和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

坊様も神様も・・。

2021-12-21 | 道しるべ
平川祐弘の連載自伝の32回目「神道の行方」。
これが2021年5月号のHanadaに掲載されておりました。

元旦も近づくので、あらためて読みます。
『さわらぬ神』という箇所をとりあげてみます。

「神道は・・占領軍の『神道指令』が出てから、
ひどく悪者扱いされた。それに異議を唱えた

東京高等師範の性善良な教授が『皇道哲学者』
として教職を追放され、一家は気の毒な目に遭った。

さわらぬ神に祟りなし、とはまさにそのことで、
私も背を向けた。」(p349)

そう背を向けた平川祐弘氏が西洋と接し
神道的感性に目覚めた記憶がつづられているのでした。

「西洋側の日本観察をたどるうちに私が気づいた点も多い。
 ・・・・
 神道観で感銘を受けた人は西洋人の神道発見者
 ハーンとクローデルで・・・

 〈クローデルの日本観〉を『歴史と人物』1974年2月号に
 載せた時、編集長の粕谷一希が
 『君のように、天皇について肯定的に書くと、論壇からほされるぞ』
 と注意された。世渡り下手は自覚している。
 ・・・・・
 大学人として身分を保障されているのは、
 自己に忠実に書くためだ、と信じている。
 私はその立場を変えることはない。」(p354~355)

さて、1931年生まれの平川祐弘氏は、
ここでは、ご自分のことに触れておりました。



「私は若い頃は無神論者とは言わずとも理性主義者と思っていた。
神棚や仏壇にお参りする。そんな正月風俗だが、注連縄(しめなわ)
を飾っても誰も神道とはおもわない。
クリスマスに銀紙のチョコレートなど子供心に嬉しい贈り物だが、
それが平川家ではキリスト教の行事でなかったのと似ていた。

これがご先祖様のお墓参りをする、お盆やお彼岸なら、
仏教色が感じられよう。だが父は分家して東京暮らし、
盆暮に帰省しない。
戦前は、父の河内や母の淡路は地理的に遠いばかりか
子供には宗教的に縁遠かった。」(p347~348)

「父が亡くなった・・・
家の宗教は真宗と聞いていたから、電話帳で調べて
真宗の坊様に来てもらった。初対面である。
お寺さんとの関係はいかにも薄い。

だが無信心ではないらしい。
本を出すたびに私は仏壇にお供えして、
ちーんと鉦(かね)を叩いて手をあわせる。
親に見守られて私達が今日の幸福を得ている
ことは、家内もわかっている。

平川家には、行きつけの神社も寺もなく、
今までこの自伝におよそ宗教の話は出なかった。
坊様も神様も牧師も登場しない。しかしそこは
たいていの日本人と同様、本当は無信心ではない
のかもしれない。・・・」(p350~351)

ちなみに、連載32回の、この回のはじまりは

「子供のころ元旦は、暗いうちに起き、
 親がお燈明をあげると、畏(かしこ)まって
 まず神棚に柏手を打ってお参りした。
 それから仏壇に手をあわせた。
 神棚は茶の間の鴨居の上にあり、
 その下は布団をしまう押し入れで・・・・」(p346)

うん。最後にここも引用しておきましょう。

「神道は自然の時の流れとともに湧く感情が中心で、
 ほかの大宗教と違い創始者がない。
 教義も戒律も経典もない。
 
 神官は僧侶と違い説教はしない。
 言葉で習うよりも感じるのが神道で、
 季節の変化に従い祀りをする。

 その節(せつ)とは竹の節(ふし)のような
 区切りを指し、節分とは気候の変わり目をいう。
 元旦にはお節料理をいただく。

 自然の動きにあわせて天を祀り地を祀る。
 儀礼を行なうからには宗教だろう。」(p353)


はい。Hanada2022年2月号は出たばかり、
平川祐弘氏の連載の自伝も、40回目。
ちゃんと載っておりました。
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切磋琢磨するに足る。

2021-12-10 | 道しるべ
切磋琢磨(せっさたくま)が童子問にあるというので、
谷沢永一著「日本人の論語 『童子問』を読む」下をひらいてみる。
うん。はじめてひらく(p86)。
そこに

「おのれと議論同じきを悦んで、
 おのれが意見と異なる者を楽しまざるは、学者の通患なり。

 学問は切磋琢磨を尊ぶ。おのれが意見と異なる者に接触し、
 おのれを捨てて心を平らかにし、切劘講磨(せつびこうま)
 するにしくはなし。」

じつは、平川祐弘氏の自伝を読んでいたら、
そこに、切磋琢磨という言葉があったのでした。
それで、つい辞書をひいたのでした。
古くさい四文字熟語を知りたくなったのでした。

これに関連しそうな箇所を引用。

「助手分際(ぶんざい)でこうしたことを平気で書く私は
『大助手』と呼ばれてしまった。・・
一旦学内で『大助手』と呼ばれるともう出世できない、とは
佐伯彰一氏のうがった観察で、氏は英語の非常勤講師として
毎週・・外国語談話室に寄ると、フランス語の若い教師達が
いつも平川の悪口を言っている。大学院担当という肩書も
癇(かん)にさわるらしい。

学問はあるようだがああ悪口を言われては平川は東大に
残れまいと思った、というのである。

外国に長くいた私は、人より遅れ学部卒業後11年で助手になった。
後輩が常勤講師や助教授になっている。学期試験の時、
そうした人の試験の補助監督を毎学期7回ずつさせられた。
 ・・・・・・・・
しかし、大学院助手として私は精励恪勤(せいれいかくきん)した。
60歳の定年までこのままでも構わない、と決めたのは勤めて1年経った
ある夕方のことで、すると気が落ち着いた・・・・」
(p356・月刊Hanada2020年6月号連載㉓)

さてっと、連載を読みすすむと、平川氏は大学教授となっております。
2022年1月号には、その平川教授の学生指導が語られておりました。

「私の学生指導は、
『学会で発表しないか』とか
『外国語で発表しないか』とか、
『旅費は出るから外国のシンポジウムに参加しないか』と、
学生の力に応じて、声をかける。

『機会は前髪で摑め。後ろは禿げているぞ』。
publish of perish(書物を出すか学者を辞めるか)の
原則に忠実な私は、同僚にも学生にもそれで臨んだ。
業績による推輓(すいばん)である。

歴代の主任が学生の出来のいい発表論文を次々と
有力書店に推薦できたのは、主任が学者としても
著述家としても出版社に信用があったからだろう。
人文系の論文はコマーシャル・ベースでも読まれることが大切だ。
・・・教師も学生も切磋琢磨が大切だ。・・・」(p354)

