平川祐弘の連載自伝の32回目「神道の行方」。
これが2021年5月号のHanadaに掲載されておりました。
元旦も近づくので、あらためて読みます。
『さわらぬ神』という箇所をとりあげてみます。
「神道は・・占領軍の『神道指令』が出てから、
ひどく悪者扱いされた。それに異議を唱えた
東京高等師範の性善良な教授が『皇道哲学者』
として教職を追放され、一家は気の毒な目に遭った。
さわらぬ神に祟りなし、とはまさにそのことで、
私も背を向けた。」(p349)
そう背を向けた平川祐弘氏が西洋と接し
神道的感性に目覚めた記憶がつづられているのでした。
「西洋側の日本観察をたどるうちに私が気づいた点も多い。
・・・・
神道観で感銘を受けた人は西洋人の神道発見者
ハーンとクローデルで・・・
〈クローデルの日本観〉を『歴史と人物』1974年2月号に
載せた時、編集長の粕谷一希が
『君のように、天皇について肯定的に書くと、論壇からほされるぞ』
と注意された。世渡り下手は自覚している。
・・・・・
大学人として身分を保障されているのは、
自己に忠実に書くためだ、と信じている。
私はその立場を変えることはない。」(p354~355)
さて、1931年生まれの平川祐弘氏は、
ここでは、ご自分のことに触れておりました。
「私は若い頃は無神論者とは言わずとも理性主義者と思っていた。
神棚や仏壇にお参りする。そんな正月風俗だが、注連縄(しめなわ)
を飾っても誰も神道とはおもわない。
クリスマスに銀紙のチョコレートなど子供心に嬉しい贈り物だが、
それが平川家ではキリスト教の行事でなかったのと似ていた。
これがご先祖様のお墓参りをする、お盆やお彼岸なら、
仏教色が感じられよう。だが父は分家して東京暮らし、
盆暮に帰省しない。
戦前は、父の河内や母の淡路は地理的に遠いばかりか
子供には宗教的に縁遠かった。」(p347~348)
「父が亡くなった・・・
家の宗教は真宗と聞いていたから、電話帳で調べて
真宗の坊様に来てもらった。初対面である。
お寺さんとの関係はいかにも薄い。
だが無信心ではないらしい。
本を出すたびに私は仏壇にお供えして、
ちーんと鉦(かね)を叩いて手をあわせる。
親に見守られて私達が今日の幸福を得ている
ことは、家内もわかっている。
平川家には、行きつけの神社も寺もなく、
今までこの自伝におよそ宗教の話は出なかった。
坊様も神様も牧師も登場しない。しかしそこは
たいていの日本人と同様、本当は無信心ではない
のかもしれない。・・・」(p350~351)
ちなみに、連載32回の、この回のはじまりは
「子供のころ元旦は、暗いうちに起き、
親がお燈明をあげると、畏(かしこ)まって
まず神棚に柏手を打ってお参りした。
それから仏壇に手をあわせた。
神棚は茶の間の鴨居の上にあり、
その下は布団をしまう押し入れで・・・・」(p346)
うん。最後にここも引用しておきましょう。
「神道は自然の時の流れとともに湧く感情が中心で、
ほかの大宗教と違い創始者がない。
教義も戒律も経典もない。
神官は僧侶と違い説教はしない。
言葉で習うよりも感じるのが神道で、
季節の変化に従い祀りをする。
その節(せつ)とは竹の節(ふし)のような
区切りを指し、節分とは気候の変わり目をいう。
元旦にはお節料理をいただく。
自然の動きにあわせて天を祀り地を祀る。
儀礼を行なうからには宗教だろう。」(p353)
はい。Hanada2022年2月号は出たばかり、
平川祐弘氏の連載の自伝も、40回目。
ちゃんと載っておりました。