加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社・C・BOOKS)に
人文の助手に入ってのことが書かれておりました。
「人文では、その職階のいかんを問わず、研究発表の義務があり、わたしも、入所して三カ月ほどたったとき、みずからの研究について、なにかを発表しなければならないことになった。」(p86)
どんな発表をしたのか?
「いまでもはっきりおぼえているけれども、そのさいしょの発表にあたって、わたしはE・フロムの『自由からの逃走』を材料にして、「国民性」研究の動向をのべ、日本人もまた、フロムのいう『サド・マゾヒズム的傾向』をもっているのではないか、うんぬん、といったようなことをのべた。」
そのあとの先生方の質問の終りに今西錦司先生のコメントが印象深いのでした。
いったい、どんな指摘だったのか。
「そのとき、それまでずっと口をへの字にむすんでおられた今西先生が、おまえはものごとの順序を逆転している、とおっしゃった。フロムはフロムでよろしい。サド・マゾヒズムも結構だ。しかし、なにを根拠にそういうことを口走るのか。フロムは、どれだけの実証的事実をもっているのか、ましてや、日本人をそれに対比させるにあたって、おまえは、ひとつもその根拠になる事実をのべていないではないか、というのが今西先生からのコメントだったのである。・・・・・つづけて、おまえには、まず他人の学説にもとづく結論があり、その結論を飾り立てているだけである。ゆるぎなき具体的事実の把握から結論とおぼしきものを模索してゆくのが学問というものである。ばあいによっては、結論なんか、なくてもよろしい、これからは、事実だけを語れ――そういって、今西先生は、タバコに火をつけて、プイと横を向いてしまわれた。・・・・・わたしは、ただ首をうなだれるのみであった。そのわたしを、なかば慰め、なかば追い討ちをかけるように、藤岡喜愛さんが、まあ、そういうことでっしゃろな、ではこれで、と散会を宣してくれた。それでわたしは、その場を救われたのである。」
そのあとに、今西流学問のすさまじさが、語られております。
「この研究会の議論たるや、ものすごいのである。梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、・・・それぞれに頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、としかおもえないほど議論は白熱した。だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材に関しては、絶対的な信頼を置くというのである。一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいたものであることが多い。トインビーがこういっている、マルクスはこう書いている――そんなふうに、高名な学者や思想家の名前をひきあいに出せば、一般の日本人は感心する。しかし、そういう論法はこの研究会ではいっさい通用しなかった。トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんはカンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」
思い浮かべるのは、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)の最初の方に、和辻哲郎さんが登場する箇所でした。
小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。
こう小山修三氏が話を向けると、梅棹忠夫氏は語ります。
梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ、『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。
小山】 机上論とヨーロッパ教。
梅棹】 そうや。どうして『風土』などと言っておきながら、ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを言うのか。どうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、整然たるものだと思い込んでいる。ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。そんなことが、現地を見ているはずなのに、どうして見えないのか。
小山】 見せかけにだまされているのですか。
梅棹】 見せかけにだまされるのならまだいい。それとはちがうな。あれは思い込みや。わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに行くところであって、調査に行くところとちがう』と。それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところかとうことを説得した。『あんた、ヨーロッパのちょっと田舎のことがどれだけわかってるのか』と問い詰めると、何も知らない。『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』とちがうか、それがわからない。・・・・(p26~27)
もう一度、加藤秀俊氏の本にもどって、先ほどのつづきを引用。
「フィールド経験は最高に信頼された。たとえば、アフリカの某地方に特定の植物が栽培されている、というフィールドからの報告があれば、たとえ他のあらゆる書物にその植物についての記載がなくても、書物よりも体験知のほうが尊重された。どこかに行って、そこで直接に知った事実――それがこの研究会でいちばんだいじなことだったのである。そして、それらの事実を土台にして、さまざまな仮説がつぎつぎにつくられていった。書物を読んでも出てこないような珍説・奇説がとび出した。1960年代におこなわれた宗教の比較人類学的研究などは、わたしにはいまも忘れることのできない教訓をふくんでいる。」(p88~89)
ついでなので、いま読んでいる対談「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(梅棹忠夫編著・NHK出版)から
司馬】 ・・・・それにしても、梅棹さんは何年も前からマルキシズムは崩壊すると言っていたでしょう。あんなこと言ってた人はほかにいません。どうしてああいう予感があったのか、そのへんから話してください。
梅棹】 わたしがそれを言いだしたのは1978年だったと思います。東ヨーロッパを旅行したんですよ。ユーゴ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、チェコと歩いて、これはひょっとしたら、わたしの目の黒いうちに社会主義が全面的に崩壊するのを見ることができるかもしれんと言ったんです。なぜかというと、あのころで、東欧諸国は革命後30年以上たってるわけですね。ソ連は60年ぐらいたっていた。これがその成果かというぐらいひどいんですよ。いったい、社会主義になって何がよくなったんだ。何十年かかって、たったこれだけのことしか達成できなかったのか。これではだめだと・・・。
司馬】 同じころ日本社会党の代表も東独見学に行っていますが、人間というのはふしぎなものですな、おなじものをみて、このほうはすっかり東独びいきになって、日本は東独のようにやらないかんという新聞記事が出たのを覚えていますよ。
梅棹】 バカなことを。何も見えていない。
司馬】 ひとつに、招待されてる人と、それから一人の知識人が素足で歩いているのとの違いでしょう。・・・・・・
梅棹】 こっちは自分の金で行ってますからね(笑)。 (p41~42)
人文の助手に入ってのことが書かれておりました。
「人文では、その職階のいかんを問わず、研究発表の義務があり、わたしも、入所して三カ月ほどたったとき、みずからの研究について、なにかを発表しなければならないことになった。」(p86)
どんな発表をしたのか?