勿論、私は普通の『コマーシャル・ベース』で読んでる一人。
それにしても、ここに出てくる『切磋琢磨』という四文字は、
なんだか別物で磨きがかかって輝いてみえるから不思議です。

どんな意味なのか、最初に引いた辞書
「新潮現代国語辞典」の『切磋琢磨』のところには、
こうあったのでした。

① 石や玉などを切りみがくように知徳や学芸を磨きあげて
  人間を練ること。『切磋琢磨して学問をする[ヘボン]』

② 仲間同士が互いに励ましあい競いあいながら
  共に向上を図ること。
 『書上幾多の益友あり、以て切磋琢磨するに足る[二家族]』


ああ、この最後なんていいですね。
『書上幾多の益友あり・・・』
うん。わたしなら、こうあらためるだろうなあ。

『ブログ上幾多の益友あり、以って切磋琢磨するに足る』




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誕生したばかりの若々しさ。

2021-12-06 | 道しるべ
牧野陽子の古本届く。

牧野陽子著
「ラフカディオ・ハーンと日本の近代」(新曜社・2020年12月)
定価は税込み3960円。これが古本で2500円+送料520円=3020円。
帯つき新刊同様にきれい。はい。進呈本ですね。牧野さんによる
贈呈挨拶の紙がはさまれておりました。

さてっと。小泉八雲の本といえば、
講談社学術文庫に平川祐弘編で何冊か揃っておりますね。
いずれも、私は読んでいないので、この機会に読めれば。

もう一冊届いたのは、牧野陽子著
「時をつなぐ言葉 ラフカディオ・ハーンの再話文学」(新曜社・2011年)。
こちらは、何だか、だいぶ前に新聞書評で読んだような気がします。
そこには、表紙の写真が載っていたので、思い出しました。
定価が4180円で高かったので、新刊購入をあきらめたのでした。
今回の古本での購入価格は2356円+送料250円=2606円なり。

はい。購入して自分のものになると、
つい安心してしまって、読まなかったりします。
せめて、買った際には、こうして記録をします。


あとは、関連で、ちくま文庫の「柳田国男全集13」
古本で347円+送料350円=697円。
ひらくと、ありゃりゃ。p577~p608までが文字が逆さま。
綴じる際の間違いですね(笑)。

うん。このちくま文庫の解説の最後をここに引用しておきます。
解説は、新谷尚紀。

「柳田の学問には
いま誕生したばかりの若々しさがある。
民俗という素材を完全には対象化せず、
深い共感と同情とで接する原始と土着の感性がある。

その科学と思想、学問と情熱の混在したままの
若さこそ柳田の強味でもあり弱点でもある。

そして何よりその仕事がくめども尽きぬ
芳醇なる知の泉でありつづけるゆえんでもある。

柳田の文章は、こんなささいなことでも
学問の対象となるのかと人々をおどろかせては、
学問することの楽しさを教え、多くの人たちを
いつまでもこの学問に招きいれつづけることであろう。」
(p736)

はい。平川祐弘と牧野陽子と、この12月は
どこまで読みすすめられますかどうか。

なあに、棒ほど願えば、針ほどかなう。
でゆくことに。

はい。かなえられなくとも、願うことは忘れまい。
ということで、師走から新年にかけて願をかける。

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2021年夏 あなたの。

2021-10-17 | 道しるべ
加藤秀俊著「九十歳のラブレター」(新潮社)を
昨日読みおわる。
あとがきの最後に日付があって
「 2021年夏 あなたの誕生日に   加藤秀俊 」
となっておりました。
たどれば、奥さんは、小学校からの同窓生なのでした。
享年89歳(2019年9月16日亡くなる)でした。

ここには、あとがきからの引用をさせていただきます。

「この書物をそっちの世界からみているあなた(妻・加藤隆江)が、

『いやあねえ、どうしてこんな本を書いたの?
恥かしいし、みっともないじゃない、イヤだわ。
好きなようにするのもイイカゲンにしてよ。

でもあなた、毎日、よくお掃除や洗濯をしたり、
お献立をくふうしたり、ゴミ出しも忘れてないわねえ。
庭もキレイになってるじゃない。
あなたってひと、ちょっと見直したわ』

といっているのがきこえてくる。・・・・」(p203~204)
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「五畳半」の東京オリンピック。

2021-09-14 | 道しるべ
林望著「ついこの間あった昔」(弘文堂・平成19年)。
はい。古本で200円でしたので買ってみました。

うん。お菓子の当たりクジをひいたような
うれしくなる一冊でした。読めてよかった。

「『写真でみる日本生活図引』(弘文堂)という書物を
 私は頗(すこぶ)る愛する。」(p92)とあります。

はい。この本のまるごと一冊が『写真でみる日本生活図引』を
とりあげているのでした。各文ごとに、日本生活図引からの写真が
載せてあるのでした。そこから触発される、あれこれのひろがりが、
これがめっぽう面白い。

なんとなれば、『写真でみる日本生活図引』を紹介する太鼓持ち
みたいに勘ぐれるのですが、はい、定価の1500円+税で買ったのなら、
きっとそんなことが思い浮かんだりするのでしょうが、
古本だと、そんな金額の垣根をやすやすと越えられるのがいいですね(笑)。

紹介したいページは数々あれど、ひとつだけとしたら、これかなあ。
はい。楽しいとつい、紹介したくなる。以下に引用。

「・・・この本の写真のなかで最も衝撃的だったのは、
この『五畳半のすまい』という一葉である。」

「昭和39年(1964年)に東京オリンピックが開かれた。
その頃には、東京にも首都高速の原初的な部分が完成していたし
・・・豊かな青春を謳歌しているように見えた。・・・・

ところが、この『五畳半のすまい』という写真が撮られたのは、
なんと昭和40年の4月だという。つまり東京オリンピックの翌年である。
・・・・私は愕然としたのである。
その説明にはこうある。

『昭和39年のオリンピック開催による都市整備によって、
東京はあたかも一新されたかように見えた。しかし住宅難は解消されず、
昭和40年代になってもなお、戦後を引きずったままだった。
東京に職を求めて地方から流入する人口の急増に、
住宅が追いつかなかったのが原因である』」(~p94)

はい。その一葉の写真を見せればそれで十分なのでしょうが、
ここはそれ、引用をつづけます。

「『昭和40年ごろ、都内に一棟5戸以上の木賃アパートは68万戸あって、
うち77パーセントは一部屋のみ、さらにそのうちの68パーセントは
一部屋の広さが四畳から五畳、便所は78パーセントが共同使用だった』

ということはつまり・・・35万戸は四畳か五畳だったというわけである。
そうして、この35万戸に、写真のごとく、一家五人が住んでいると
仮定すると、じつに178万人がこういう貧弱な住宅環境に甘んじていた
ということになってしまうわけである。・・・・・

