秋ですね。自分のところの本整理を、このところ、しております。段ボール箱の本を、本棚に並べてみたり、あらためて、しまったり。というようなことをしてる。いざ、本を整理しだすと、そこは、未読本ばかり。おいおい、ただ買ってるだけじゃないか。と思ったりします。たとえば、全集を買う、私は読まない(笑)。買うまでは覚えているのですが。買えばホッとして、興味は他の本へと移っていたり。めぐりめぐって、寝かせてある未読本を手にする時は、宝くじにあたったようなラッキーな気持ちで読み始めます。そんな再会のための本整理なんだと心得て、本棚の入れ換えをする。そんな秋。
今朝は雨ですが、風もそんなになく静かです。台風14号が午後から関東へ来るようです。台風といえば、西脇順三郎の「秋」という詩がありました。
Ⅱ
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ
もう秋は来ていますよ。と笑われてしまいそうですね。
それじゃ、もうすこし先の、雪についての詩。
井上靖の詩「雪」
――雪が降つて来た。
――鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
十何年も昔のこと、「キリン」という童詩雑誌
でみつけた詩だ。雪が降って来ると、私はいつ
もこの詩のことを思い出す。ああ、いま、小学
校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の
字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはち
ょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。勤勉、真摯、
調和、そんなものともどこかで関係を持っている。
いまごろ、どこかの古本屋で105円の文庫を見つけてニヤリとしている人がいるかもしれないなあ。古本関連のブログを読んでいると、そんなことを思う昨今です。さてっと、山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)に、こんな箇所がありました。
「読書名人で知られた、篠田一士さんは、その著書『読書三昧』で『原則として、本屋へは入らないことにしている』と書いておられる。大胆発言に驚きながら読み進むと、読まなくてはならない本があまりに多く、本屋に入るとさらにまた読みたい本が増えるから、というわけだった。」(p14)
う~ん。そういえば以前に古本屋で買った篠田一士著「読書三昧」があったはずだと、思っておりましたが、それが、出てきました。それじゃあ、山本善行さんの引用箇所を、丁寧に、ひらいてみました。それがはじまりの箇所なのでした。
「原則として、本屋へは入らないことにしている。事実、散歩の途中とか、どこかへ出向いた折、ちょっと時間の余裕があり、目のまえに、新刊屋なり、古本屋があっても、入る気にはならない。・・・・
昔は、一日でも早く目指す本を見たい、手にとりたいという思いで、あの本屋、この本屋と駆け回ったものだが、いまは、そんな余裕、つまり、気力も体力もない。手近なところに、うずたかく積まれた未読の本をこなすのに精いっぱいなのである。わざわざ本屋へゆかないことにしているのは、そこで、また、新しい本を見付け、読みたいものが、否応なくふえてゆくのを防ぐのが、なによりの理由で、ともかく、読まなくてはならない本が、身のまわりに、あまりにも多すぎるのである。
ずいぶん消極的な話じゃないかといわれれば、まさにその通りだが、新しい本を知ることを怠っているわけではない。手元にくる新聞、雑誌の書評欄、それに三つの書評紙に一通り目を通し、さらに、広告記事を見れば、読みたい本、注文したい本は、毎日のようにとはいわないが、月に、結局、二十冊や三十冊にはなるはずで、それをこなしてゆくのは、少なくともぼくには、並大抵のことではない。つまり、気力、体力もそうだが、金力の点でも、本代には、たえず苦労する。・・・・」
う~ん。「金力」のことを考えると。
気力・体力・ブックオフ。
なんて言葉が浮んできたりします。
こう他人行儀なことを、いえるのも、
古本屋めぐりなど、夢のような世界だと観念しているからで。
秋の古本まつりなんて、そんなの、いったい全体どこの世界のことなの?
