山折哲雄氏は、
「私の場合は岩手県の浄土真宗本願寺派の末寺に生まれたので、自然に親鸞と出会うことになった。子どもの頃から親鸞、親鸞で、それはもう耳にたこができるというぐらいの環境で育ちました。」と語っております。
そういえば、司馬遼太郎は、どうだったのか。
たしか司馬さんの家の宗派は、浄土真宗だったと思います。
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」に、「学生時代の私の読書」という文が掲載されております。そこに、こんな箇所
「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきがつたわってきます。それに、自分の日本語の文章力をきたえる上でも、じつによい方法です。『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がします。」
さて、最近司馬遼太郎・林屋辰三郎対談「歴史の夜話(左が口、右が出)」に、こんな箇所があるのでした。
司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、いまでも持っているというのは、われわれの一つの幸福ですね。非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で語られたということは坂東人の偉業だったと思いますね。
『歎異抄』というのは、いかにもまた東国のフロンティアのにおいがありますね。親鸞が東国へ流されますが、どれだけ布教熱心だったのかよくわかりませんが、とにかく周りの人を教化しました。京都へ帰りましたら、また坂東に異安心(いあんじん)の雑想が芽生えてくるわけです。南無阿弥陀仏は呪文なのかとか、あるいは南無阿弥陀仏を唱えたら、ほんとうに極楽へ行けるのかとか、疑問になってくる。それで東国から代表者たちが押しかけてきて、京都で親鸞と一問一答するわけでしょう。これは当時の農民の民度からいえば非常に高級なことです。それを親鸞がまともに受けて答えているからいいんですね。
それをまとめたのが『歎異抄』で、唯円坊というのが質問の筆頭人で、後に文章にした人だと思うのですが、これが京都の人なら、同時代の京都の人が疑問を持っても、『ああ、わかりました、わかりました』で、帰っていくと思うのです。いいかげんにする文化が西にはあるんです。あんまり本質をほじくり出すのはえげつないという、それは差しさわりがあるなどと。
これは人口の多い所には必ずある現象ですが、坂東は人口の少ない所ですから、人と人とがほんとうに向き合って接触するときには、対決の形をとる。問答というか対話というか、ギリシャみたいな話になりますけれど、対話という形をとらなければならない。それは武家の親類どうしで土地争いをする場合には訴訟ということになりますが、その訴訟は平安末期から鎌倉幕府成立前後の風土です。だから自分の主張を言葉で表現する。そしてあくまで通すというのが、坂東の精神だったわけです。フロンティアの精神ということでかさねあわせると、そういうことになる。
そういう土のにおいのする中から日蓮が出たり唯円坊が出て、たとえば『歎異抄』という文章日本語の名作を起こしたりしたわけで、かんじんの関西の本願寺さんは、『歎異抄』を明治まで隠していたんですね。『これを見せたらいかん。こんなに明快なものを見せると、門徒衆はありがたらんようになる』と。そのぐらい、『歎異抄』は大げさに言えば人文科学的なものです。そういう精神は、鎌倉幕府の成立前後は坂東にみなぎっていたんだろうと思います。
つい、引用が長くなりました。
一読、印象が鮮明で、忘れられない言葉と出合った気がしました。