和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

白紙還元法。

2010-10-06 | 他生の縁
武良布枝著「ゲゲゲの女房」(実業之日本社)に、こんな箇所がありました。

「水木は、自分が子どものとき、眠たくてしょうがなかったという記憶が強かったせいか、子どもたちを『ムリに起こしてはいけない』というルールをつくっていました。眠たいときに、無理やり起こされるのが、子どものころ、本当に辛かったからだそうです。そのおかげで、うちの娘たちはふたりとも、小さいころは、くたくたとよく眠りました。
ただ、尚子が幼稚園に入ると、九時には幼稚園に連れて行かなくてはならなくなりました。ふだんはちゃんと起きる尚子がたまに寝すごしていたりすると、水木に見つからないように、私がそっと起こしました。万が一見つかってしまうと、滅多に怒らない水木が、これだけは譲れないという感じで『なんで、起こすんだ!』と大声を出してしまうからです。でも、そのルールは水木にだけ通用するもので、遅刻して幼稚園に行くというほうが、子どもにとてはかわいそうだと私は思いました。」(p158~159)


思い出してください。あの「鬼太郎の歌」

   ゲッゲッ、ゲゲゲのゲー
   朝は寝床で グーグーグー
   たのしいな たのしいな
   ・・・・・・・・


水木しげるを理解するには、まず、ここをクリアしなければ、水木ワールドへは入り込めないのかもしれませんですね。そのヒントを布枝さんが、語っていてくれたのでした。


なんで、こんな考えが浮かんだか(笑)。それは梅棹忠夫でした。
まずは、それを順をおって、たどってみたいのですが、
おつきあい願いますか?

「丁々発止」という鼎談が本になっておりました。
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の3人(かもがわ出版・1998年)
以前、鶴見俊輔・河合隼雄両氏への興味から読んだことがありました。
今回改めて、梅棹忠夫氏が、どう話しているのかという視点で、会話をたどってみました。興味深い本題は、ここではおいて置くことにして、私に気づいたことは、後半で、鶴見・河合両氏が、教育論に花を咲かせているところで、梅棹氏は黙って聞いているような感じを受けたのでした。その梅棹氏の立ち位置を語っている箇所
それは、鶴見氏が、ある女校長先生の泣きながらの挨拶を聞いて、鶴見氏なりの意見をひとしきり語ったあとでした。

梅棹】 日本の教育に、別のものが出てきていますかね。
鶴見】 うーん。難しい。
梅棹】 私は、日本の教育は動脈硬化になっていると思うんです。動脈硬化と言っていいのでしょうか。だいたい、こんなことを言うと申し訳ないけれど、私は教育には本当に興味がない(笑)。学校教育にはまったく興味がない。・・(p40)


最後の方にも、ちょっと出てきます。


梅棹】 自分の少年時代、学生時代を振り返って、ようつぶされなんだと思います。学校は休むし、遅刻はするし、先生のいうことは聞かないし、ずいぶん勝手な生徒だったと思う。
鶴見】それは関西だからでしょう(笑)。東京ならつぶされる。
梅棹】つぶされてるかもしれんね。ひどいめに遭ってたかもしれないかな。(p113)


「東京」といえば、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に
印象的な箇所。


小山】梅棹さんには常識がなかった(笑)。それは、そうですよね。丸山真男さんが京大に公演に来られたとき、途中で席立って出てしまって・・・・
梅棹】ああ。「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか」って。そのときも桑原(武夫)さん、「ああいうことやっちゃいかん。あれは、東京で偉いんやぞ」って(笑)実はあとでわたしは丸山真男と親しくなった。ものすごく陽気でいい人物だった。おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。あんなものは、理論的にただマルクスを日本に適用しただけのことで、何の独創性もない。(p183~184)


ここで、加藤秀俊氏の証言。
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社、C・BOOKS)に加藤氏がはじめて梅棹氏に会ったころのことが出てきます。

「大阪市大のころの梅棹さんについて、わたしはあまり多くのことを知らない。ただ、梅棹さんにとっては、学生相手の授業は、かならずしもたのしいものとはいえなかったようである。そのうえ、梅棹さんは、早起きのたちではない。深夜にいたって頭が冴え、昼間は眠っている、というのがそのリズムであったらしい。大阪まで通勤する京阪電車が、なぜ駅弁を売らないのであるか、といったような、きわめて無茶苦茶な梅棹見解もそのころきいた・・・・とにかく、梅棹さんは、論理構築の名人であった。その論理たるや、とりわけアルコールが入ると我田引水、牽強付会もいいところで、もうヤケクソとしかきこえないのだが、それにもかかわらず、説得力は強烈であって・・・せめてもの抵抗に、梅棹さんのおっしゃることは、自己合理化にすぎないのではないですか、といったら、梅棹さんはふしぎそうな顔をして、そらそうでっしゃろ、あらゆる理論は自己合理化や、マルクスかてそうやろ、理論ちゅうのは、そんなものや、と一蹴された。」(p83~84)


もうすこし加藤秀俊さんの紹介を引用しておきます。
鶴見俊輔氏が「わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。」とあります。
「それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』(1954年5月号)に梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。・・・」(p80~81)


