産経新聞の一面コラム「産経抄」というのは何人かで手分けして書いているのでしょうか?
今日9月22日の産経抄は魅力があります。
それは昭和35年「安保改定」の際の、社会党の論争の仕方を振り返っておりました。昭和26年に結ばれた日米安保条約の不平等を解消しようとした「安保改定」に際し、社会党が取った立論をコラムで振り返るのです。
その推移を簡略に、コラムでたどっております。
「野党の社会党などが『そもそも安保などいらない』と、議論を振り出しに戻してしまった。現実の国益議論を神学論争にしてしまったのである。国会が混乱すると、こんどはマスコミが『強行採決がケシカラン』と批判を強める。『岸首相(当時)の強権的姿勢のせいだ』となっては、論点は限りなくぼやけてしまった。結局、誰も『安保改定』の意味などわからないまま国全体が混乱に陥ったのだ。今のテロ特措法をめぐる状況もよく似ている。問題は海上自衛隊がインド洋で行っている多国籍軍への補給活動を続けるかどうかだ。それだけである。そのためには、これまでの活動の成果や国際的評価、国際状況に大きな変化があるか、などを考えればすむことだ。ところが、小沢一郎代表ら民主党は『そもそも補給活動が間違っている』と、やはり論議を振り出しに戻そうとしている。それは国連が『謝意決議』までしたインド洋での各国の活動自体を否定するものだ。日本が参加するまでの議論も無視した不毛な反対論である。真の狙いは補給活動阻止よりも自民党への揺さぶりかもしれない。これも安保改定当時の社会党の姿勢と似ている。・・・」
論点を限りなくぼやかして、不毛なものにする論者というのは、いつの時代にも大勢いるものでした。それにしてもコラムの指摘する「現実の国益論議を神学論争にして」というくだりは、日本人の急所をついているのかもしれませんね。その二匹目のドジョウを狙っているとしか考えられない民主党代表の悲しさ。この悲しさを払拭して、「言葉の力」で、どのように民意に語りかけてゆけばよいのか。
追記。産経新聞の9月22日には、読書欄で花田紀凱(かずよし)の「週刊誌ウォッチング」が週刊誌からの視点で、朝日新聞社を眺望しております。
はじまりは
「『週刊朝日』(9月28日号)と『アエラ』(9月24日号)が勝ち誇ったように、安倍総理辞任の大特集。両誌とも表紙は沈鬱な安倍総理の顔のクローズアップ。『朝日』の方はタイトルロゴの上に「安倍逃亡」という特集の総タイトルを大きく載せ、「総力40p」というハシャギぶりだ。・・・『朝日新聞』はむろんのこと、『朝日』『アエラ』、全社あげて病に倒れた一国の総理をここまであしざまに言わなくてはいけないのか。・・・」
そういえば、思い浮かぶのは今西光男著「新聞 資本と経営の昭和史」でした。
その本の「はじめに」で桑原武夫に聞いた話を披露しておりました。
「『新聞で一番面白いのは、じつは下半身ですよ』先生のいう『下半身』とは、新聞紙面の下部を占める新聞広告のことである。掲載された・・・週刊誌、書籍の内容広告などをみれば、いま流行になっているものは何か・・・多くの情報がそこから読み取れる。新聞広告もまた、大事な情報、ニュースだというのだ。・・・」
さしあたり、朝日新聞紙上の「週刊朝日」「アエラ」の内容広告が、読者の関心を操作していく過程として朝日全社体制の総力戦に思い至るのでした。これが何げない情報操作という怖さにつながっているのだと私など思うわけです。
もうひとつ「週刊誌ウォッチング」で、指摘されている名前は忘れないだろうなあ。
こうありました。
「読んでいて不愉快になったのが、朝日新聞コラムニストという早野透なる人物の「『美しい国』の無残な結末」という一文。・・・イヤ味な書きっぷり。朝日のコラムニストもこの程度か。」
わざわざ週刊誌を買って確かめる気もしません。
