和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

夏の終り。

2007-09-04 | 詩歌
伊東静雄の詩集。「春のいそぎ」と「反響」の2つの詩集の、どちらにも「夏の終り」と題する詩がある。これをどう考えればいいのだろうと、思っておりました。もちろん、詩の内容は異なるのです(題名も多少ちがいます。最初が「夏の終」、もう片方が「夏の終り」)。
別にどうでもいいことなのでしょうが、2つの詩のことが、気になっておりました。
すると、産経新聞の石原慎太郎連載「日本よ」(月一回の連載)を、読んで、ああ、そうか、という気になりました。まずは、その連載「日本よ」(2007年9月3日)のはじまりが重要なので、引用します。

「夏休みの最中にテレビで見た亡き城山三郎氏に関する番組に強い印象を受けた。同じ文壇で暮らし同窓の先輩でもある彼が、戦争中に海軍兵としてあれほど過酷な体験を強いられてきたと初めて知らされた。その彼の述懐に、戦争に負けた時軍隊の規律を含めていろいろな抑圧から解放され初めて、空がこんなに高く明るいものだと知らされたとあった。その言葉には私自身の経験から照らして共感させられた。当時、逗子という美しい海に面した町に住みながら、敗戦の年の夏は、いよいよの本土決戦に備えて兵隊たちが砂浜に蛸つぼを掘り、浜も海も立ち入り禁止となった。それは遊び盛りの子供たちにとっては業苦で、私の家は海から100メートルも離れていないのに目の前に見える海で泳ぐことの出来ぬ不条理に耐えることが出来なかった。その一方、敵が上陸すれば子供も女も竹やりを持って玉砕覚悟で戦うのだと宣告され、子供心に死ぬというのは一体どんなことなんだろうかと懸命に考えさせられたものだった。そして敗戦となり砂浜を占拠していた兵隊たちは姿を消し、海は私たちに戻ってきた。戦に敗れたという悔しさと相反して、私たちにようやく海が戻ってきたという解放のしみじみした喜びがあった。夏の半ばにようやく全身で味わいなおした海は、こんなにもと思うほど青く深く透明で素晴らしく、自由を表象して感じられた。」

これを読んで、ああ、そうかと私は思ったのでした。さっそく調べてみますと、

  詩集「春のいそぎ」は、昭和18年9月10日、弘文堂書房刊。
  詩集「反響」は、昭和22年11月30日、創元社刊。

つまり、二つの詩集は、戦中と戦後とにわかれて刊行されたものでした(詩集「反響」の「夏の終り」は、雑誌「文化展望」昭和21年10月号に掲載とあります)。

詩集「春のいそぎ」の詩「夏の終」の始まりと終りの数行を引用してみます。


   月の出にはまだ間があるらしかつた
   海上には幾重にもくらい雲があつた
   そして雲のないところどころはしろく光つてみえた

   ・・・・・・・・・・・

   そんなことは皆どうでもよいのだつた
   ただある壮大なものが徐(しづ)かに傾いてゐるのであつた
   そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


それでは、もうひとつの「夏の終り」を、これは詩の全文引用。


      夏の終り


  夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
  気のとほくなるほど澄みに澄んだ
  かぐはしい大気の空をながれてゆく
  太陽の燃えかがやく野の景観に
  それがおほきく落す静かな翳は
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  いちいちそう頷く眼差のやうに
  一筋ひかる街道をよこぎり
  あざやかな暗緑の水田(みづた)の面(おもて)を移り
  ちひさく動く行人をおひ越して
  しづかにしづかに村落の屋根屋根や
  樹上にかげり
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  ずつとこの会釈をつづけながら
  やがて優しくわが視野から遠ざかる

コメント
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