人文書院の「定本伊東静雄全集」によると、詩人伊東静雄は昭和28年3月に亡くなっております。次の年に、諫早城址に詩碑が建立されており、選辞、揮毫が三好達治となっております。そこに、詩碑として選ばれた言葉はというと、
手にふるる野花は
それを摘み
花とみづからを
ささへつつ
歩みをはこべ
これは、詩「そんなに凝視(みつ)めるな」の中にある言葉で、
ちなみに、詩碑にはない、この次の行はというと
「問ひはそのままに答へであり」とあるのでした。
ここでは、その「問ひ」を提案したくなりました。
この8月は、本を読まなかったなあ(いつものことなのですけれど)。
そんなわけで、たまたま読んだ伊東静雄の詩が、他の言葉に取って代られることなく自分の中でふくらんでいきました。たのしかった。それは「庭」。
伊東静雄の詩の題名に、「庭」がでてくるのがあります。
詩集「春のいそぎ」に、「庭の蝉」。(日記・昭和16年に同じ題の推敲前の詩)
拾遺詩篇に、「庭をみると」。
そして、日記の昭和16年に「夏の庭」(p266・p268)。
とあります。まず、詩集には取り上げられなかった「庭をみると」から。
庭をみると
辛夷の花が 咲いてゐる
この花は この庭のもの
人の世を苦しみといふべからず
花をみる時
私は
花の心になるのである
あまりに簡単すぎて、詩集に入れるのも憚られたのかもしれません。
でも、わかりやすい詩で、私はというと、いろいろと思い描くのです。
たとえば、私はⅤ.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、あの有名な箇所が浮かんできたりしました。
そのエピソードは一人の若い女性のことでした。
「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)
この著者フランクは、医学部教授(神経学、精神医学)と略歴にあります。
今年の7月19日には、元文化庁長官でユング派の分析心理学者・河合隼雄さんが亡くなっております。そういえば蓋棺録に「心理療法家としても知られたが、ヨーロッパ文化を基盤とする分析心理学を、そのまま日本に適用するのには反対だった。日本の昔話に注目し、鎌倉時代の僧・明恵の夢を分析するなど、常に日本文化の特質を念頭においた。また箱庭を導入し、日本人向きの療法を模索した。」(文芸春秋2007年9月号)という箇所があります。その箱庭療法というのは、どのようなものなのか?
その箱庭というのが、いったいどのようなものなのか覗いて来た人がおりました。
南伸坊さん。新潮文庫「心理療法個人授業」に河合隼雄を先生にして、生徒として南伸坊がいろいろとイラストを交えながら質問しております。
そこから見学の様子を引用してみます。
「今回は、京都にある先生の診療所にお伺いして箱庭療法の部屋を見学させていただいた・・・部屋は八畳か十畳くらいの洋室でした。三方に、箱庭に使われるミニチュアがびっしり並べられてて、ものすごくおもしろい。」
「部屋の真ン中には大きなテーブルがあって、そこに乾いた砂と、湿った砂のつめられた、平べったい箱が二つ置いてある。この箱の底は水色に塗られていて、砂をおしのけると、ちょうど湖や海や、川を表わせるようになっています。先生がプロの手つきで(って、砂あそびのプロってのもヘンですが)砂をおしのけて、ホラこのとおり、という風にやってみせてくださいます。そうして元通り砂を平らにすると、やっぱりプロっぽい手つきで砂を払われる。『ちょっとやってみますか?』と、いわれるかと思って身構えていると、先生は何も言われない。」(p143~146)
ここらで、すこし伊東静雄にもどりましょう。その日記に記された詩「夏の庭」を引用してみます。
ひとやむかしのひとにして
ひらめきいづる朝の雲
池に眠むれる鯉のかげ
薔薇はさきつぎ
われやむかしのわれならず
ひとはむかしのひとにして
薔薇さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる魚のかげ
われはむかしのわれならず
これが伊東静雄の昭和16年4月の日記にあります。つづいて昭和17年7月の日記に、推敲された、こんな詩も載っておりました。
ひとはむかしのひとにして
薔薇(そうび)さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる鯉のかげ
われはむかしのわれならず
われはむかしのわれにして
薔薇さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる鯉のかげ
ひとやむかしのひとならず
この推敲の詩のあとに、日記ですから、言葉が書きつけてあります。
「やはり疲れてゐる。竹のまばらにはえた明るい庭(赭土の地面)に面した縁でねたい。・・」(定本・p268)
縁といえば、久世光彦さんの対談での言葉が思い浮かびます。
ちなみに久世光彦氏は2006年3月に逝去されております。テレビの名演出家として知られておりました。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などのドラマを演出しております。
