伊東静雄のことからつながって、杉山平一を、今回は語ります。
杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)に、伊東静雄を語っている箇所があり、印象に残っておりました。ということで、編集工房ノアから出版されている「杉山平一全詩集」(上下巻)を覗いてみたというわけです。
そのまえに、井上靖の詩集「北国」(1958年)に「夏の終り」と題した詩がありました。それはこうはじまっておりました。
颱風がどこかで潰れたのだろう、風船のように。
とにかく、ひどく冷や冷やしたものが、半島を南から北へと流れて来た。
今年は9月6日の夕方から、しだいに静岡あたりに台風が上陸して関東から北海道まで通り過ぎていったのでした。今日の8日は、暑い日差しがもどっております。さて、杉山平一に、「秋晴」と題した詩があります。それを引用してみましょう。
夏の日 綺麗な麦藁帽子(かんかん)をかむつて
詩よ きみはやつて来た 僕達は色々話をした
やがて別れる時が来た 忽ちきみは透明なエスカレエタアに乗つて
麦藁帽子を銀色にふり乍らゆるゆるゆるゆる青空にのぼつて行つた
この秋の日 僕もきみのエスカレエタアを踏みあてたような気がする
見上げる紺青の深みに 動きも見えぬ程たかくたかく飛行機が一台
ちひさな十字架のやうであつた ゆるゆる登つて行つてきみに逢へそうだ
僕の全身を支へてゐる血管の枝々は 一枚一枚葉を散らし乍ら
一斉に青空へもつれる梢となりつつあつた
杉山平一は、大正3年(1914年)に生れております。
24歳の昭和13年8月に召集。けれども、しばらくして帰されております(全詩集下・p760)。すこしそれますが、そこを引用してみます。
「豊橋18聯隊、軽機関銃隊に入隊、ビンタばかり喰っていたが、朝夕の挨拶、挙措、動作、復誦、編上靴の紐の通し方、裁縫、洗濯から練炭の火のつけ方まで、身に沁みて教えられた。名もなき庶民が下士官となって、てきぱきと判断指揮をとる動きに感心した。そして農民兵の素朴、純真に比して、学徒兵インテリのずるさをも知った。秋季大演習のあと、足に関節炎の痛みが出て、中隊当番に廻され、暮れに召集解除となった。帰宅へレールを滑る列車に身をまかせた幸福は、一生にいくつもない喜びだった。」
そのあと、カンカン帽をかぶった竹中郁氏と会ったりして。年譜によりますと昭和18年1月に、詩集「夜学生」出版。3月17日に出版記念会。「この日にはじめて伊東静雄に接した」。4月には菱山修三氏が「新潮」誌上に詩集の評を載せたとあります「三頁にわたり称揚、感激、『これらの作品の前では世の多くの誇張した国民詩愛国詩も色褪せてしまうだろう』とまでいわれて恐縮してしまった。」と年譜にあります。
この詩集で有名な詩は「夜学生」、「旗」とかがアンソロジーに引用されているのを読んだことがあります。ここでは詩「孤独」を引用します。
万国の旗はまばゆくひらめいてゐた
楽隊ははなやかにながれてゐた
けれどもさびしいこの世の運動会であつた
もうみんなテエプを切つてゐるのに
びりの少年よ おまへは
いつぱいのかなしみに戦きながら
たつたひとりで走りつづけてゐた
さて。杉山平一著「戦後関西詩壇回想」に、その出版記念会での、伊東静雄の様子が書かれているのでした。
「伊東静雄は、きちんとした背広をきて現われ、初対面の私に、目つきするどく『あなたは、もっと小さい人かと思っていました』といった。なぜか、ドキッとした。なんとなくそれが批評である、と感じたからであろう。」