この家は、五畳半だったとあるが、どうやら、その五畳はいわゆる
縦五畳、そこに左のほうで奥さんが炊事をしている台所スペースが
半畳ほどあった、あわせて五畳半ということになるらしい。

もちろん、まだ風呂も便所も各戸にはなくて、
便所は共同、風呂は銭湯、ということだったに違いない。

台所といっても、現代のようなユニットキッチンなどは
ここには影も形もなく、炊事は、羽釜の乗っている石油コンロと、
ヤカンの乗っている七輪とを駆使しつつ、わずかに限られた
スペースに身をかがめるようにして遂行したものであったことがわかる。

この家のテーブルは、父親と二人の息子が囲んでいる丸いそれで、
これはちゃぶ台と言った。ちゃぶ台の足は折畳み式で、食事が済み、
寝る時間ともなれば、この足を畳んで壁のところへ立て掛けておく
のであった。

こういう折畳みのちゃぶ台については、私にも十分記憶がある
ただし、その記憶はせいぜい小学校低学年くらいまでで、
高学年のころには、もうテーブルとイスの生活に切り替わっていた。
・・・・・・

そして今まで食事をしていた場所に布団を敷いて寝る。
そういう狭い空間を重層的に合理的に使いまわすのが、
私どもの住宅というものの現実と知恵であった。

・・・・・・この『写真図引』を見ながら私が衝撃をうけたのは、
まさにこの現実を見ていなかった自分の意識への痛棒にほかならなかった。」
(p98)

はい。写真入りで、スラスラと、パラパラと、読めちゃう
ありがたい一冊なのでありました。




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棚つくり。

2021-07-13 | 道しるべ
はい。本棚作りに飽き。気分転換が終る。
本棚ができ、本をつめこみ。もういいや。

そのあいだ、本は、読んでませんでした。
本棚ができ、各棚の空間を埋める楽しみ。

加藤秀俊著「整理学」(中公新書・1963年)をひらく。
目次に、「『いれもの』の問題」という箇所がある。
うん。あらためてひらく。

「日曜大工たちがいちばんひんぱんにおこなう作業は」
(p113)とある。そこに
「棚というものは、『もの』の立体的整理の第一歩である。」
なになに、
「戸棚、食器棚、飾り棚など、それから下駄箱やタンスなども
棚の変形である。一般に、空間利用の効率の最もいい『いれもの』は、
『棚』を基本形としているといってよい。」(p114)

うん、私はDIYの基本形をこころみておりました。
『立体的整理の第一歩』へ初心に帰りチャレンジ。

コメリにあった、杉KDカフェ板を見かけて
これを使っての本棚へのアプローチでした。
この板は厚さ3㎝×高さ2m×奥行き20㎝。これ一枚が998円。
うん。厚さが3㎝だと、ネジ釘を打つ素人も安心してできる。

棚の幅は、40㎝にして、5枚とれる。
これで、高さ2mの本棚がとりあえず出来る。
あとは、縦板に横板をつぎ足し、継足しして、
本棚を、ヨコへと拡張してゆく、
本棚の、後ろは板を張らずに、
あとは、棚ができたら、壁にL字で固定して完了。
これなら、素人の日曜大工でもなんとか完成。
高さが2mあるので、棚板は6枚だとベスト。
いちばん下は、コンクリート床なので、床から30㎝ほど
スペースをとって棚をとりつけ、下の空きスペースには
お得意の段ボール箱を置けるようにして雑書を容れこむ。

はい。素人のかなしさ。時間ばかりかかりました。
それはそうと、
国立民族学博物館の「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(2011年)
をとりだす。写真集のような体裁の一冊で所々文字で飽きない。
そこに、鶴見俊輔の2ページの文。そのはじまりは、

「『屋久島から帰ってきたおもしろい学生がいる。話をきいてみないか』。
と桑原武夫が言った。・・・1949年4月のことだ。
話は、屋久島がどこにあり、どのくらいの大きさの島か、からはじまった。」

こうして、梅棹忠夫氏を紹介してゆくのですが、
今西錦司・柳田国男が、さらりと出てきて、そのあとに

「京都で梅棹の家を訪ねると、庭に工作器具が置いてあって、
五ヵ年計画で、家を改造すると言う。こんな学者にはじめて会った。
家の隅には『暮しの設計』が積み上げられていた。
自宅改造に役にたつと言う。

マルクス主義者は梅棹忠夫の仕事を認めなかったが、
梅棹は、マルクス主義に一定の評価を与えていた。

こういうふうに世界を解釈すると、
こういうふうにまちがうという成果が出たから、それが業績だと言う。」
(p16~17)

はい。このページには、二つの写真。
柳田国男と梅棹忠夫のツーショット(1951年)。
雑誌掲載「アマチュア思想家宣言」(1954年5月号)の最初のページ。

この本、雑誌『別冊太陽』の図録みたいなサイズなので、
本棚に置こうとすると、別の棚にしまいこまれてしまい。
そのうち忘れてしまっておりました。今回の本棚整理で
ふたたび手にとれました。見ていて楽しみなのだけれど、
またまた、すぐに紛失してしまいそうな一冊なのでした。

それはそうと、加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社)に、
その鶴見俊輔氏との会話が出てきます。

「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに・・移られたから、
いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、

わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、
と熱心にすすめられた。鶴見さんによると、梅棹さんという人は、

じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具など
さっさとつくってしまう人だ・・・というのであった。」(p80)


はい。わたしはといえば、台風15号の際の家の被害以来、
簡単な大工仕事に目ざめました。その延長の本棚つくり。





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台湾の廖さん。

2021-03-19 | 道しるべ
「荘子」を現代の詩を読むように、楽しめると、
つぎに思うのは、日本の詩で荘子みたいな詩を書く人は
だれだろうということでした。それはそうと、

たまたま、古本でこの「荘子」といっしょに買った本に
阪田寛夫著「まどさん」(新潮社・昭和60年)がありました。
ちなみに、こちらは古本で300円。帯つきで、初版でした。
うん。当時は、そんなに売れなかったのかなあ。
などと、思いながらパラパラとひらいていると、
戦時中に台湾にいた、まど・みちをの事が語られる箇所がありました。

「かみさま」という章に、それはありました。

「この時代のまどさんを知っている現地の人たちを訪ねて、
去年の夏、まどさんが書き抜いてくれた住所や電話番号を頼りに、
台湾へ渡った。・・・・昔を直接知る者としては、
ホリネス教会の副牧師だった廖春棋?(木辺に、右は基)さん
ただひとりが健在と分かった。

ものぐさな私が二年間ぐずぐずしていたむくいだが、
それでも電話口に出た廖さんが、元気な日本語で、
石田さん(まどさんの本名)には大恩があるから
明朝ぜひ逢って話したいと言ってくれたのが救いであった。」
(p99)