ですが「早野透なる人物」は、覚えておきます。
今日9月22日の産経抄は魅力があります。
それは昭和35年「安保改定」の際の、社会党の論争の仕方を振り返っておりました。昭和26年に結ばれた日米安保条約の不平等を解消しようとした「安保改定」に際し、社会党が取った立論をコラムで振り返るのです。
その推移を簡略に、コラムでたどっております。
「野党の社会党などが『そもそも安保などいらない』と、議論を振り出しに戻してしまった。現実の国益議論を神学論争にしてしまったのである。国会が混乱すると、こんどはマスコミが『強行採決がケシカラン』と批判を強める。『岸首相(当時)の強権的姿勢のせいだ』となっては、論点は限りなくぼやけてしまった。結局、誰も『安保改定』の意味などわからないまま国全体が混乱に陥ったのだ。今のテロ特措法をめぐる状況もよく似ている。問題は海上自衛隊がインド洋で行っている多国籍軍への補給活動を続けるかどうかだ。それだけである。そのためには、これまでの活動の成果や国際的評価、国際状況に大きな変化があるか、などを考えればすむことだ。ところが、小沢一郎代表ら民主党は『そもそも補給活動が間違っている』と、やはり論議を振り出しに戻そうとしている。それは国連が『謝意決議』までしたインド洋での各国の活動自体を否定するものだ。日本が参加するまでの議論も無視した不毛な反対論である。真の狙いは補給活動阻止よりも自民党への揺さぶりかもしれない。これも安保改定当時の社会党の姿勢と似ている。・・・」
論点を限りなくぼやかして、不毛なものにする論者というのは、いつの時代にも大勢いるものでした。それにしてもコラムの指摘する「現実の国益論議を神学論争にして」というくだりは、日本人の急所をついているのかもしれませんね。その二匹目のドジョウを狙っているとしか考えられない民主党代表の悲しさ。この悲しさを払拭して、「言葉の力」で、どのように民意に語りかけてゆけばよいのか。
追記。産経新聞の9月22日には、読書欄で花田紀凱(かずよし)の「週刊誌ウォッチング」が週刊誌からの視点で、朝日新聞社を眺望しております。
はじまりは
「『週刊朝日』(9月28日号)と『アエラ』(9月24日号)が勝ち誇ったように、安倍総理辞任の大特集。両誌とも表紙は沈鬱な安倍総理の顔のクローズアップ。『朝日』の方はタイトルロゴの上に「安倍逃亡」という特集の総タイトルを大きく載せ、「総力40p」というハシャギぶりだ。・・・『朝日新聞』はむろんのこと、『朝日』『アエラ』、全社あげて病に倒れた一国の総理をここまであしざまに言わなくてはいけないのか。・・・」
そういえば、思い浮かぶのは今西光男著「新聞 資本と経営の昭和史」でした。
その本の「はじめに」で桑原武夫に聞いた話を披露しておりました。
「『新聞で一番面白いのは、じつは下半身ですよ』先生のいう『下半身』とは、新聞紙面の下部を占める新聞広告のことである。掲載された・・・週刊誌、書籍の内容広告などをみれば、いま流行になっているものは何か・・・多くの情報がそこから読み取れる。新聞広告もまた、大事な情報、ニュースだというのだ。・・・」
さしあたり、朝日新聞紙上の「週刊朝日」「アエラ」の内容広告が、読者の関心を操作していく過程として朝日全社体制の総力戦に思い至るのでした。これが何げない情報操作という怖さにつながっているのだと私など思うわけです。
もうひとつ「週刊誌ウォッチング」で、指摘されている名前は忘れないだろうなあ。
こうありました。
「読んでいて不愉快になったのが、朝日新聞コラムニストという早野透なる人物の「『美しい国』の無残な結末」という一文。・・・イヤ味な書きっぷり。朝日のコラムニストもこの程度か。」
わざわざ週刊誌を買って確かめる気もしません。
ですが「早野透なる人物」は、覚えておきます。