「・・伊東静雄が、ときめく藤沢恒夫に反論し口論になった。何か、古今集の歌人についてのことだったと思うが、どちらも、ゆずらず、見ている私は、胸が苦しくなった。そのとき、詩人や作家というのは凄いなぁ、というショックを受けた。・・・・詩人は本音をいうなぁ、というのが爾来、私の持つ印象だったが、その一番怖いのは伊東静雄だった。『へっぽこでも、小説は五年十年書き続けていると、うまくなるものですね。しかし詩は、十年、十五年書きつづけても、ダメなものはダメですね』と人の眼をのぞきこむようにしていわれると、ギクリとする。だから、ちょっとでもほめられると、嬉しくなる。私が散文詩風の『ミラボー橋』(1952)を送ったとき、もう入院しておられたが、見舞に行った友人にきくと大変いいといって下さったらしい。が、そのほめ方にドキッとした。二流の山のてっぺんにあがって、バンザイしていると。」(p175~178)
杉山平一はおもしろそうです。もうすこし丁寧に読んでみたいのですが、私の興味も、ここまでかなあ。最後にもう一つ詩を引用して終ります。
問い
手段がそのまま
目的であるのはうつくしい
アイスクリームの容れものの三角が
そのままたべるウエファースであり
運ぶ材木の幾十百本が
そのまま舟の筏であるように
「なんのために生きるのです」
そんな少女の問いかけに
「問いはそのまま答えであり」と
だれかの詩句を心に呟きつつ
だまって僕はほほえんでみせる
これは詩集「ぜぴゅろす」に入っております。
もうすこし、書き加えます。詩集「ミラボー橋」の中の「父」に、こんな箇所がありました。
「ある日、若い技師が一人で二台の工作機械を運転できるやう設計してきたのを、父が批評してゐた。機械技術者はいたづらに歯車を使はうとするし、電気技術者は無暗に電気装置を増やす、といひ、次のようなことを言つた。その言葉はあるべき私を決定したやうに思はれる。『単純は最善だ(シンプルイズベスト)。単純な機械が一番いい機械だ。単純であり得ればあり得るほど、機械は能率がよく確実でいい。複雑であることは機械として下の下である』
それはいま私の信条である。こけおどしの機械や建物が科学的なのではなく、誠実にして単純、平明にして簡素なるものこそ科学技術の道なのであつた。それはまた私の生き方であらねばならぬ。」(全詩集下p115)
杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)に、伊東静雄を語っている箇所があり、印象に残っておりました。ということで、編集工房ノアから出版されている「杉山平一全詩集」(上下巻)を覗いてみたというわけです。
そのまえに、井上靖の詩集「北国」(1958年)に「夏の終り」と題した詩がありました。それはこうはじまっておりました。
颱風がどこかで潰れたのだろう、風船のように。
とにかく、ひどく冷や冷やしたものが、半島を南から北へと流れて来た。
今年は9月6日の夕方から、しだいに静岡あたりに台風が上陸して関東から北海道まで通り過ぎていったのでした。今日の8日は、暑い日差しがもどっております。さて、杉山平一に、「秋晴」と題した詩があります。それを引用してみましょう。
夏の日 綺麗な麦藁帽子(かんかん)をかむつて
詩よ きみはやつて来た 僕達は色々話をした
やがて別れる時が来た 忽ちきみは透明なエスカレエタアに乗つて
麦藁帽子を銀色にふり乍らゆるゆるゆるゆる青空にのぼつて行つた
この秋の日 僕もきみのエスカレエタアを踏みあてたような気がする
見上げる紺青の深みに 動きも見えぬ程たかくたかく飛行機が一台
ちひさな十字架のやうであつた ゆるゆる登つて行つてきみに逢へそうだ
僕の全身を支へてゐる血管の枝々は 一枚一枚葉を散らし乍ら
一斉に青空へもつれる梢となりつつあつた
杉山平一は、大正3年(1914年)に生れております。
24歳の昭和13年8月に召集。けれども、しばらくして帰されております(全詩集下・p760)。すこしそれますが、そこを引用してみます。