という地方に住んでいるからなのかもしれません。
そうそう。わが地区では、図書室併設の公民館が、取り壊しとなり、図書室が支所へと縮小してはいることになったのです。それが今年。そこで、入りきらない在庫をタダで持っていってくださいということになり、だいぶあとになって、用事ででかけたときに、単行本の「大菩薩峠」全巻無料にて入手。でも、これいつ読むのだ?
と、こうしてブログに打ち込んでいるうちに、だんだんと雨脚が強くなってきております。
今朝は雨ですが、風もそんなになく静かです。台風14号が午後から関東へ来るようです。台風といえば、西脇順三郎の「秋」という詩がありました。
Ⅱ
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ
もう秋は来ていますよ。と笑われてしまいそうですね。
それじゃ、もうすこし先の、雪についての詩。
井上靖の詩「雪」
――雪が降つて来た。
――鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
十何年も昔のこと、「キリン」という童詩雑誌
でみつけた詩だ。雪が降って来ると、私はいつ
もこの詩のことを思い出す。ああ、いま、小学
校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の
字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはち
ょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。勤勉、真摯、
調和、そんなものともどこかで関係を持っている。
いまごろ、どこかの古本屋で105円の文庫を見つけてニヤリとしている人がいるかもしれないなあ。古本関連のブログを読んでいると、そんなことを思う昨今です。さてっと、山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)に、こんな箇所がありました。
「読書名人で知られた、篠田一士さんは、その著書『読書三昧』で『原則として、本屋へは入らないことにしている』と書いておられる。大胆発言に驚きながら読み進むと、読まなくてはならない本があまりに多く、本屋に入るとさらにまた読みたい本が増えるから、というわけだった。」(p14)
う~ん。そういえば以前に古本屋で買った篠田一士著「読書三昧」があったはずだと、思っておりましたが、それが、出てきました。それじゃあ、山本善行さんの引用箇所を、丁寧に、ひらいてみました。それがはじまりの箇所なのでした。
「原則として、本屋へは入らないことにしている。事実、散歩の途中とか、どこかへ出向いた折、ちょっと時間の余裕があり、目のまえに、新刊屋なり、古本屋があっても、入る気にはならない。・・・・
昔は、一日でも早く目指す本を見たい、手にとりたいという思いで、あの本屋、この本屋と駆け回ったものだが、いまは、そんな余裕、つまり、気力も体力もない。手近なところに、うずたかく積まれた未読の本をこなすのに精いっぱいなのである。わざわざ本屋へゆかないことにしているのは、そこで、また、新しい本を見付け、読みたいものが、否応なくふえてゆくのを防ぐのが、なによりの理由で、ともかく、読まなくてはならない本が、身のまわりに、あまりにも多すぎるのである。
ずいぶん消極的な話じゃないかといわれれば、まさにその通りだが、新しい本を知ることを怠っているわけではない。手元にくる新聞、雑誌の書評欄、それに三つの書評紙に一通り目を通し、さらに、広告記事を見れば、読みたい本、注文したい本は、毎日のようにとはいわないが、月に、結局、二十冊や三十冊にはなるはずで、それをこなしてゆくのは、少なくともぼくには、並大抵のことではない。つまり、気力、体力もそうだが、金力の点でも、本代には、たえず苦労する。・・・・」
う~ん。「金力」のことを考えると。
気力・体力・ブックオフ。
なんて言葉が浮んできたりします。
こう他人行儀なことを、いえるのも、
古本屋めぐりなど、夢のような世界だと観念しているからで。
秋の古本まつりなんて、そんなの、いったい全体どこの世界のことなの?
という地方に住んでいるからなのかもしれません。
そうそう。わが地区では、図書室併設の公民館が、取り壊しとなり、図書室が支所へと縮小してはいることになったのです。それが今年。そこで、入りきらない在庫をタダで持っていってくださいということになり、だいぶあとになって、用事ででかけたときに、単行本の「大菩薩峠」全巻無料にて入手。でも、これいつ読むのだ?
と、こうしてブログに打ち込んでいるうちに、だんだんと雨脚が強くなってきております。