「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に
梅棹】 新聞社でも「書かしてやる」って、そういう言い方があった。「何だ、書かしてやらないぞ」ってなことを言われたことがあった(笑) (p153)
ここが、ひっかかっておりました。
へ~。梅棹忠夫氏でも、新聞社から、そんなこと言われたことがあるんだ。
そういえば、と今日になってふらりと思い出すのは、
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文芸春秋)でした。
この本は、カバーのうしろに、山本夏彦氏が推薦の言葉を、さりげなく書いておりました。
せっかくですから、それを引用。
特派員、国を誤る
新聞の海外特派員は、いつも本社のデスクの顔色をうかがって原稿を書く。本社が米英撃つべしなら、撃つべしと書く。撃つな、と書けば没書になるのはまだしも左遷される。即ち特派員はむかし国を誤ったのである。いまだにそうである。中国は自分の気にいらぬ記事を書く特派員を追放する。追放されたくないばかりに、気にいる記事だけ書く。
ひとり本書の著者はその轍を踏むまいと、ひそかに決心したのだろう。特派員としてテルアビブ空港へかけつけた時も、自分の目で見て自分の耳で聞いて、自動小銃を乱射した赤軍青年の評判は、意外や悪くないと書いている。凡百のルポライターならそれぞれ一巻に余る内容を煮つめたこれら諸編は臨場感あふれたドキュメントである。 山本夏彦
この本のなかに、「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文があります。
たとえば、こんな箇所。
「あの小説を書いた前後のことは、竹山さん自身が『ビルマの竪琴ができるまで』の中に述べている。戦地からの気の毒な復員兵(その多くは彼の教え子だった)を毎日のように見て、『義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のために、できるだけ花も実もある姿として描きたい』というのが動機だった。『当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、『戦った人はたれもかれも一律に悪人である』といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした』・・・」(p316)
このあとに、本題のテーマを語られるのですが、原子力空母エンタープライズの佐世保入港問題での竹山道雄氏の意見を朝日新聞が掲載して、それに「声」欄で反対の意見が書かれ・・・・
最後の方にこうあります。
「だが、それ以後の『声』欄には竹山さんの文がない。私は、竹山さんが批判に負けるかイヤ気がさして反論を打ち切ったのだろうと思っていた。そうでないと知ったのは、昨年十一月に出た『主役としての近代』(講談社学術文庫)という竹山さんの本を読んでからである。『これに対して、私はその日のうちに投書した。返事はつねに問とおなじ長さに書いた』これを読んで、私は唖然となった。つまり、朝日新聞社がボツにしていたのである。竹山さんは『対話の継続を望む』に応え、こういう意味のことを書いて送ったという。・・・・・ところが、これがボツになった。論争は、竹山さんが・・対談を断わったという印象を残して終止符が打たれた。何というみごとな、朝日の演出だろう。竹山さんは『これはフェアではないが・・・投書欄は係の方寸によってどのようにでも選択される。それが覆面をして隠れ蓑(みの)をきて行われるのだからどうしようもない』と続けている。・・私は竹山さんに同感せざるを得ない。あの欄は、意図的に一つの風潮をつくろうとしていると私は思う。・・朝日は『ここに甦る朝日投書欄の三十年完結!』と称して、朝日文庫から六冊本で『声』のアンソロジーを出した。そして、その中から、この『ビルマの竪琴論争』は、みごとに消されているのである。」(p324~325)
この際なので、投書欄でのやりとりの箇所を一部引用しておきましょう。
「投書主、とくに竹山さんを批判する人に、職業を主婦や学生と書いている人の多いのは面白いが、荒正人という有名人も竹山批判派として参加した。荒氏は『ソ連は東欧を衛星圏にした』という竹山反論の一節を取り上げ、『一例をあげればチェコスロバキアでは国民の七○%以上が第二の家を所有し、各種の福祉施設も発達し・・・共産圏でも、生産が豊かになれば自由化は必至です』と批判しているが、なんぞ計らん、この六ヶ月後にはソ連軍の戦車がそのチェコになだれ込んだのである。何という浅薄な言論。何という竹山さんとの違い!・・・」(p323)