ところが、その晩に廖さんは心臓発作で入院される。

「数日後日本語の上手な長男からホテルに電話が入り、
ぜひ病院へ来てほしいと言われた。・・・・」

廖さん自身が戦争末期、国家試験を受けて医師の資格を
取った方なのだそうです。

「病院では、やはり点滴注射を受けていた廖さんが、
こんどはいきなりそれを引き抜いて、寝台にあぐらをかいた
から驚いた。・・・寝台を降りて歩きだした。
その部屋で聞いた話を、そのままの言葉で記す。
 ・・・・・・

・・・これから言うのは、私的なことだと断わって、
自分たちの結婚に母親が不同意であったことから、
『本島人の社会』で働かねばならない自分たちが、
台湾の家族制度と個人の自由をめぐって大へん苦しんだあげく、
遂に二人で家出をせざるを得なかった事情を説明した。

『その苦しい時に石田さんをお訪ねしたわけですよ。
台中と沙鹿の間の道路を建設されていたのですが、その時、
私たち夫婦が、落ちぶれたよるべのない姿でお訪ねしたんです。
そしたら、家内を女中のようにして、出張事務所に入れて下さったのです。

それはあとの話しですが、その時いちばん先に、
自分の持っていた新しい蚊帳を私たちに貸してくれて
―――住んでいたのは豚小屋だったのですが、
そんな所へ新しい蚊帳を貸して助けて下さって、
一層深い印象を与えられたわけですよ。あの時、私たちは、
もし石田さんがなかったらもうこの世に存在できなかった。
それほど苦しんでたわけですよ』

その後立直って国家試験に合格して医師となり、
『石田さん』が自分たちによくしてくれたように、
日本人が帰国する時によくしてあげようと、そのように
神さまが命じられたと思って、日本の敗戦後、やれる範囲内で
ただで薬を作って、困っている日本人に持たせて上げた。

『その時思ったのは、私たちがこうした事をできるわけは、
ただ石田さんが蔭におられたから、ということでした。
豚小屋にいる私たちに、買ったばかりの蚊帳を貸して下さった
のですから。あの時は涙が出ました・・・・』

椅子を腕を握りしめ、
顔を紅潮させて大声を出すので、
私はこの前の電話で発作を起こさせてしまったことを思い合わせ、
『力を入れずに話して下さい』と頼んだ。
『入れざるを得ないです!』
と廖さんはもっと大声を出した。・・・・」(~p102)


うん。このような方々の子孫の方々がベースとなって、
東日本大震災の際に、台湾からの一般の方々のご寄付の
多さにつながっていたのだろうと、つい思いを馳せてしまいました。



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土俵と行司の民主主義。

2021-02-04 | 道しるべ
雑誌WiLL2021年3月号。
山口敬之氏がアメリカの書店をとりあげておりました。
「米大統領選をめぐる大混乱を読み解くためのカギは書店にあり」
という副題の文を載せております。

そこから適宜引用。

「従来より多くの国民は、情報の真偽は『信頼できる』
大手メディアがどう伝えるかで判断していた。
『新聞やテレビの伝えることは基本的に真実だ』との認識と、
『ジャーナリズムはいかなる不正や犯罪も見逃さない』という
期待がベースとなっている。
しかし、そうした認識や期待が根底から崩れた・・・・」


「フェイクを排除するためには、個々の情報をジャッジし、
虚偽情報を完全否定するだけの『権威』が必要だ。

しかし、これまでジャーナリズムを標榜し、
『情報の裁判官』の役割を果たしていると思われていた大新聞すら、
実は『バイデン支持者の集合体』『反トランプの旗振り役』
であることが明確になった。

『バイデンとトランプの相撲を観ていたはずが、
行司も土俵もバイデンのために仕込まれていた』。
そんな落胆と怒りが、アメリカの民主主義の根幹を揺さぶっている。」
(p208)

さてっと山口氏はどうしていたか?

「私は年末年始、アメリカ東海岸の各地で
大統領選後の混乱を取材した。
大手メディア、ネット情報、政治家のツイートといった
主要な情報ソース全てに対して、徹底的に懐疑的な姿勢で
臨まなければならない毎日は、大変息苦しいものだった。

そんな時、貴重な情報源となり、また癒しの空間
ともなったのが、書店と図書館である。
私は時間ができると最寄りに書店がないか探した。」(p209)

「・・・その癒しの本質は、書店には露骨な流言飛語の
類がほとんど存在しないからだと気がついた。
民主主義を苦しめるフェイク情報の多くは、
ネット空間で第一報が発せられ、匿名やニックネームの
SNSアカンウントから瞬く間に拡散される。

しかし書店に並んでいる本は、著者が実名と顔写真を晒し、
一定の時間をかけて執筆したものがほとんどだ。
著者が情報収集と分析に掛けた時間と知性、言い換えれば
情報発信者の真剣味が、書棚からヒシヒシと伝わってくる。
これがネット情報との違いだ。」(p210)

こうして、3冊の本を紹介しているのですが、
ここでは、3冊目の本の箇所を引用。

「『民主主義の死に方』
(スティーブン・レブツキー、ダニエル・ジブラット共著)

第二次世界大戦前のドイツのナチズムから、戦後のハンガリー、
トルコ、ベネズエラなどで、一見民主的な選挙制度の下で
独裁的あるいは専制的な政権が誕生する過程をつぶさに観察
してきたレブツキーとジブラットは、

『現代において民主主義が破壊されるのは
革命や軍事クーデターといった爆発的事象ではなく、
継続的な囁きによってである』と看破する。
そして、悪意ある囁きによって、最初に崩壊していくのは
司法システムや警察、メディアだというのである。

今回の大統領選で観察された多くの事象が
こうした指摘に怖いほど当てはまるだけに、
この警告は日本を含む全ての民主主義社会の
住民の傾聴に値する。」(p211)


うん。山口氏の文のはじまりの方も引用して終ります。

「ツイッターやフェイスブックなどSNS大手が、
投票日直前にバイデン陣営に不利になる情報とアカウントを
次々と削除していた・・・

1月6日の連邦議会議事堂襲撃事件をきっかけに、
ツイッター社はついにトランプのアカウントを永久停止した。
フェイスブックもトランプが投稿できないようにする措置に出た。

これにはドイツのメルケル首相など国際社会からも
『言論の自由への挑戦』として強い反発が出た。・・・

新興SNS『パーラー』まで、グーグル、アップル、アマゾンに
よる通信インフラとアプリ提供の停止によって使用不能に追い込まれた。

大手メディアのみならず、インターネット空間を支配する
『ビッグテック』までもが情報統制と言論封殺をあからさまに
行う状況・・・」(p207)
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久保紘之81歳『僕は思うんです』。

2021-01-28 | 道しるべ
雑誌Hanada(2021年3月号)。
連載「蒟蒻問答」は、今回で175回。
久保紘之氏の退院のことから話がはじまります。

久保】 二カ月間にわたって、大変ご心配、
    ご迷惑をおかけしました。

堤堯】 入院して手術したんだって?