え~とですね。「梅棹忠夫著作集第12巻」には、その「アマチュア思想家宣言」が掲載されております。そして、この第12巻の目次をみると、あれまあ、「遅刻論」というのが、ちゃんと掲載されておりました。5ページほどの文です。
そのはじまりの解説には、これが1968年の小学館「小五教育技術」の巻頭随筆として書かれたとありました。その文のはじまりは

「授業にしばしば遅刻してくる子がある。そういう遅刻常習者を、先生方はどういう風にあつかっておられるであろうか。じつは、わたし自身がそのような遅刻常習者であった。幼稚園から大学まで、わたしは遅刻しつづけてきた。いまでも会合などにはよく遅刻する。時間の関する約束だけは、厳密にまもることは、たいへんにが手なのである。」

さて、その論理の一部だけを引用するのは、ますますわからなくしてしまうおそれがあるのですが、ここはぜひ最後のほうを、ちょいと引用してみましょう。

「・・・・こうかんがえてくると、現代が遅刻ぎらいの時代であるということは、現代がひとつの病的時代であるということを意味する。現代人は一種の時間的潔癖症にかかり、あるいはまた、時間過敏症におちいっているのである。潔癖症といい、過敏症といい、いずれも、人生における、倒錯の一種であって、正常な状態ではない。現代という時代は、全体がそういう病患におかされた時代だということになる。
すると逆に、遅刻常習者は、現代においてその種の病患におかされていない健康な少数者ということになって、評価はまさに逆転することになるのだが、どうであろうか。
・・・・遅刻常習者というのは、じつは、そとからあたえられた時間よりも自分の内的時間のほうに忠実な人間というにすぎないことがおおい。そして、単純肉体労働ならしらず、知的労働あるいは創造的な仕事であるほど、外的時間の規制よりは、内的リズムにしたがうほうが生産性がたかいことがおおいのだ。・・・・」(p352~353)


何とも、勝手なことを語っているものです。ですが、ここで思い浮かぶのは、「梅棹忠夫語る」の「はじめに」の最初の箇所でした。

「梅棹さんは座談の名手だった。実にたくさんの対談や鼎談、共同討議が著されている。どんな話題であっても、するどく、興味深い発言をし、対談者が思わず引き込まれてしまう。とくに座の意見が散らばってしまったとき、最後にすっきりとまとめる力は、小松左京さんが『梅棹式白紙還元法』と驚いたほどだ。」(p3)

この『梅棹式白紙還元法』にも、遅刻が重要な鍵を握っている。
ということを、加藤秀俊氏が、なんとも遅刻の実際を証言しております。
ということで、ようやく最後の引用となります。

「参加者のすべては、まえにみたように一家言をもっており、めったに自説をゆずらなかったが、梅棹さんは、のちに小松左京さんが命名した『白紙還元法』の名人であった。つまり、はてしない議論がつづくなかで、梅棹さんは突如として、それまでの議論がぜんぶまちがいである、と論断し、すべてを白紙に戻して、梅棹見解で押しまくるのである。そのうえ、梅棹さんのこの『白紙還元法』はタイミングがよかった。通常、午後一時かころからはじまる研究会に、梅棹さんは、二時、三時と大幅に遅刻して出席なさる。夜型人間だから、いくら頑張っても、この時間でないと起きられないのだ。そして、研究会に出てきても、しばしば、コックリと居眠りをなさる。居眠りをなさりながらも、議論はきいている。だから始末がわるい。われわれがくたびれ果て、さあ、このへんでおわりにしようか、とおもいはじめる午後六時ごろ、梅棹さんは、にわかに目覚めて『白紙還元法』をなさるのである。通常の人間が眠くなる時間が梅棹さんの起床時間なのだから、研究会の時間帯からいって、勝敗はわかっている。われわれは、口惜しい思いをしながらも、梅棹説を承認せざるをえなくなる仕掛けになっていたらしいのであった。
この研究会についてひとつつけ加えておくべきことがある。それは、この研究会のメンバーの多くが、京大学士山岳会、および京大探検部の出身者であった、ということだ。・・・・・探検部とかかわっていた人たちがしばしば口にする『団結、岩より固く、人情、紙より薄し』というスローガンも、さいしょは唐突に感じたけれど、何年かつきあっているうちに、だんだん理解できるようになってきた。要するに、共同の作業は一糸乱れずにすすめてゆくが、『人情』というものではいっさいうごかされない、というのがその趣旨なのである。・・・・・そんなふうに、きっちりとケジメがついているからこそ、人間関係はかえってさわやかだった。研究会がおわると、それまで顔面蒼白になって論戦をつづけていた二人の人物が、肩をならべて酒を飲みに出かける、といった風景も日常的であった。学問上の自説は曲げない、だが、人間としてのつきあいは別だ――そのことを、わたしはこの研究会の人びとから教えられたのである。学問上の見解あるいはイデオロギーのちがいから、個人的な怨恨関係をもつようになった、という事例をわたしはいくつも知っている。いや、日本の学界では、そういうことのほうが多い。だが、この研究会のメンバーのわかちあう哲学は、そうではなかった。・・・・」(p89~91・加藤秀俊著「わが師わが友」)

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