和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

炭ガラ冥利。

2012-02-11 | 地震
年譜をわきに、方丈記を読むと、
書かれなかったことが、あれこれと思い浮かぶわけです。
たとえば、鴨長明31歳の文治元年3月24日に、
平家、壇ノ浦に敗れて滅亡するのですが、
同年7月9日の京都とその周辺の大地震しか
方丈記では触れられていない。

これについて、三木紀人著「鴨長明」(講談社学術文庫)をひらくと、
こんな記述にぶつかります。

「打ちつづいた『兵革』(戦争)の恐怖がなまなましかったためである。当時、平氏滅亡後の戦後処理が進みつつあり、何かが行われるたびに、人々は戦争の印象をあらたにしていたはずである。特に強烈なのは死刑の執行の風聞であったと思われるが、平宗盛。清宗父子が斬首されたのは6月21日、父子の首が獄門にさらされた23日には、重衡(しげひら)が奈良で斬られた。大地震は、それらの噂が取沙汰される中におこったのである。自然の人情として、人々はあまりに異常な地震を平氏滅亡と関連づけて理解しようとした。・・・・しかし、『方丈記』の記事に源平の争乱はふれられておらず、これもその方針による省筆であろう。」(p144~146)

さてっと、前置きがながくなりました。
竹内政明著「読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第21集」が発売。2011年7月~12月までの一面コラムをまとめて読めるありがたさ。新聞一面コラムですから、短かく、ワクワクしながら読了。
まず、引用するなら、私はこのコラムかなあ。
『炭ガラ』と題されていました。

はじまりは、
「敬愛する同業の先輩に、石井英夫さんがいる。産経新聞の名物コラム『産経抄』を35年間にわたって書き続けた方である。数年前に会社を退き、いまは『家事手伝い』という肩書きを印刷した不思議な名刺を携えて、雑誌などに健筆をふるっておられる。」

うん。短いので全文を引用しましょう。

「いつだったか、初任地の札幌で過した新人記者当時の昔ばなしをうかがった。雪の夜、地元紙の先輩記者に連れられて、石井青年が屋台でコップ酒を酌み交わしたときの思い出である。『石井君、新聞記者っていうのは炭ガラみたいなものだ』先輩記者は、そう言ったという。炭ガラとは石炭の燃えカスである。『ストーブの炭ガラと同じように、新聞は次の日になれば捨てられてしまうけど、一昼夜、人々の心を暖めたんだ。暖めた、そういう記事を書いたと思えば満足じゃないか。炭ガラ冥利に尽きるじゃないか』と。
『新聞週間』を迎えて、各紙で震災報道の検証が始まっている。おもちゃのように小さなストーブにすぎない小欄だが、被災者を暖めることのできた日がたとえ一昼夜でも、はたしてあったかどうか・・・。わが“炭ガラ”たちに問うてみる。」(10月15日)

方丈記は、京都周辺の地震があった、その四半世紀後に、書かれたわけですが、
新聞コラム。とくに編集手帳は同じ方が毎日書かれている。
政治にも触れないわけにはいかないのでした。
そこに、どのようにユーモアを盛ってゆくか。

ということで、「編集手帳」第21巻から、すこしだけ、引用しておきます。

「女性ふたりの会話より。
『私、30歳になるまで結婚しないわ』
『私、結婚するまで30歳にならないわ』
馬場実さんの『大人のジョーク』(文春新書)から引いた。
笑えない改定番をひとつ。
『私、震災対応に一定のメドがつくまで、首相を辞めないわ』
『私、首相を辞めるまで、震災対応に一定のメドをつけないわ』
菅首相を見ていると・・・」

これは7月14日の「笑えぬジョーク」のはじまりの箇所。
『炭ガラ』をもうひとつ。9月16日「棚が泣く」のはじまり。

「長屋の壁にきのう吊った棚が、ない。亭主が女房に聞く。
『わいが吊った棚あれへんな』
『徳用のマッチ箱載せたら落ちたやないか』
『せやさかい言うてるやろ。わいが吊った棚へは物載せな、ちゅうて』
上方落語『宿替え』である。
野田首相も内閣という名の棚を吊った。与野党の対話を載せましょう。白熱した論戦を載せましょう・・・当然そうなるものと思っていると、どうも違う。私の吊った棚には、まだ物を載せてくれるな、ということらしい。」
コメント
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