久保】 ガンが見つかって腹を切ったんですが、
経過良好で二週間で退院できた。ところがその二週間後、
上野駅で転倒して後頭部を強打、軽い脳出血が起きちゃって
救急車で病院に逆戻り。トンマな話だけど、おかげで看護師
からはすっかりボケ老人扱いで何とか大事にされましたよ(笑)。

堤】 コロナで病院が逼迫した状況なのに、よく入院できたね。

久保】 タイミングがよかったんですね。
しかも僕が退院した直後、その病院からコロナ感染者が出て
大騒ぎになったから、運がいいといえばいい。
コロナにまで追い打ちをかけられたら、
さすがの僕でもまいちゃう(笑)。 P116


はい。これが対談のはじまりでした。
今回は、無事帰還された久保紘之氏のお話を
以下に、引用。

久保】 今回のアメリカの混乱を見て、日本の新聞は
まるでアメリカ議会を民主主義の象徴として見ており、
『そのアメリカ議会がこんなことになるとは』といった
書き方をしているところばかりだけど、笑止千万。
 ・・・・・・・・
・・新聞(1月8日付)で政治学者の
ダニエル・ジブラットはこう言っています。

『だれもが投票できるという、今では当たり前と思われている
制度が米国で成立したのは1960年代に入ってからです。

逆にこの国でそれが完成する前の40年代に、米国は
西ドイツや日本の民主化を後押しし、だれもが投票できる
社会を実現させていたというのも興味深い事実です』

つまり、戦後日本人は発言の後半の部分の印象が強いから、
現実のアメリカの制度の立ち遅れという事実を見落として
しまっているんですよ。・・・・・・
 ・・・・・・
トランプという悪役は、アメリカの議会、そして民主主義の
矛盾をあぶり出し、再び活性化させるカンフル注射的な役回り
を担っていた、という見方が成立するんじゃないかと
僕は思うんですがね。
 p122~123

久保】ヨーロッパだけでなく、オーストラリアやインドだって、
バイデンを簡単に信用できないでしょう。

久保】・・調整役が必要となり、それをできるのは誰かと
世界中を見渡すと、僕は安倍しかいないんじゃないかと思います。
・・・・たとえば安倍の辞任表明について、リチャード・
アーミテージはこう言っています。

『安倍首相は、米国の(トランプ)大統領が自由世界の
指導者とみなされなくなった時に立ち上がり、
自由世界の指導者の役割を引き受けた。
西側諸国の指導者として、ドイツや米国など各地で期待された。
これは首相の最大のレガシー(政治遺産)だ。
私が知る限り、安倍首相ほどの度量の大きさや見識を備えた
日本の首相はかつていなかた』(2020年9月5日付読売新聞)

久保】その安倍はまたもや『桜を見る会』関連で痛めつけられている。
国会中継を見ていると、安部が痛ましいというより、
日本国家が痛ましいという印象を受けますよ。
P126~127


はい。堤堯氏との丁々発止のやりとりは
これは雑誌を読んでのお楽しみなのでした(笑)。

ここでは、病院から無事帰還された久保紘之氏の
語りのみを引用させてもらいました。
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六十の手習。

2020-06-22 | 道しるべ
白洲正子著「私の百人一首」(新潮選書)を出してくる。
なかなかに思い出せない一首を知るためでした(笑)。
そうすると、
この本の「序にかえて」は題して「六十の手習」とあります。
うん。はじまりを引用。

「昔、私の友人が、こういうことをいったのを覚えている。
ーー 六十の手習とは、
六十歳に達して、新しくものをはじめることではない。
若い時から手がけて来たことを、老年になって、
最初からやり直すことをいうのだと。・・・」

そのあとに、かるたの話になります。

「かるたをとるということと、百人一首を観賞する
ことは、ぜんぜん別の行為なのだ。」

そして、京都の骨董屋とカルタの話になります。

「・・数年前、京都の骨董屋でみつけたもので、
箱に『浄行院様御遺物』と記してあり、公卿の家に
伝わるものらしい。くわしいことは忘れたが、
元禄年間の作で、当時の公卿は生計のために、
かるたを作ることを内職にしたという。
これもそういうものの一つだったに違いない。

読札には奈良絵のような素撲な絵と、上の句が書いてあり、
取札には浅黄地に金で霞をひいた上に、下の句を書き、
裏には金箔が押してある。
カルタという名が示すとおり、元亀・天正の頃、
外国から渡来したカードの形の中に、
平安時代以来の歌仙絵と仮名の美しさを活かすことが
出来たのは、色紙の伝統によるといえるであろう。

たとえ身すぎのためとはいえ、これを造った人々が、
どんなに祖先の生活をなつかしく憶い、
新しい形式の上に再現することをたのしんだか、
眺めているとわかるような気がする。・・・」


はい。こうして8頁の文がはじまっておりました。ちなみに、
本の始まりのページは、その百人一首かるたのカラー写真。

それはそうと、この本のあとがきの最後に、
昭和51年秋とあります。白洲正子年譜には

1970年(昭和45)60歳銀座の『こうげい』を知人に譲り・・
       61歳 『かくれ里』刊行
       64歳 『近江山河抄』刊行
       65歳 『十一面観音巡礼』
そして
1976年(昭和51)66歳 『私の百人一首』刊行

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1960年、1968年。

2020-06-19 | 道しるべ
平川祐弘氏の文と、
尾身茂氏の文を並べます。

まず平川祐弘氏の1960年。

「日本論壇を支配した左翼勢力は1960年に安保反対を唱えた。
一時帰国した私は安保騒動を目のあたりにしたが、1950年の
岩波の平和問題談和会の面々が今度は安保改定反対を唱えていても、
もはや同調する気はない。・・・・・・

60年も前から・・私は、論壇の主流から外されてきたが、同世代で
誰が王道を進んだのか、判定はまだ下されていない気がする。」
(2020年Hanada7月号・p357~358)


