和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

猛烈な伝統。

2010-10-15 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に

「私のつきあった人のおおかたはなくなった。」とはじまる
「対話をかわす場所」(p206~208)という題の文があります。
そこに「河合隼雄は亡くなったが、私はこれからもくりかえし会って、その話をききたい。・・・・日本の文化を・・他の文化とつきあい、まじりあう場所として保つ工夫が、彼には残っていた。」とあります。

河合隼雄氏は、けっこう新聞・雑誌に連載をなさっておりました。
私は、その連載のひとつを切り抜いてとってあります。
「おはなし おはなし」という朝日新聞での連載でした。
毎回違う絵が描かれていて、それが遠藤彰子さん(安井賞をあとで受賞)の絵でした。
絵と文を、どちらもステキです。
あとで、単行本になった際には、その絵がもう再録されることなく、
残念。というか、切り抜いておいてよかった。と思いました。


さて、その「おはなし おはなし」のひとつに「下宿の溶鉱炉」と題した文があります。そこに「当時の私は、ともかく食物に金を使うのはもったいないと、決めてかかっていた。食べることはできる限り節約し、古本屋めぐりをして、本を買うことに心をくだいていた。欲しい本を見つけてもすぐに買えず、金がたまるまでは、見に行ってはまだあるぞと確かめる。とうとう金がたまって行くと、既に売れていた、などということもあった。
こんなふうに熱心になると、本を買うことに大きな意義を見いだすことになって、買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ。・・・」

こういう「買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ」という箇所に、自分としては、心当たりがあるので、うんうん、と強くうなずいてしまうのでした(今もかわらないなあ)。

さてっと、そのあとに鶴見俊輔氏の名前が登場しております。

「食物よりも書物をという私の態度に、兄は少しあきれているようであったが、ある時、『人文には、お前よりもっと凄いのがいるらしい』と感嘆しつつ教えてくれた。当時の動物学教室の生態学の人たちは人文科学研究所と関係が深く、そこでの噂を聞いてきたらしい。兄によると、『鶴見俊輔というのは、ロクにものも食べずに本ばかり読んでいる。そのうち、やせて死ぬんじやないかと心配』なほどだとのこと。・・・二人とも勉強しない点についてはよく自覚していたので、食物よりも書物で生きている新進気鋭の学者、鶴見俊輔という名前が心にきざみこまれた。人生はわからぬもので、以後三十年ほどもたって、その鶴見俊輔さんにお会いする機会に恵まれることになった。・・・ともかく『やせて死にそう』ではなかった。・・・・」


うん。この箇所を思い出したのは、
加藤秀俊著「わが師わが友」を読んでいるときでした。
こんな箇所がありました。

「わたしが人文科学研究所の助手になったころ、鶴見俊輔さんは西洋部の助教授であった。その鶴見研究所は、助手の大部屋のむかいがわにあった。」

そこで、加藤秀俊氏は、食べ物にまで言及しておりました。
というか、鶴見さんは噂のまとだったのかもしれませんね。

「・・デスクはさらにふしぎだった。ひき出しはほとんどが空っぽで、そこには、チーズや胡瓜がほうりこまれていた。鶴見さんは、こういう簡便食を、必要におうじてかじりながら勉強し、夜が更ければ、そのまま床にころがって寝てしまうのであるらしかった。つまり、鶴見さんにとって研究室は簡易宿泊所をも兼ねていたようなのである。だいたい、人文というところは、研究室で夜明かし、といった猛烈な伝統があり、あかるいうちに帰宅する若い研究者などは、用務員のおじさんたちから、ダメです、もっと勉強しなさい、と叱られたりすることもあったらしい。
鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに東京工大に移られたから、いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。・・・・」(p79~80)


コメント (2)
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