対談相手の齋藤慎爾氏が「いちばん郷愁を持って語る時代は昭和十年から二十五、六年ですか」と問いかけると、久世さんは
「そうですねえ。エッセイは違いますが、小説とかテレビドラマはだいたい昭和十年代に限られていると言っていいくらい、非常に偏狭です。それほど確かな考えがあってではないけれど、やっていると幸福なんです。いまはもうどの家庭でも見られないようなものが何でもなく当たり前みたいにあるという茶の間の絵を撮っていると落ち着くんです。縁側を撮るのが好きなんです。」(p215・「久世光彦の世界」柏書房)
「庭に面した縁」から「縁側」と引用を重ねました。
つぎはテレビドラマじゃないですが「夢の露地」。
高橋新吉の詩の中にあります。その詩「霧雨」を引用します。
霧雨
霧雨の しづかにふる朝
幻しの犬が匍ひ歩いてゐる
茶を沸かし ひとり飲めば
姿なき猫が 膝にかけ上る
ひとときの 夢の露地に
竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く
雲走り 夕となれば
うつつの窓を閉ぢ ねやにふす
この詩については、篠田一士が丁寧な解説をしております。
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)にあります(p174~)。
さきに南伸坊さんの箱庭見学記がありましたが、それに河合隼雄が「先生の一言」を書きこんでおりました。
「今回は箱庭療法が取りあげられた。南さんが箱庭をされなかったのは賢明である。やはり、一対一で誰にも見せないことを前提にするから意味のあるものができるのだ(例外がないとは言えないが)。人に見せるとか、面白半分とかでは、あまり意味のあるものはできない。悩みの深い人は、表現せざるを得ないものをもってくる。それが自然に出てくるのだから、迫力があるのも当然だ。・・・ロールシャッハはむしろ、診断のために用いられるが、箱庭療法はその作品を見ていろいろと判断するよりも、それを作った人が、そのような創作活動によって自ら癒される、という点が大切である。どんな人でも自分の心の奥底に『自己治癒』の可能性をもっている。しかし、どのようにして発露されるかが問題なのだ。『箱庭』はそのような自己治癒の作用がはたらく『場』を与えてくれる。」(p155~156)
最後は、まだ引用していなかった、伊東静雄の詩「庭の蝉」をもってきます。
旅からかへつてみると
この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
おれはなにか詩のようなものを
書きたく思ひ
紙をのべると
水のやうに平明な幾行もが出て来た
そして
おれは書かれたものをまへにして
不意にそれとはまるで異様な
一種前生(ぜんしょう)のおもひと
かすかな暈(めま)ひをともなふ吐気とで
蝉をきいてゐた
手にふるる野花は
それを摘み
花とみづからを
ささへつつ
歩みをはこべ
これは、詩「そんなに凝視(みつ)めるな」の中にある言葉で、
ちなみに、詩碑にはない、この次の行はというと
「問ひはそのままに答へであり」とあるのでした。
ここでは、その「問ひ」を提案したくなりました。
この8月は、本を読まなかったなあ(いつものことなのですけれど)。
そんなわけで、たまたま読んだ伊東静雄の詩が、他の言葉に取って代られることなく自分の中でふくらんでいきました。たのしかった。それは「庭」。
伊東静雄の詩の題名に、「庭」がでてくるのがあります。
詩集「春のいそぎ」に、「庭の蝉」。(日記・昭和16年に同じ題の推敲前の詩)
拾遺詩篇に、「庭をみると」。
そして、日記の昭和16年に「夏の庭」(p266・p268)。
とあります。まず、詩集には取り上げられなかった「庭をみると」から。
庭をみると
辛夷の花が 咲いてゐる
この花は この庭のもの
人の世を苦しみといふべからず
花をみる時
私は
花の心になるのである
あまりに簡単すぎて、詩集に入れるのも憚られたのかもしれません。
でも、わかりやすい詩で、私はというと、いろいろと思い描くのです。
たとえば、私はⅤ.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、あの有名な箇所が浮かんできたりしました。
そのエピソードは一人の若い女性のことでした。
「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)
この著者フランクは、医学部教授(神経学、精神医学)と略歴にあります。
今年の7月19日には、元文化庁長官でユング派の分析心理学者・河合隼雄さんが亡くなっております。そういえば蓋棺録に「心理療法家としても知られたが、ヨーロッパ文化を基盤とする分析心理学を、そのまま日本に適用するのには反対だった。日本の昔話に注目し、鎌倉時代の僧・明恵の夢を分析するなど、常に日本文化の特質を念頭においた。また箱庭を導入し、日本人向きの療法を模索した。」(文芸春秋2007年9月号)という箇所があります。その箱庭療法というのは、どのようなものなのか?