うん。60年前の判定がまだ下されていない。というのですから、
どうやら判定は、60年経っても下されない。そんなこともあるようです。

ちなみに、平川祐弘氏は1931年(昭和6年)東京生まれ。
つぎ引用の、尾身茂氏は1949年(昭和24年)東京都生まれ。

尾身氏は高校時代をAFSの留学制度を利用してアメリカにゆきます。

「1968年に帰国してみれば・・・日本中が、学園紛争で騒然としていた。
例えば安田講堂が占拠された東京大学は、1969年の入試が中止・・・
その年に私は慶應義塾大学(法学部)に入学した。その・・大学でも
ストライキに入った。反権力、反体制が声高に叫ばれる中、
『商社マンや外交官志望』などと口にすれば、『人民の敵』と
言われかねない雰囲気であった。・・・・・・
徐々に大学に通う回数が減り、通学途中で下車して、ある書店に
入り浸り・・・本を漁る日々が多くなっていた。そんなある日、
件の書店でぶらぶらしていると、ふと『わが歩みし精神医学の道』
(内村祐介著)という1冊が目にとまった。医学など夢想だにしなかった
私だったが・・医学という言葉が何か人間的な響きを持ち、
自分の悩みを一挙に解決してくれる救世主に思えた。・・・・・
勉強を始めて数か月後、自治医科大学という地域医療に従事する
医師を育てる大学が創設され、翌春1期生を募集することを知った。
『地域医療』という言葉の響きは、悩む心には魅力的だった。
しかも学費は無料だという。・・・・・

二度目の転機は30代後半に訪れた、卒業後に都立病院で研修した後、
伊豆諸島の離島での診療をはじめとする自治医科大学卒業生としての
就業義務も終わりにさしかかり、人生の後半の生き方を考える時期に来ていた。
・・・・・」(P2~3・尾身茂著「WHOをゆく」医学書院)


はい。1960年代の平川祐弘氏と、1668年代の尾身茂氏を引用しました。

ちなみに、平川氏の文の
「同世代で誰が王道を進んだのか、判定はまだ下されていない気がする」
という文のあとには、数行後にこんな箇所がありました。

「言動においてはきわめて反体制的、
行動においては保守保身的という
日本の左翼知識人のずるさは私も感じた。
しかし人間はそんなものだ、という諦観もあった。」

このあとに、平川氏は1968年の学生運動を語っておりました。

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尾身茂の古典的手法。

2020-06-12 | 道しるべ
月刊「文藝春秋」の新聞広告に、
磯田道史氏が「世界一の『衛生観念』の源流」を書いている。
副題は「日本人と『疫病神』との不思議な関係」とあります。
うん。さっそく購入。そのはじまりを引用。

「実は、この国の天皇の王権も、伊勢の祭祀も、
はじまりは疫病であった。
今日、この国の人々は高い衛生観念をもつ。
今回、新型コロナの波を乗り切るにあたっても、
その力が大きかった。この不思議な国民の
衛生コンピテンシー(行動特性)は、
いかに培われてきたのか。
歴史をさかのぼって考えておく必要がある。」

もう一冊。今日、手にした本を紹介。
読売新聞の「編集手帳」(2020年5月25日)に
尾身茂さんの本「WHOをゆく」(医学書院)が紹介されていて、
翌日注文したのですが、品切れでした。それが
今日届きました。
横書きの本で、序のまえに著者プロフィール。その下に
発行が2011年10月。そして2刷が2020年6月1日とあります。
さて、尾身茂さんんは1949年生まれ。序には

「2009年1月30日、約20年間の世界保健機関(WHO)での仕事を
終え、帰国・・・・・若い頃から還暦を迎えた現在まで、多くの方々の
お世話になり、様々な経験をさせていただいた。本書が若い読者の
これからの人生に少しでもお役に立てれば、望外の喜びである。
・・・・」

とあります。というと、現在の2020年で尾身さんは71歳。
文中にWHOでのSARS制圧に関してのインタビューに
答えている箇所があります。

尾身】今回のSARSについて・・・大きく3つの特徴がありました。

①あっという間に飛行機で感染が伝染したり、マスコミで一瞬のうちに
情報が伝わった点で、21世紀の病気であった。しかしその対応は
治療薬やワクチンがなかったため、19世紀的な古典的手法
(たとえば感染者の隔離や接触者の追跡など)に
頼らざるを得なかったこと。

②主に病院関係者を直撃したこと。

③患者数と比較して社会経済に対するインパクトが膨大だったこと。
(p56)


 
文藝春秋にもどって、磯田道史氏の文には
「江戸の免疫知識」という箇所が、わたしには具体的で
印象に残ります。橋本伯寿(はしもとはくじゅ)の
『断毒論』(1810年刊)などを紹介します。

「橋本は甲斐(山梨県)の人だが、長崎で、西洋医学も学んだ。
それゆえ、合理的で『痘瘡・麻疹・梅毒・疥癬』の4病を伝染病と見破り、
隔離による感染対策を書き上げた。
『痘瘡(天然痘)の伝染には3つあり』とし、
はっきり『伝染』という用語を使った。

第一、『病に近より熱気が鼻に入る』。
第二、『病の玩物(もてあそびもの)すべて病中寝処にありし物を
手に触れても伝染す』。
第三、『食物にて伝染す』。
第三の食物を介した伝染は『至て、すみやかなり』、
『食物、冷て後までも、病毒、浸入(しみいりて)あるならん』
と病原体がしばらく食物内で生存することまで指摘している。

  ・・・・・・・・・・・・

 痘瘡流行の時は、祭祀・劇場・観場、すべて人衆(ひとおおく)
あつまる所へ行て香触(かぶ)れざるように遠慮すべし

   それだけではない。こういう観念も、もうあった。

 痘瘡流行の間は、習書・読書等すべて、稽古事にて、
他処へ行くを遠慮すべし

  今でいう『登校自粛』である。江戸後期の科学知識は、
  馬鹿にならない。免疫獲得の概念もあり
   ・・・・・・・・・

だが、橋本は幕府に隔離の法制化を請願したが、
かえって『断毒論』の版木迄押収された。
江戸の隔離は民間力で行われた。」(p115~116)

うん。磯田さんの文は多岐にわたっているので、
私に引用できるのはそのうちの一部でした。

そう、尾身茂さんが指摘した
『19世紀的古典的手法に頼らざるを得ない』
という、その箇所を引用してみました。
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テレワークと会議。

2020-05-28 | 道しるべ
私は、ワープロがない時代に育ちましたから、
ワープロで自由に活字が打てるという恩恵を、
もろにうけたような気がしております。
はい。字が下手だったせいで、人前に出せるような
文字を書くには、時間ばかりかかっておりました。
それが、文字への恥ずかしさを、ちっとも考えずに、
活字を打ちこめるという気軽さ、楽しさ(笑)。

そうこうしているうちに、ワープロからパソコンとなり、
いつのまにか、ネット社会になっておりました。
コロナ禍の後の社会に、テレワークでの会議が、
というよりも、座談ができるという予測は、
わたしには、ワープロが普及した場合のことから
類推することが出来そうな気がします。

