和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

親鸞新書三冊。

2010-10-16 | 古典
とぎれとぎれで、山折哲雄著「『教行信証』を読む」(岩波新書)を読みおえました。こんなの読んだことになるのかなあ。と思いながらも、とにかく目を通したといったところ。そのあとがきにあるように、これは山折哲雄氏の新書での「親鸞」3部作といったような本らしいのでした。
  「悪と往生」(中公新書)
  「親鸞をよむ」(岩波新書)
  「『教行信証』を読む」(岩波新書)

私は歎異抄も教行信証もひらいて見ない癖して、その解説書を読んでいることになります。
それに、「悪と往生」は、まだ読んでない(笑)。
これじゃ、まだ、スタートラインにも、付いてないなあ。
そういうふうに、沈黙を強いる内容なのかもしれませんが、
まあ、それはそれ、お気楽に、「『教行信証』を読む」を語ろうと思います。

あとがきは、
「思えば、長い道のりだった。親鸞の『教行信証』につき合ってから、もう半世紀が経つ。」とはじまっておりました。もうすこしつづきを引用。
「その間、この難解きわまる書物に立ちむかい、何度立ち往生したかしれない。そのたびに、心が萎えるような挫折をどれほどくり返してきたことか。」

本文中には、こんな箇所もありました。

「もう三十年も昔のことになるが、大学院のゼミのテキストにこの『教行信証』を選び、数人の学生諸君と二年間悪戦苦闘したことを思いおこす。結局は迷路に追いこんでいくだけの二年間だったが、『教行信証』という言葉がどのようなことを意味するのか皆目見当がつかなかったことだけはよく覚えている。・・・」(p46)


その『教行信証』という題について、読み解くことが、そのままにこの新書の道筋としてあるように、私は読みました。読み返す際は、今度は最後の章を、あらためて読んで行きたいと思います。

新書を二冊読んだので、つぎは未読の「悪と往生」へと触手をのばそうかと思う、読書の秋なのだ。そして、いよいよ歎異抄かなあ。教行信証は無理ムリ。そういえば、「親鸞を読む」にこんな箇所があったなあ。

「『和讃』は親鸞がその思想と信仰のエッセンスを当時の人びとの心にとどけようとした民衆詩だったといっていい。かれはその制作のため、最晩年の七十代から八十代を費やしていた。このような連続的な仕事のいわば棹尾を飾るものが『正像末浄土和讃』だったのだ。末法を生きる親鸞の覚悟を示す漢字片カナ混じり文の作品である。」(p34)

うん。岩波文庫の「親鸞和讃集」を身近に置いて、すぐにひらいて見れるようにしておこう。と思ったり。
コメント
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