「いまでもはっきりおぼえているけれども、そのさいしょの発表にあたって、わたしはE・フロムの『自由からの逃走』を材料にして、「国民性」研究の動向をのべ、日本人もまた、フロムのいう『サド・マゾヒズム的傾向』をもっているのではないか、うんぬん、といったようなことをのべた。」
そのあとの先生方の質問の終りに今西錦司先生のコメントが印象深いのでした。
いったい、どんな指摘だったのか。
「そのとき、それまでずっと口をへの字にむすんでおられた今西先生が、おまえはものごとの順序を逆転している、とおっしゃった。フロムはフロムでよろしい。サド・マゾヒズムも結構だ。しかし、なにを根拠にそういうことを口走るのか。フロムは、どれだけの実証的事実をもっているのか、ましてや、日本人をそれに対比させるにあたって、おまえは、ひとつもその根拠になる事実をのべていないではないか、というのが今西先生からのコメントだったのである。・・・・・つづけて、おまえには、まず他人の学説にもとづく結論があり、その結論を飾り立てているだけである。ゆるぎなき具体的事実の把握から結論とおぼしきものを模索してゆくのが学問というものである。ばあいによっては、結論なんか、なくてもよろしい、これからは、事実だけを語れ――そういって、今西先生は、タバコに火をつけて、プイと横を向いてしまわれた。・・・・・わたしは、ただ首をうなだれるのみであった。そのわたしを、なかば慰め、なかば追い討ちをかけるように、藤岡喜愛さんが、まあ、そういうことでっしゃろな、ではこれで、と散会を宣してくれた。それでわたしは、その場を救われたのである。」
そのあとに、今西流学問のすさまじさが、語られております。
「この研究会の議論たるや、ものすごいのである。梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、・・・それぞれに頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、としかおもえないほど議論は白熱した。だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材に関しては、絶対的な信頼を置くというのである。一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいたものであることが多い。トインビーがこういっている、マルクスはこう書いている――そんなふうに、高名な学者や思想家の名前をひきあいに出せば、一般の日本人は感心する。しかし、そういう論法はこの研究会ではいっさい通用しなかった。トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんはカンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」
思い浮かべるのは、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)の最初の方に、和辻哲郎さんが登場する箇所でした。
小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。
こう小山修三氏が話を向けると、梅棹忠夫氏は語ります。
梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ、『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。
小山】 机上論とヨーロッパ教。
梅棹】 そうや。どうして『風土』などと言っておきながら、ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを言うのか。どうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、整然たるものだと思い込んでいる。ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。そんなことが、現地を見ているはずなのに、どうして見えないのか。
小山】 見せかけにだまされているのですか。
梅棹】 見せかけにだまされるのならまだいい。それとはちがうな。あれは思い込みや。わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに行くところであって、調査に行くところとちがう』と。それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところかとうことを説得した。『あんた、ヨーロッパのちょっと田舎のことがどれだけわかってるのか』と問い詰めると、何も知らない。『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』とちがうか、それがわからない。・・・・(p26~27)
もう一度、加藤秀俊氏の本にもどって、先ほどのつづきを引用。
「フィールド経験は最高に信頼された。たとえば、アフリカの某地方に特定の植物が栽培されている、というフィールドからの報告があれば、たとえ他のあらゆる書物にその植物についての記載がなくても、書物よりも体験知のほうが尊重された。どこかに行って、そこで直接に知った事実――それがこの研究会でいちばんだいじなことだったのである。そして、それらの事実を土台にして、さまざまな仮説がつぎつぎにつくられていった。書物を読んでも出てこないような珍説・奇説がとび出した。1960年代におこなわれた宗教の比較人類学的研究などは、わたしにはいまも忘れることのできない教訓をふくんでいる。」(p88~89)
ついでなので、いま読んでいる対談「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(梅棹忠夫編著・NHK出版)から
司馬】 ・・・・それにしても、梅棹さんは何年も前からマルキシズムは崩壊すると言っていたでしょう。あんなこと言ってた人はほかにいません。どうしてああいう予感があったのか、そのへんから話してください。
梅棹】 わたしがそれを言いだしたのは1978年だったと思います。東ヨーロッパを旅行したんですよ。ユーゴ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、チェコと歩いて、これはひょっとしたら、わたしの目の黒いうちに社会主義が全面的に崩壊するのを見ることができるかもしれんと言ったんです。なぜかというと、あのころで、東欧諸国は革命後30年以上たってるわけですね。ソ連は60年ぐらいたっていた。これがその成果かというぐらいひどいんですよ。いったい、社会主義になって何がよくなったんだ。何十年かかって、たったこれだけのことしか達成できなかったのか。これではだめだと・・・。
司馬】 同じころ日本社会党の代表も東独見学に行っていますが、人間というのはふしぎなものですな、おなじものをみて、このほうはすっかり東独びいきになって、日本は東独のようにやらないかんという新聞記事が出たのを覚えていますよ。
梅棹】 バカなことを。何も見えていない。
司馬】 ひとつに、招待されてる人と、それから一人の知識人が素足で歩いているのとの違いでしょう。・・・・・・
梅棹】 こっちは自分の金で行ってますからね(笑)。 (p41~42)