梅棹】 新聞社でも「書かしてやる」って、そういう言い方があった。「何だ、書かしてやらないぞ」ってなことを言われたことがあった(笑) (p153)
ここが、ひっかかっておりました。
へ~。梅棹忠夫氏でも、新聞社から、そんなこと言われたことがあるんだ。
そういえば、と今日になってふらりと思い出すのは、
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文芸春秋)でした。
この本は、カバーのうしろに、山本夏彦氏が推薦の言葉を、さりげなく書いておりました。
せっかくですから、それを引用。
特派員、国を誤る
新聞の海外特派員は、いつも本社のデスクの顔色をうかがって原稿を書く。本社が米英撃つべしなら、撃つべしと書く。撃つな、と書けば没書になるのはまだしも左遷される。即ち特派員はむかし国を誤ったのである。いまだにそうである。中国は自分の気にいらぬ記事を書く特派員を追放する。追放されたくないばかりに、気にいる記事だけ書く。
ひとり本書の著者はその轍を踏むまいと、ひそかに決心したのだろう。特派員としてテルアビブ空港へかけつけた時も、自分の目で見て自分の耳で聞いて、自動小銃を乱射した赤軍青年の評判は、意外や悪くないと書いている。凡百のルポライターならそれぞれ一巻に余る内容を煮つめたこれら諸編は臨場感あふれたドキュメントである。 山本夏彦
この本のなかに、「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文があります。
たとえば、こんな箇所。
「あの小説を書いた前後のことは、竹山さん自身が『ビルマの竪琴ができるまで』の中に述べている。戦地からの気の毒な復員兵(その多くは彼の教え子だった)を毎日のように見て、『義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のために、できるだけ花も実もある姿として描きたい』というのが動機だった。『当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、『戦った人はたれもかれも一律に悪人である』といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした』・・・」(p316)
このあとに、本題のテーマを語られるのですが、原子力空母エンタープライズの佐世保入港問題での竹山道雄氏の意見を朝日新聞が掲載して、それに「声」欄で反対の意見が書かれ・・・・
最後の方にこうあります。
「だが、それ以後の『声』欄には竹山さんの文がない。私は、竹山さんが批判に負けるかイヤ気がさして反論を打ち切ったのだろうと思っていた。そうでないと知ったのは、昨年十一月に出た『主役としての近代』(講談社学術文庫)という竹山さんの本を読んでからである。『これに対して、私はその日のうちに投書した。返事はつねに問とおなじ長さに書いた』これを読んで、私は唖然となった。つまり、朝日新聞社がボツにしていたのである。竹山さんは『対話の継続を望む』に応え、こういう意味のことを書いて送ったという。・・・・・ところが、これがボツになった。論争は、竹山さんが・・対談を断わったという印象を残して終止符が打たれた。何というみごとな、朝日の演出だろう。竹山さんは『これはフェアではないが・・・投書欄は係の方寸によってどのようにでも選択される。それが覆面をして隠れ蓑(みの)をきて行われるのだからどうしようもない』と続けている。・・私は竹山さんに同感せざるを得ない。あの欄は、意図的に一つの風潮をつくろうとしていると私は思う。・・朝日は『ここに甦る朝日投書欄の三十年完結!』と称して、朝日文庫から六冊本で『声』のアンソロジーを出した。そして、その中から、この『ビルマの竪琴論争』は、みごとに消されているのである。」(p324~325)
この際なので、投書欄でのやりとりの箇所を一部引用しておきましょう。
「投書主、とくに竹山さんを批判する人に、職業を主婦や学生と書いている人の多いのは面白いが、荒正人という有名人も竹山批判派として参加した。荒氏は『ソ連は東欧を衛星圏にした』という竹山反論の一節を取り上げ、『一例をあげればチェコスロバキアでは国民の七○%以上が第二の家を所有し、各種の福祉施設も発達し・・・共産圏でも、生産が豊かになれば自由化は必至です』と批判しているが、なんぞ計らん、この六ヶ月後にはソ連軍の戦車がそのチェコになだれ込んだのである。何という浅薄な言論。何という竹山さんとの違い!・・・」(p323)