に意識していれば、研究者として必要なコミュニケーションは自然ととれるのではないかな、と思います。(ちょっとこれは、説教臭いですね)
今回のシンポジウムは、若いやる気のある人と話ができて大変、楽しかったです。自分のやっている研究に情熱をもって打ち込んでいて、その情熱が発表にも溢れ出ているようなエネルギーいっぱいの若者、輝いていました。私もあと、何年やれるかわかりませんけど、彼らに負けない情熱をもってやって行きたいという気持ちになりました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます