鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

十能が売られていた

2019年10月09日 00時16分16秒 | 言葉の世界




「十能が売っていた」と会話なら言うところだけれど、なぜか文章にすると変。
「十能を売っていた」としたいところだけれど、そうすると叩き売りみたいなのでやめた。
と、そんなことではなく、ホームセンターで見て懐かしかったので撮った。
なぜ十能なのだろうという疑問には向かわないでおこう。
じつは危ない経験がある。
雪国で育ったので、冬の朝は囲炉裏で焚く火の中から暗赤色になった炭を火箸でつまんで十能に入れ、炬燵まで運んだ。
それを小学校低学年ですでにやらされていた。
兄姉がいたから、いつもやっていたわけではなく、たまにやっていただけなのかも知れない。
そうして囲炉裏の間から居間への移動中に焼けた炭を畳の上に落としたことがある。
子どもはいつだって何をするにしたってチャレンジャーだから、危うさを楽しみハラハラを好む。
私はいまだにそのような性状を残しているけれど、そのように十能に危なっかしく積み上げた炭だったはず。
詳しくは覚えていないけれど、小さい欠片なら素手で拾い上げて戻し、指先をフーフーしたりしながら何食わぬ顔で済ましたはず。
大きい炭でも、全体が赤くなっているわけではなく半分くらい熾きたのを炬燵に入れるはずなので、黒い部分を持ち上げて事無きを得たと思われる。
その事で、朝の大忙しの母から叱られたという記憶はない。
ただ、一度、火の着いた炭を畳の上に落としたことがあるという経験を持った事は、その後の人生に少しは生きたはず。
瞬間的に、炭火だって素手で持ち上げられるという事、燃える火だって手ででも消せるということなど、とっさの瞬発力は経験の有る無しでかなり違うのだからして。

おまけ;検索中に『火かき棒が十能を笑う』という、『目糞鼻糞を笑う』と同様のことわざがあることを知った。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする