2012年「諸君!」2月臨時増刊号。
はじまりに「紳士と淑女」があります。
これを読むために、私は買いました。
ちなみに、文春新書の新刊に
徳岡孝夫・中野翠著「泣ける話、笑える話」が出ています。
こちらも、購入。
まずは、発売順に、文春新書から
その帯は
「これぞ本物。プロの芸をとくとご覧あれ・・・・
駄文の氾濫にうんざりしている貴方に極上の一冊をご用意しました。
すべて書き下ろし40本」
とあります。
新書では2人が交互に書いている文の、私は徳岡孝夫氏の方だけ読みました。
徳岡氏の文を読めるよろこび。
でも、新書の帯の紹介は、ちと、いただけないなあ。
徳岡氏とは、どのような方なのか。
ということなら、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社・1991年)の
この箇所など、単刀直入で人となりをあらわせております。
「このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
世間には随筆を書いて知られる人がいる。評論、小説を書いて暮らしている人もいる。だが私は、随筆を書いて生計を立てるほど文章の上手ではない。そもそも味で読ませる文章など、ジャーナリストにとっては邪道であり、私はそういうものを書くような訓練を受けていない。では評論は? 私には教養が足りない。しっかりした歴史観や社会学的座標軸を持っていなければ、ひとかどの評論の出来るわけがないが、私はこれまで、そんなものを確立する意図も時間の余裕もなかった。」(p46)
こういう明快さが、たとえば三島由紀夫などを惹きよせた磁力となっているのだろうと思うのでした。
「諸君!」の最終号で、巻頭随筆「紳士と淑女」の著者は徳岡孝夫というものであったと、自己紹介をして終わっていたのに、余得のようにして再度読めるよろこび。
緊急復活!「『紳士と淑女』再び」とある臨時増刊号「諸君!」の、
その巻頭コラムを、おもむろに読むわけです。
「民を最も虐げた苛烈きわまる体制の主が、民から泣いて惜しまれる。何という政治的逆説だろう。」とコラムは始まり1ページ3段で7頁。
最初の頁の最後に源実朝への言及がありました。
そこを引用。
「他国の人はいざ知らず日本人は、若くして将軍になった三代目と聞けば、源実朝(1192~1219)を思う。頼朝の子に生まれ、兄頼家が廃されたため、実朝は金家(注:北朝鮮のこと)の三代目より(おそらく少し)早く鎌倉幕府の第三代将軍になった。政治家よりは歌人、鎌倉よりは京都の文化が好きだった。鶴岡八幡宮参詣の帰途、社前の大銀杏の蔭に潜んでいた頼家の遺児公暁(くぎょう)に襲われ若死にした。
将軍ではあったが政治の実権は早くから北条氏の手に握られていた。北朝鮮という全体主義も、内部では実権の遣り取りでインインメツメツの争闘なのだろう。金正恩大将も大銀杏の前を通るときは、気を付けた方がいい。」
ここで、源実朝(さねとも)を登場させるのが、
何とも「紳士と淑女」の真骨頂だと、読み手はうなずくのでした。
さて、徳岡孝夫氏の数冊をペラペラとめくって気づいた箇所がありました。
それをご報告。
2007年「諸君!」10月号の特集に
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」
脇には「読み巧者108人の『オールタイム・ベスト3』」
という企画が掲載されていました。
そこに、お一人だけ、方丈記を取り上げている人がいる。
うん。それが徳岡孝夫氏なのでした。
徳岡氏は3冊の最初に方丈記をもってきておりました。
貴重なので、ここも引用。
「ここに挙げるのは、長年にわたり教えを受けてきた、本の形をした『我が師』である。
鴨長明『方丈記』。西洋でも『橋の下を×年間、川は流れた』という言い方をする。現在進行形である。『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』という認識とは全く異なる。無常が今のことである。長明を世捨て人のように言うのは間違い。彼は公卿(くげ)支配の最期を見て、保元・平治の乱を潜った。福原遷都という、以後七百年続く武家幕府の始まりを見た。大戦争と敗戦と高度成長を体験した現代人とよく似た、変革期の人である。」
さてっと、鴨長明と源実朝について。
ということで、新潮日本古典集成「方丈記 発心集」の最後に載っている「長明年譜」から。
建暦元年(1211)鴨長明57歳
十月、長明、飛鳥井雅経とともに鎌倉に赴き、源実朝に数次にわたり対面。13日、法花堂で頼朝を追悼、懐旧の歌一首を詠む。
建暦二年(1212)鴨長明58歳
1月25日、法然没す(80歳)。三月下旬、『方丈記』成る。
建保4年(1216)鴨長明62歳
閏6月8日(9日・10日説もある)長明没す。
1219年2月13日源実朝没す。享年28(満26歳没)。
じつに、方丈記は、鎌倉にいって源実朝と会った、
その次の年に書き上げられて完成したというのでした。
ここらで、また、臨時増刊号のコラムへともどりましょう。
コラムの最後を、引用させてください。
「読者紳士と淑女諸君! お変わりございませんか。またお目にかかれるとは、思ってもいませんでした。・・・そういえば三年前に納棺の式を行った・・・ふと目を上げると、蓋を取って私を覗いている者がいます。何事かと問うと、金正日が死んだ、『諸君!』の臨時増刊を出す。棺から出て早く仕事せよというのです。・・・這い出して綴ったのがこのコラムです。金正日なんて暴力団の組長クラスの男です。叩くのは容易い。だが書かずにいた三年間に、こちらのペンも錆びました。とにかく〆切りに間に合ったのが御覧のページです。」
