和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

靴の空箱。

2010-10-22 | 他生の縁
2004年に出た本で鼎談「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)がありました。
鼎談は瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、鶴見俊輔の3名。はじまりに、こうあります。

「大正11年(1922年)生まれが三人揃うというのは珍しいでしょう。それもほとんど一月しか離れていないですからね。・・・」

その本の最後に、「それぞれの『あとがき』」とあり、3人が別々に書いてあり、瀬戸内さんの文に

「いつものことだが、鶴見さんは10センチもの高さに及ぶメモを用意され、信じられない正確な記憶力を駆使して縦横無尽に話される。・・・」とあります。


この箇所を思い出したのは、加藤秀俊著「わが師わが友」を読んでいた時でした。そこに、加藤秀俊氏がはじめて、鶴見研究室のドアをあけたときのことが書かれていたのでした。こうあります。


「あけたとき、わたしはびっくりした。というのは、鶴見さんの書棚には、靴の空箱がいくつもならべられており、その空箱にカードが乱雑につめこまれていたからである。本もいくらかはあったが、本の占めるスペースより、はるかに多いスペースを靴の箱が占領していたのだ。鶴見さんは、あの、おだやかな微笑を浮かべながら、どうです、いいでしょう、B6判のカードは、ちょうど靴の箱にぴったり入ります、値段はタダです、カード入れはこれにかぎります、とおっしゃった。なるほど・・・・・。それらのカードには、青鉛筆と赤鉛筆でなにかが書きこまれていた。鶴見さんの字は、じぶんだけがわかればよい、という、一種の略記号のようなもので、わたしには部分的にしか判読できなかったが、これらのカードが素材になって、鶴見さんの思索が展開してゆくらしいことはよくわかった。ついでにいっておくと、鶴見さんは、いつも紺のジャンパーを着ていて、胸のポケットには赤と青の色鉛筆が何本か無造作に突ききまれていた。どうやら、この人は、ふつうの万年筆や黒鉛筆は使わない人らしい、とわたしはおもった。ときどき本を借りると、そこにも赤と青でいろんな書きこみがあった。この書きこみにいたっては、いよいよ判読不明で、すべてがわたしにとっては謎であった。・・・・」

このあとに、鶴見さんのデスクのひき出しが紹介されているのでした。

つぎに紹介するのは、鶴見俊輔・多田道太郎対談「カードシステム事始」の最後の鶴見さんの言葉です。


「私たちが京大でやったのは、いまの共同研究のイメージとはぜんぜん違うわけ。つまりね、あのときのカードは機械のない時代の技術なんですよ。コピー機もないしテープレコーダーもないし、もちろんコンピュータやEメールもない。いわば、穴居時代の技術です。コンピュータのいまのレベル、インターネットのいまのレベルという、現在の地平だけで技術を考えてはだめなんです。穴居時代の技術は何かということを、いつでも視野に置いていかなきゃいけない。
それとね、私たちの共同研究には、コーヒー一杯で何時間も雑談できるような自由な感覚がありました。桑原さんも若い人たちと一緒にいて、一日中でも話している。アイデアが飛び交っていって、その場でアイデアが伸びてくるんだよ。ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。
梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。私は『おもしろい、おもしろい』って聞いているから、それだけが彼の報酬なんだよ。何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)雑談の中でアイデアが飛び交い、互いにやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。・・・・・」(「季刊 本とコンピュータ7 1999冬」)


ここに、「その場で、アイデアが伸びてくるんだよ」という言葉がある。
この「伸びてくる」というのは、どんな手ごたえなんでしょうね。


ちょうど、加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)をひらいていたら、
そこに、こんな箇所。

「『遠野物語』から一世紀。テープ・レコーダーはもとより、電子録音機まで自由につかえるのに、まだ『口話』の世界をそのまま学問のなかで市民権をもたせることはすすんでいないようなのである。『はなしことば』をそのまま『文字』に、というのは口でいうのはやさしいが、これは近代日本語の根本問題でありつづけているのだ。」(p152)

「柳田先生がなんべんも警告されたように、われわれの生きている社会は『文字本位』であって『はなしことば』をおろそかにしてきたのである。」(p158)
コメント
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