梅棹忠夫について、加藤秀俊は書いておりました。
「梅棹さんは、しばしば、学問なるものは最高の『道楽』である、と説かれた。若いころ、わたしは、他の多くの若者とおなじく、学問というのは、高尚な『真理の探究』をその目的とするものである、と信じていた。しかし、そもそも『真理』なるものが、結局は相対的なものである以上、あんまり高尚な思想におつきあいしていたのでは損をする。あたらしいことを知って、なるほど、と知的興奮を経験する――それが学問のたのしみというものだということが、わたしにもだんだんとわかってきた。」(加藤秀俊著「わが師わが友」p85・ちなみに「梅棹忠夫語る」のp123にも引用されております)
うん。道楽といえば、黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)が思い浮かびます。最近読んだのが、村井弦斎著「酒道楽」(岩波文庫)。その「酒道楽」を読み始めて、これは人物設定がしっかりしていて、あとは会話でどんどん筋が進行する、私なんて脚本台本を読んでいるような印象を与えられるのでした。
そう思って、あらためて、「『食道楽』の人 村井弦斎」をひらくと、演劇への言及がある。たとえば、こんな箇所。
「この時期、弦斎の名前が再び演劇界に登場する。『歌舞伎座百年史』によれば、弦斎が井上竹次郎に『酒道楽』と『女道楽』の公演を申し込んできたという。・・・・しかし、『歌舞伎座百年史』も三宅周太郎の『演劇五十年史』も『前代未聞の不入り』『世人の反感を買ひ近来稀れな不入りに終わった』と、この興行の大失敗を伝えている。観客がお金を払って劇場に足を運ぶのは、日頃のうさや悩みを忘れるような娯楽を求めるためで、説教臭い『矯風演劇』などに足が向かないのは当然だろう。・・・『文芸倶楽部』1906年9月号によると、市川八百蔵、市村羽左衛門、尾上梅幸など名人と呼ばれる役者が舞台を投げてしまい、惨憺たるありさまになった。それを見た癇癪持ちの井上が『止めてしまえ!』と怒鳴ったため、20日間の予定が17日間で打ち切り。17日目の序幕の時の見物の総人数はわずか6人だったらしい。その結果、作者兼興行主の弦斎はかなりの損失を蒙ることになった。・・・・彼は変人だ、という風評が立ち始めるのはこの頃からではないだろうか。」(p253~254)
文庫で読んだ『酒道楽』は楽しいものでした。新聞の連載なら、私は楽しんで次の日の新聞を待ち望んだだろうなあ、と思うのでした。
うん。演劇と村井弦斎というテーマもある。
ちなみに、1901年『報知新聞』に弦斎の小説に関する社告が掲載されたとあります。
「それは、『百道楽』というシリーズで百の『道楽小説』を書き連ねて一大長編となす、という壮大な構想の予告だった。当時の弦斎のノートには、『釣道楽、酒道楽、猟銃道楽、読書道楽、大弓道楽、研究道楽、玉突道楽、媒酌道楽、囲碁道楽、小言道楽、将棋道楽、芝居道楽、着道楽、寄席道楽、持物道楽、義太夫道楽或いは音曲道楽、謡道楽、食物道楽或いは料理道楽、小鳥道楽、万年青道楽或いは盆栽道楽、自転車道楽、骨董道楽、書画道楽、古銭道楽、旅行道楽、写真道楽、猫道楽、犬道楽、小説道楽』の29種の道楽がメモされていた。・・・・」
そうじゃなくて、梅棹忠夫について語りたかったのに、それました。
「梅棹さんは、しばしば、学問なるものは最高の『道楽』である、と説かれた。若いころ、わたしは、他の多くの若者とおなじく、学問というのは、高尚な『真理の探究』をその目的とするものである、と信じていた。しかし、そもそも『真理』なるものが、結局は相対的なものである以上、あんまり高尚な思想におつきあいしていたのでは損をする。あたらしいことを知って、なるほど、と知的興奮を経験する――それが学問のたのしみというものだということが、わたしにもだんだんとわかってきた。」(加藤秀俊著「わが師わが友」p85・ちなみに「梅棹忠夫語る」のp123にも引用されております)
うん。道楽といえば、黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)が思い浮かびます。最近読んだのが、村井弦斎著「酒道楽」(岩波文庫)。その「酒道楽」を読み始めて、これは人物設定がしっかりしていて、あとは会話でどんどん筋が進行する、私なんて脚本台本を読んでいるような印象を与えられるのでした。
そう思って、あらためて、「『食道楽』の人 村井弦斎」をひらくと、演劇への言及がある。たとえば、こんな箇所。
「この時期、弦斎の名前が再び演劇界に登場する。『歌舞伎座百年史』によれば、弦斎が井上竹次郎に『酒道楽』と『女道楽』の公演を申し込んできたという。・・・・しかし、『歌舞伎座百年史』も三宅周太郎の『演劇五十年史』も『前代未聞の不入り』『世人の反感を買ひ近来稀れな不入りに終わった』と、この興行の大失敗を伝えている。観客がお金を払って劇場に足を運ぶのは、日頃のうさや悩みを忘れるような娯楽を求めるためで、説教臭い『矯風演劇』などに足が向かないのは当然だろう。・・・『文芸倶楽部』1906年9月号によると、市川八百蔵、市村羽左衛門、尾上梅幸など名人と呼ばれる役者が舞台を投げてしまい、惨憺たるありさまになった。それを見た癇癪持ちの井上が『止めてしまえ!』と怒鳴ったため、20日間の予定が17日間で打ち切り。17日目の序幕の時の見物の総人数はわずか6人だったらしい。その結果、作者兼興行主の弦斎はかなりの損失を蒙ることになった。・・・・彼は変人だ、という風評が立ち始めるのはこの頃からではないだろうか。」(p253~254)
文庫で読んだ『酒道楽』は楽しいものでした。新聞の連載なら、私は楽しんで次の日の新聞を待ち望んだだろうなあ、と思うのでした。
うん。演劇と村井弦斎というテーマもある。
ちなみに、1901年『報知新聞』に弦斎の小説に関する社告が掲載されたとあります。
「それは、『百道楽』というシリーズで百の『道楽小説』を書き連ねて一大長編となす、という壮大な構想の予告だった。当時の弦斎のノートには、『釣道楽、酒道楽、猟銃道楽、読書道楽、大弓道楽、研究道楽、玉突道楽、媒酌道楽、囲碁道楽、小言道楽、将棋道楽、芝居道楽、着道楽、寄席道楽、持物道楽、義太夫道楽或いは音曲道楽、謡道楽、食物道楽或いは料理道楽、小鳥道楽、万年青道楽或いは盆栽道楽、自転車道楽、骨董道楽、書画道楽、古銭道楽、旅行道楽、写真道楽、猫道楽、犬道楽、小説道楽』の29種の道楽がメモされていた。・・・・」
そうじゃなくて、梅棹忠夫について語りたかったのに、それました。