さてっと、月刊Hanada7月号の平川祐弘氏の連載に、
ご自身の著書「日本語は生きのびるか」(河出ブックス)
を注で紹介なさっておられた。はい。たしかあったなあと、
本棚を探してくる。さっそく、パラパラとめくっていると、
会議についての箇所がありました。
こちらで紹介されている会議は切実感があります。
ちょっと文の流れがあるので、その前から引用。

「(この日本の平等主義は国内に限られたもので、
平等主義の主張者も日本人の収入が全人類の人々の
平均収入と平等でなければならない、とはさすがに
言わないようである)・・・・・
日本人が国内的平等をいくら重んじたところで
言語の国際的不平等に勝てるはずはない。・・・・」

はい。このような推移で書かれたあとに『会議』が
ありました。

「自由・平等を世界の諸国並みに理解していないからこそ、
わが国は今日のような自閉的状況に陥ったと見るべきであろう。
同じデモクラシーの原理に立脚するといいながら
西洋の大学にはなぜ日本の大学ほど形式的な会議は多くないのか
ーーそうした現場の相違を日本の西洋研究者はなぜ直視しないのか。
Publish or perish 
『論文を活字にして発表するか、さもなくばポストを失うか』という
大学人としての国際場裡での生存競争の原理を尊重し、
その競争に勝ち抜くためには、
形式的な会議のための会議などに出席している閑な時間は、
本来大学人にはあり得ないはずである。」(p194~195)

月刊Hanada7月号の連載で、平川氏は大学紛争中の
会議をとりあげておりました。こちらも引用することに

「1968年から69年にかけての東大教授会の動向と
学生自治会の動向・・・・

だが、助手の動静は存外報じられておらず、
ほとんど活字になっていない。
紛争に際しては年少気鋭の助手たちがたちまち騒ぎだした。
助手といっても様々で、教授会メンバーに昇格する保証のない
助手もいる。私もそんな一人だが、違いは私だけ一回り年をくって
いたことだ。助手の立場は煉獄にいる様に似て、
フラストレーションが溜りやすい。引火性が高い、
不安定な地位であってみれば、あれよあれよという間に
医学部の若手の主張に同調し騒ぎだした。
 ・・・・・・
・・全共闘派に同調する助手が議事を巧みに進める。
さまざまな提案を何度も投票するうちに百人ほど集まった
教養学部の助手は闘争派の側に次々と靡き、しまいに
賛成と反対は99対1となってしまった。
まだ夏休み前だったが、その日はさすがに憮然として
帰宅した。この先どうなるか、と胃が痛んだ。皆が流され、
自分だけは流されないという座標軸を持つことは容易でない。
 ・・・・・・・・
私と同じような反対派はいたろうが、そうした人はしまいに
助手会そのものに主席しなくなったのに相違ない。
時間の無駄であり、ただでさえ多過ぎる形式的な会議に
これ以上参加を強制されてはたまらない。」(p359~360)

はい。テレワークの会議になれば
『ただでさえ多過ぎる形式的な会議』に
参加しなくても、自宅ですむかもしれない。
なんてことを、たまたま読んでいた
平川祐弘氏の文を借用しながら、
あれこれ思い描く。

そういえば、文化人放送局の
怒れるスリーメンでは、
高橋洋一氏が自宅からの参加で
椅子の背もたれにマッサージ器を
おいているらしく、体を揺らしながら
他の方の話を聞いている姿がありました(笑)。





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漱石・露伴と、藤村操(ふじむらみさお)。

2020-05-25 | 道しるべ
「幸田露伴の世界」(思文閣出版)の
まえがきで、井波律子さんは「語り下ろし論文」へ言及しております。
それは、どんなことなのか。

「各自の研究発表はすべてテープにとり、これを起こしたものを
発表者にわたし、研究会におけるやり取りも考慮に入れつつ、
手を入れてもらったものを『語り下ろし論文』とすること。」

「『語り下ろし論文』についても、こうした試みを通じて、
発表現場の雰囲気を生かした臨場感に富む『論文集』に
なった・・・・さらにまた、この『語り下ろし論文』が、
ともすれば『難解』だと敬遠されがちな露伴のイメージを
いささかなりともやわらげ、より多くの人々が多様な露伴像に
アプローチする手がかりになればと願うものである。・・・・」

はい。多様な露伴像。それならこの本の要約より、
わたしなりの、勝手な拡散をたのしみましょう(笑)。

「幸田露伴の世界」の井上章一さんの「語り下ろし論文」は、
題して「『平家』と京都に背をむけて」。
はじめの方で、藤村操(ふじむらみさお)を取り上げています。


「明治36年(1903)のことでした。藤村操という、
当時の一高生が、日光にある華厳の滝へとびこんでいます。
投身自殺でした。遺書には『人生不可解』とあった。・・・・

これが、当時たいへんな評判をよびます。彼をまねて、
同じように自殺をこころみる青年も、でてきました。
世相をゆるがす事件となったのです。」(p160)

はい。井上章一さんの「語り下ろし論文」の要約はやめて、
ここから、わたしの拡散の連想がはたらきます(笑)。

本棚から、出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版)を取り出す。
じつは、藤村操が自殺した時、漱石は彼の英語授業の先生でした。
その箇所を、出久根達郎さんの本から引用してみます。

「漱石が明治36年1月に帰国する・・・・
この年の5月22日の寅彦日記に、次の一行があります。
『一高生徒藤村操、華厳の滝に投じて死す』

漱石は帰国後、東京帝国大学文科大学の講師に任命されました。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任で、英文学概説を講義しております。
・・・・漱石は一方で、第一高等学校の英語の授業を受け持っていました。
藤村操は漱石の教え子でした。

5月13日の授業で、漱石は藤村を指名しました。
藤村は訳読の下読みをしてきませんでした。
これは二度目だったといいます。なぜしないか、と問うと、
『したくないから、やってこないのです』と答えました。
『この次は必ずしてきなさい』と漱石はさとしました。

それから9日目に、藤村は日光の華厳の滝から
身を投げて自殺しました。傍らの樹の幹をけずって、
遺言を記してありました。これが当時評判になった
『巌頭之感(がんとうのかん)』で・・・・」

こうして、出久根達郎さんは
「漱石が一高の教壇に立って、わずか一カ月あまりの
出来事でしたから、しかも当人に二度も注意したことでしたし、
その注意が自殺の原因ではあるまいか、と漱石はずいぶん
悩んだようです。」
と指摘したあとに、漱石の著作の中に、それを探ります。
「吾輩は猫である」「草枕」。そして「坑夫」。それから
「自殺が重要な鍵となる小説『心』」。


うん。ここで、「幸田露伴の世界」へ、もどります。
井上章一さんの文は、その自殺をとりあげてから露伴の
作品『頼朝』へと言及してゆきます。

「しかし、露伴は、そんな苦悩を歯牙にもかけません。
青二才が、なにを血まよったんだとしか、思いませんでした。
そのことを、露伴は、頼朝の若いころとくらべながら論じています。