うん。読ませていただきました。
はじまりに「紳士と淑女」があります。
これを読むために、私は買いました。
ちなみに、文春新書の新刊に
徳岡孝夫・中野翠著「泣ける話、笑える話」が出ています。
こちらも、購入。
まずは、発売順に、文春新書から
その帯は
「これぞ本物。プロの芸をとくとご覧あれ・・・・
駄文の氾濫にうんざりしている貴方に極上の一冊をご用意しました。
すべて書き下ろし40本」
とあります。
新書では2人が交互に書いている文の、私は徳岡孝夫氏の方だけ読みました。
徳岡氏の文を読めるよろこび。
でも、新書の帯の紹介は、ちと、いただけないなあ。
徳岡氏とは、どのような方なのか。
ということなら、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社・1991年)の
この箇所など、単刀直入で人となりをあらわせております。
「このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
世間には随筆を書いて知られる人がいる。評論、小説を書いて暮らしている人もいる。だが私は、随筆を書いて生計を立てるほど文章の上手ではない。そもそも味で読ませる文章など、ジャーナリストにとっては邪道であり、私はそういうものを書くような訓練を受けていない。では評論は? 私には教養が足りない。しっかりした歴史観や社会学的座標軸を持っていなければ、ひとかどの評論の出来るわけがないが、私はこれまで、そんなものを確立する意図も時間の余裕もなかった。」(p46)
こういう明快さが、たとえば三島由紀夫などを惹きよせた磁力となっているのだろうと思うのでした。
「諸君!」の最終号で、巻頭随筆「紳士と淑女」の著者は徳岡孝夫というものであったと、自己紹介をして終わっていたのに、余得のようにして再度読めるよろこび。
緊急復活!「『紳士と淑女』再び」とある臨時増刊号「諸君!」の、
その巻頭コラムを、おもむろに読むわけです。
「民を最も虐げた苛烈きわまる体制の主が、民から泣いて惜しまれる。何という政治的逆説だろう。」とコラムは始まり1ページ3段で7頁。
最初の頁の最後に源実朝への言及がありました。
そこを引用。
「他国の人はいざ知らず日本人は、若くして将軍になった三代目と聞けば、源実朝(1192~1219)を思う。頼朝の子に生まれ、兄頼家が廃されたため、実朝は金家(注:北朝鮮のこと)の三代目より(おそらく少し)早く鎌倉幕府の第三代将軍になった。政治家よりは歌人、鎌倉よりは京都の文化が好きだった。鶴岡八幡宮参詣の帰途、社前の大銀杏の蔭に潜んでいた頼家の遺児公暁(くぎょう)に襲われ若死にした。
将軍ではあったが政治の実権は早くから北条氏の手に握られていた。北朝鮮という全体主義も、内部では実権の遣り取りでインインメツメツの争闘なのだろう。金正恩大将も大銀杏の前を通るときは、気を付けた方がいい。」
ここで、源実朝(さねとも)を登場させるのが、
何とも「紳士と淑女」の真骨頂だと、読み手はうなずくのでした。
さて、徳岡孝夫氏の数冊をペラペラとめくって気づいた箇所がありました。
それをご報告。
2007年「諸君!」10月号の特集に
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」
脇には「読み巧者108人の『オールタイム・ベスト3』」
という企画が掲載されていました。
そこに、お一人だけ、方丈記を取り上げている人がいる。
うん。それが徳岡孝夫氏なのでした。
徳岡氏は3冊の最初に方丈記をもってきておりました。
貴重なので、ここも引用。
「ここに挙げるのは、長年にわたり教えを受けてきた、本の形をした『我が師』である。
鴨長明『方丈記』。西洋でも『橋の下を×年間、川は流れた』という言い方をする。現在進行形である。『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』という認識とは全く異なる。無常が今のことである。長明を世捨て人のように言うのは間違い。彼は公卿(くげ)支配の最期を見て、保元・平治の乱を潜った。福原遷都という、以後七百年続く武家幕府の始まりを見た。大戦争と敗戦と高度成長を体験した現代人とよく似た、変革期の人である。」
さてっと、鴨長明と源実朝について。
ということで、新潮日本古典集成「方丈記 発心集」の最後に載っている「長明年譜」から。
建暦元年(1211)鴨長明57歳
十月、長明、飛鳥井雅経とともに鎌倉に赴き、源実朝に数次にわたり対面。13日、法花堂で頼朝を追悼、懐旧の歌一首を詠む。
建暦二年(1212)鴨長明58歳
1月25日、法然没す(80歳)。三月下旬、『方丈記』成る。
建保4年(1216)鴨長明62歳
閏6月8日(9日・10日説もある)長明没す。
1219年2月13日源実朝没す。享年28(満26歳没)。
じつに、方丈記は、鎌倉にいって源実朝と会った、
その次の年に書き上げられて完成したというのでした。
ここらで、また、臨時増刊号のコラムへともどりましょう。
コラムの最後を、引用させてください。
「読者紳士と淑女諸君! お変わりございませんか。またお目にかかれるとは、思ってもいませんでした。・・・そういえば三年前に納棺の式を行った・・・ふと目を上げると、蓋を取って私を覗いている者がいます。何事かと問うと、金正日が死んだ、『諸君!』の臨時増刊を出す。棺から出て早く仕事せよというのです。・・・這い出して綴ったのがこのコラムです。金正日なんて暴力団の組長クラスの男です。叩くのは容易い。だが書かずにいた三年間に、こちらのペンも錆びました。とにかく〆切りに間に合ったのが御覧のページです。」
うん。読ませていただきました。