その箱庭というのが、いったいどのようなものなのか覗いて来た人がおりました。
南伸坊さん。新潮文庫「心理療法個人授業」に河合隼雄を先生にして、生徒として南伸坊がいろいろとイラストを交えながら質問しております。
そこから見学の様子を引用してみます。
「今回は、京都にある先生の診療所にお伺いして箱庭療法の部屋を見学させていただいた・・・部屋は八畳か十畳くらいの洋室でした。三方に、箱庭に使われるミニチュアがびっしり並べられてて、ものすごくおもしろい。」
「部屋の真ン中には大きなテーブルがあって、そこに乾いた砂と、湿った砂のつめられた、平べったい箱が二つ置いてある。この箱の底は水色に塗られていて、砂をおしのけると、ちょうど湖や海や、川を表わせるようになっています。先生がプロの手つきで(って、砂あそびのプロってのもヘンですが)砂をおしのけて、ホラこのとおり、という風にやってみせてくださいます。そうして元通り砂を平らにすると、やっぱりプロっぽい手つきで砂を払われる。『ちょっとやってみますか?』と、いわれるかと思って身構えていると、先生は何も言われない。」(p143~146)
ここらで、すこし伊東静雄にもどりましょう。その日記に記された詩「夏の庭」を引用してみます。
ひとやむかしのひとにして
ひらめきいづる朝の雲
池に眠むれる鯉のかげ
薔薇はさきつぎ
われやむかしのわれならず
ひとはむかしのひとにして
薔薇さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる魚のかげ
われはむかしのわれならず
これが伊東静雄の昭和16年4月の日記にあります。つづいて昭和17年7月の日記に、推敲された、こんな詩も載っておりました。
ひとはむかしのひとにして
薔薇(そうび)さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる鯉のかげ
われはむかしのわれならず
われはむかしのわれにして
薔薇さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる鯉のかげ
ひとやむかしのひとならず
この推敲の詩のあとに、日記ですから、言葉が書きつけてあります。
「やはり疲れてゐる。竹のまばらにはえた明るい庭(赭土の地面)に面した縁でねたい。・・」(定本・p268)
縁といえば、久世光彦さんの対談での言葉が思い浮かびます。
ちなみに久世光彦氏は2006年3月に逝去されております。テレビの名演出家として知られておりました。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などのドラマを演出しております。
対談相手の齋藤慎爾氏が「いちばん郷愁を持って語る時代は昭和十年から二十五、六年ですか」と問いかけると、久世さんは
「そうですねえ。エッセイは違いますが、小説とかテレビドラマはだいたい昭和十年代に限られていると言っていいくらい、非常に偏狭です。それほど確かな考えがあってではないけれど、やっていると幸福なんです。いまはもうどの家庭でも見られないようなものが何でもなく当たり前みたいにあるという茶の間の絵を撮っていると落ち着くんです。縁側を撮るのが好きなんです。」(p215・「久世光彦の世界」柏書房)
「庭に面した縁」から「縁側」と引用を重ねました。
つぎはテレビドラマじゃないですが「夢の露地」。
高橋新吉の詩の中にあります。その詩「霧雨」を引用します。
霧雨
霧雨の しづかにふる朝
幻しの犬が匍ひ歩いてゐる
茶を沸かし ひとり飲めば
姿なき猫が 膝にかけ上る
ひとときの 夢の露地に
竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く
雲走り 夕となれば
うつつの窓を閉ぢ ねやにふす
この詩については、篠田一士が丁寧な解説をしております。
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)にあります(p174~)。
さきに南伸坊さんの箱庭見学記がありましたが、それに河合隼雄が「先生の一言」を書きこんでおりました。
「今回は箱庭療法が取りあげられた。南さんが箱庭をされなかったのは賢明である。やはり、一対一で誰にも見せないことを前提にするから意味のあるものができるのだ(例外がないとは言えないが)。人に見せるとか、面白半分とかでは、あまり意味のあるものはできない。悩みの深い人は、表現せざるを得ないものをもってくる。それが自然に出てくるのだから、迫力があるのも当然だ。・・・ロールシャッハはむしろ、診断のために用いられるが、箱庭療法はその作品を見ていろいろと判断するよりも、それを作った人が、そのような創作活動によって自ら癒される、という点が大切である。どんな人でも自分の心の奥底に『自己治癒』の可能性をもっている。しかし、どのようにして発露されるかが問題なのだ。『箱庭』はそのような自己治癒の作用がはたらく『場』を与えてくれる。」(p155~156)
最後は、まだ引用していなかった、伊東静雄の詩「庭の蝉」をもってきます。
旅からかへつてみると
この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
おれはなにか詩のようなものを
書きたく思ひ
紙をのべると
水のやうに平明な幾行もが出て来た
そして
おれは書かれたものをまへにして
不意にそれとはまるで異様な
一種前生(ぜんしょう)のおもひと
かすかな暈(めま)ひをともなふ吐気とで
蝉をきいてゐた