  人生の味気無さに華厳の滝へ飛び込む可きものならば、
  頼朝などは七度飛び込んでも九度飛び込んでも、
  とても飛び込み足らぬのである。(「露伴全集」第16巻) 」
(p160~161)

「頼朝は、十三、四歳のころに、生死のさかいをさまよった。
平清盛に殺されかける、そのまぎわに、かろうじてたすかっている。
とにかく、少年時代に一度は死を覚悟したはずの人なのです。
それに、父の義朝が家来に殺されもしました。
とにかく、ひどいめにあったのです。

露伴は、ここを強調します。華厳の滝へ七回とびこんでも
たりない経験をしたというのは、このことをさしています。」(p169)


うん。井上章一さんの文は、あくまで幸田露伴なので、
漱石への言及はありませんが、拡散への誘惑はあります。

夏目漱石は、明治36年1月に帰国し、東京帝国大学文科大学の講師となります。
幸田露伴が、明治41年になって京都帝国大学文科大学の講師となり、翌年京都へ。
その経緯は、井波律子さんの文に、語られておりました。

「明治40年(1907)、41歳の時に、主要論文ともいうべき
『遊仙窟』を発表します。・・この論文が『業績』として
評価されたとおぼしく、翌41年、開設まもない
京都帝国大学文科大学講師に任ぜられ・・・・
実際に京都に移り住んだのは、翌42年の初めのようですが、
なんとこの年の9月には早くも辞任しています。
夏休みがすんだらもどって来なかった・・・」(p13)


幸田露伴著『頼朝』は、全集で確認すると
明治41年9月に、発表されています。その9月の辞任です。前年の
明治40年2月に、夏目漱石は、教職を辞し、職業作家へ。その際、
京都帝国大学英文科教授への誘いも断ったようです。

最後に、京都大学創立についての引用。

「明治39年に開設された京都帝国大学文科大学は当初、
『進取の気概』にあふれ、学歴にこだわらず、ずばぬけて
優秀な学者を積極的に採用しました。
正規の学歴は小学校どまりの露伴を講師に迎え、
秋田師範出身の中国学の逸材、内藤湖南を東洋史学科の
教授に迎えたのも、そうした気概のあらわれにほかなりません。
もっとも、露伴の場合、家族を東京に残し単身赴任している・・」(p14)

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露伴の退学・中退。漢学塾。

2020-05-23 | 道しるべ
井波律子は、「三国志演義」の訳があり。
幸田露伴は、「水滸伝」の訳がありました。

井波律子への追悼文のなかに、こんな箇所がありました。

「・・はじめフランス語を学び、やがて中国文学に転じた。
第一人者だった吉川幸次郎さんの門をたたき・・・・
『三国志演義』の個人全訳という、6年がかりの大仕事もある。
キーボードをたたき続けているうちに、
指先の皮膚が角質化して全部はがれてしまったという。・・」
(「産経抄」2020年5月19日)

その井波律子さんが、「その生涯と中国文学」をメインに
幸田露伴を取り上げているのですが、いきなり露伴の
フトコロに入ってゆく魅力があります。
その井波さんの文のはじまりは

「幸田露伴、本名幸田成行(しげゆき)は、慶応3年(1867)
明治維新の前年の生まれで、同じ年に夏目漱石、尾崎紅葉、
正岡子規も生まれています。露伴の生まれた家は代々、
徳川幕府のお坊主衆・・・したがって、露伴の生まれた翌年、
明治維新になり徳川政権が消滅すると、幸田家は
経済的基盤を失い、じり貧状態になってゆきます。」

こうして、露伴の少年時代を井波さんは語ってゆきます。
途中から引用。

「明治8年から12年間は、お茶の水師範の下等小学校(附属)に
通学し、ここはちゃんと卒業しています。
 ・・・・・・
明治12年、東京府立中学(一中)に入学しますが、翌年、
先に述べたように経済的事情で退学しています。退学後、
湯島の図書館に通い、独学で漢籍などを読みました。
露伴は生涯にわたって基本的に独学の人です・・・・・

中学退学の翌年(明治14年)、15歳で東京英学校(現在の青山学院)
に入学します。・・これも一年ほどで中退しています。・・・
短期間ながら、こうして英語を学んだために、発音はものになりません
でしたが、読解できるようになり、この英語力を生かして、
後年、釣りに関する英文書を読んだりしています。」

このあとに漢学塾のことが出てきて印象に残ります。

「英学校退学後、菊池松軒の漢学塾に入ります。
ここで学んだことは、露伴にとってたいへん貴重な経験になりました。
当時の漢学塾は、菊池塾もそうだったようですが、
他に職業を持っている人が、なかば趣味で塾を開き、
若い人を集めて教えるケースがほとんどでした。
こうした塾は利益追求型ではないので、『束脩(入学金)』を
おさめるだけで、月謝をおさめる必要はありませんでした。
だから、露伴のように経済的に余裕のない家庭の子弟でも、
通いやすかったのです。
この菊池塾は生徒が自発的に学ぶことをモットーとし、
たとえば、『史記』なら『史記』を独力でどんどん読みすすめ、
わからないところが出てくると、先生に聞くというやりかた
だったようです。露伴はここに毎晩通って学ぶうちに、
正統的な漢文のみならず、『朱子語類』を通じて白話文にも
習熟するようになります。
 ・・・・・
このように露伴は英語と漢文を両方とも学ぶという、
なかなか面白い勉強の仕方をしました。
とはいえ、いつまでもぶらぶらしているわけにもゆかず、
明治16年、17歳のとき、電信修技学校に入学します。
東京の下町では、明治から大正にかけ、
電信技師や電話交換手になった人が多いように思われます。
たとえば、三味線や長唄、清元などの芸事のプロ、
もしくはプロに近い人でも、それだけでは生活できないので、
昼間は電話局や電信局に勤めるわけです。
・・・・・何か手に職をつけなければならないというので、
電信修技学校に入ったのでしょう。優等生だったので
学費免除の給費生となり、翌年に卒業します。
 ・・・・・
当時は師範学校もそうですが、修技学校の卒業者も
必ず一定期間、電信技師として勤務しなければならない
義務がありました。このため、露伴も明治18年、19歳の時に
東京を離れ、はるかかなたの北海道の余市に赴任しました。
ところが、約束は3年だったにもかかわらず、2年足らずで
職務を放擲し、東京に帰ってしまいます。
ときに明治20年、露伴21歳。・・・」
(「幸田露伴の世界」p3~7)

うん。ここから、作家露伴の足跡をおう
井波律子さんの真骨頂がはじまるのでした。

はい。わたしの引用はここまで(笑)。
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