1958年 西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)
1963年 加藤秀俊著「整理学 忙しさからの解放」(中公新書)
1969年 梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)
1975年 加藤秀俊著「独学のすすめ」(文芸春秋)
「南極越冬記」の本の作成に梅棹忠夫氏がかかわったとわかってみると、
次にどうしても、「知的生産の技術」を思い浮かべてしまいます。
その「知的生産の技術」に「『遺産』の山」という箇所がありました。
「わたしは子どものころから、ものもちのいいほうで、いろいろなものを保存するくせがあった。・・・・ただし、いっさい整理ということをしらないから、なんでもかでも、箱のなかに乱雑につめこんでいただけである。わたしはいまでも、すくなくとも高等学校時代からの、このような『遺産』の山を、なすすべもなくかかえこんでいる。
学生時代はためこむだけでよかった。いよいよ自分の仕事がはじまってみると、これではどうしようもなかった。まえにきた手紙が、必要なときにでてこなかったり、会の印刷物が、みようとおもうときにゆくえ不明だったりして、たいへんにこまった。どういう整理法をとればいいのか、そんなことをおしえてくれる人もなかった。わたしは、自分自身の文書を整理するために、いろいろなことをやってみた。なんべんも失敗したが、そのたびに、すこしずつかしこくなった。・・・・いまでは、加藤秀俊君の『整理学』というような本があって、現代社会における整理の問題を要領よくおしえてくれる。」(p79~80)
『整理学』の著者加藤秀俊氏は、
朝日選書「ベストセラー物語 下」で
「知的生産の技術」をとりあげて書いております。
そのはじめの方にこうあったのでした。
「・・・この本の奥付をみると、初版、1969年7月21日、とある。1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。いわゆる『学園紛争』である。わずかの例外をのぞいて、日本の大学では全共闘が結成され・・・かんがえてみると、全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、まったくおなじ教育への批判をこころみていた、というふうにもみえる。もちろん、全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、不定形な感情の発散をくりかえすことになり、あまり生産的な貢献をすることができなかった。それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥をこの本をつうじて指摘している。その点では、両者のあいだには大きなちがいがある。・・・・この本に書かれていることの大部分は、大学の一年生のときに、ひと月ほどでやっておくことのできることである。その、あたりまえの基礎ができていないから、やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。・・・」
ちなみに、ちくま文庫に、加藤秀俊著「独学のすすめ」が2009年再度文庫化されてはいった際に(以前は文春文庫)、文庫の解説を竹内洋氏が書いておりました。その最後の方にこうあります。
「著者(加藤秀俊)はわたしが京都大学大学院教育学研究科の院生だった1969年に同学部助教授として赴任してこられた。・・・」(p260)
そして加藤秀俊著「わが師わが友」には
「1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳、伊東光晴など、何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは四〇歳になっていた。・・」(p110)
1963年 加藤秀俊著「整理学 忙しさからの解放」(中公新書)
1969年 梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)
1975年 加藤秀俊著「独学のすすめ」(文芸春秋)
「南極越冬記」の本の作成に梅棹忠夫氏がかかわったとわかってみると、
次にどうしても、「知的生産の技術」を思い浮かべてしまいます。
その「知的生産の技術」に「『遺産』の山」という箇所がありました。
「わたしは子どものころから、ものもちのいいほうで、いろいろなものを保存するくせがあった。・・・・ただし、いっさい整理ということをしらないから、なんでもかでも、箱のなかに乱雑につめこんでいただけである。わたしはいまでも、すくなくとも高等学校時代からの、このような『遺産』の山を、なすすべもなくかかえこんでいる。
学生時代はためこむだけでよかった。いよいよ自分の仕事がはじまってみると、これではどうしようもなかった。まえにきた手紙が、必要なときにでてこなかったり、会の印刷物が、みようとおもうときにゆくえ不明だったりして、たいへんにこまった。どういう整理法をとればいいのか、そんなことをおしえてくれる人もなかった。わたしは、自分自身の文書を整理するために、いろいろなことをやってみた。なんべんも失敗したが、そのたびに、すこしずつかしこくなった。・・・・いまでは、加藤秀俊君の『整理学』というような本があって、現代社会における整理の問題を要領よくおしえてくれる。」(p79~80)
『整理学』の著者加藤秀俊氏は、
朝日選書「ベストセラー物語 下」で
「知的生産の技術」をとりあげて書いております。
そのはじめの方にこうあったのでした。
「・・・この本の奥付をみると、初版、1969年7月21日、とある。1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。いわゆる『学園紛争』である。わずかの例外をのぞいて、日本の大学では全共闘が結成され・・・かんがえてみると、全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、まったくおなじ教育への批判をこころみていた、というふうにもみえる。もちろん、全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、不定形な感情の発散をくりかえすことになり、あまり生産的な貢献をすることができなかった。それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥をこの本をつうじて指摘している。その点では、両者のあいだには大きなちがいがある。・・・・この本に書かれていることの大部分は、大学の一年生のときに、ひと月ほどでやっておくことのできることである。その、あたりまえの基礎ができていないから、やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。・・・」
ちなみに、ちくま文庫に、加藤秀俊著「独学のすすめ」が2009年再度文庫化されてはいった際に(以前は文春文庫)、文庫の解説を竹内洋氏が書いておりました。その最後の方にこうあります。
「著者(加藤秀俊)はわたしが京都大学大学院教育学研究科の院生だった1969年に同学部助教授として赴任してこられた。・・・」(p260)
そして加藤秀俊著「わが師わが友」には
「1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳、伊東光晴など、何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは四〇歳になっていた。・・」(p110)