「豊橋18聯隊、軽機関銃隊に入隊、ビンタばかり喰っていたが、朝夕の挨拶、挙措、動作、復誦、編上靴の紐の通し方、裁縫、洗濯から練炭の火のつけ方まで、身に沁みて教えられた。名もなき庶民が下士官となって、てきぱきと判断指揮をとる動きに感心した。そして農民兵の素朴、純真に比して、学徒兵インテリのずるさをも知った。秋季大演習のあと、足に関節炎の痛みが出て、中隊当番に廻され、暮れに召集解除となった。帰宅へレールを滑る列車に身をまかせた幸福は、一生にいくつもない喜びだった。」
そのあと、カンカン帽をかぶった竹中郁氏と会ったりして。年譜によりますと昭和18年1月に、詩集「夜学生」出版。3月17日に出版記念会。「この日にはじめて伊東静雄に接した」。4月には菱山修三氏が「新潮」誌上に詩集の評を載せたとあります「三頁にわたり称揚、感激、『これらの作品の前では世の多くの誇張した国民詩愛国詩も色褪せてしまうだろう』とまでいわれて恐縮してしまった。」と年譜にあります。
この詩集で有名な詩は「夜学生」、「旗」とかがアンソロジーに引用されているのを読んだことがあります。ここでは詩「孤独」を引用します。
万国の旗はまばゆくひらめいてゐた
楽隊ははなやかにながれてゐた
けれどもさびしいこの世の運動会であつた
もうみんなテエプを切つてゐるのに
びりの少年よ おまへは
いつぱいのかなしみに戦きながら
たつたひとりで走りつづけてゐた
さて。杉山平一著「戦後関西詩壇回想」に、その出版記念会での、伊東静雄の様子が書かれているのでした。
「伊東静雄は、きちんとした背広をきて現われ、初対面の私に、目つきするどく『あなたは、もっと小さい人かと思っていました』といった。なぜか、ドキッとした。なんとなくそれが批評である、と感じたからであろう。」
「・・伊東静雄が、ときめく藤沢恒夫に反論し口論になった。何か、古今集の歌人についてのことだったと思うが、どちらも、ゆずらず、見ている私は、胸が苦しくなった。そのとき、詩人や作家というのは凄いなぁ、というショックを受けた。・・・・詩人は本音をいうなぁ、というのが爾来、私の持つ印象だったが、その一番怖いのは伊東静雄だった。『へっぽこでも、小説は五年十年書き続けていると、うまくなるものですね。しかし詩は、十年、十五年書きつづけても、ダメなものはダメですね』と人の眼をのぞきこむようにしていわれると、ギクリとする。だから、ちょっとでもほめられると、嬉しくなる。私が散文詩風の『ミラボー橋』(1952)を送ったとき、もう入院しておられたが、見舞に行った友人にきくと大変いいといって下さったらしい。が、そのほめ方にドキッとした。二流の山のてっぺんにあがって、バンザイしていると。」(p175~178)
杉山平一はおもしろそうです。もうすこし丁寧に読んでみたいのですが、私の興味も、ここまでかなあ。最後にもう一つ詩を引用して終ります。
問い
手段がそのまま
目的であるのはうつくしい
アイスクリームの容れものの三角が
そのままたべるウエファースであり
運ぶ材木の幾十百本が
そのまま舟の筏であるように
「なんのために生きるのです」
そんな少女の問いかけに
「問いはそのまま答えであり」と
だれかの詩句を心に呟きつつ
だまって僕はほほえんでみせる
これは詩集「ぜぴゅろす」に入っております。
もうすこし、書き加えます。詩集「ミラボー橋」の中の「父」に、こんな箇所がありました。
「ある日、若い技師が一人で二台の工作機械を運転できるやう設計してきたのを、父が批評してゐた。機械技術者はいたづらに歯車を使はうとするし、電気技術者は無暗に電気装置を増やす、といひ、次のようなことを言つた。その言葉はあるべき私を決定したやうに思はれる。『単純は最善だ(シンプルイズベスト)。単純な機械が一番いい機械だ。単純であり得ればあり得るほど、機械は能率がよく確実でいい。複雑であることは機械として下の下である』
それはいま私の信条である。こけおどしの機械や建物が科学的なのではなく、誠実にして単純、平明にして簡素なるものこそ科学技術の道なのであつた。それはまた私の生き方であらねばならぬ。」(全詩集下p115)