和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

好漢惜しむらくは。

2012-02-24 | 短文紹介
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)を読んでいるところ。
といっても、まだちょっとしか読んでおりません。

今日の新聞。2月24日産経新聞一面左上に曽野綾子氏の文は、自衛隊が南スーダンに到着したというNHKのテレビニュースを取り上げておりました。なるほどなるほどと読みました。ここでは、ちょっと別の面として最後の方をすこし引用。

「柴五郎は日清戦争の前、北京の日本公使館から、当時の漢城(ソウル)まで徒歩旅行した。福島安正は、自ら観光冒険旅行風にシベリアを横断した。これらが本当の兵要地誌(軍事地理学)というものであったろう。今は誰もがどんな分野でも『行ってみて実地に調査する』面を怠るか、その効果を重視しない。『インターネットで調べればわかります』というのが若い世代の恐るべき返答だ。」

うん。そういえば、
岩波新書「南極越冬記」の最後に第二次越冬隊についての言及があります。

「第二次越冬隊長は飛行機のほかにヘリコプターを一台かしてほしいという。ヘリコプターをつれていくとすれば、往復のガソリンは積めないから、飛行機でさきにヘリコプター用の帰りのガソリンを運んでおかねばならぬ。このせっぱつまった場合、それはやめた方がよいとわたしは思った。いったい、何のためにヘリコプターがいるのだ。それは、開水面から基地までの10キロを運ぶためだという。10キロくらい何でもない。歩いたらよいではないか。ところが、第二次越冬予定者の中には、雪の上を全然あるいたことのない人が三人もいるという。そして、本人が雪の上を10キロあるくのは自信がなく、いやだという。しかも、それが絶対必要な特殊技能者である。何ということだ。いったい、こういう人物を南極の越冬隊員の中に加えるとは何ごとだ。これは探検でなく、観測だから、雪の上を歩く必要はない、と考えたのだろうか。そもそも、今回の遠征隊は、昨年がうまくいったからとて、南極をあまく見すぎていたのではないかと思われる。・・・・」(p254)

この1ページ前には、こうあります。

「日本を出発するまえ、探検か観測かという議論があったが、意味のない議論だとおもう。現在の南極で、探検的要素をふくまない観測などは、あり得ない。条件は未知なのである。新しい状況を、一つ一つさぐりながら、それに対処していかねばならなぬ。そのためには、そういう準備がなければならぬ。最上の条件ばかりとはかぎらない。探検的なやり方というものはまず最悪の場合を考えて、その準備をし、その上にうまくいったときの準備を次第につみ重ねていくという、漸進主義を必ずとらなければならないものである。そうしなかった結果は、最上の条件だけをあてにするという、大へんな冒険をおかすことになったのだ。そして、冒険はいま、むくいをうけつつある。はじめからこれは、探検隊という考え方で用意すべきであったのだ。」


それでは、第一次越冬隊の人選は、どうであったのか。
桑原武夫著「西堀南極越冬隊長」に、興味深い記述がありました。


「全くお役所向きでなく、また好漢惜しむらくは兵法を知らず的な面をもつ彼を、一時にもせよ窮地に追いこむような目にあわせてまで、なぜ引っぱり出したのか。私の知るかぎり、南極について書き、または語るのでなく、南極で実践することにおいて、現代日本において彼以上の人物はないと信じたからである。日本隊がミソをつけぬためには、彼に出馬してもらわねばならない。だから私は彼にあらかじめ一言も相談することなく、茅会長に手紙を書いたのだった。そして後になって茅会長から感謝されたことを、もうかくす必要もない。」

こうして、当時の南極越冬最高齢の西堀越冬隊長が誕生してゆくのでした。


ちなみに、「南極越冬記」のあとがきで西堀栄三郎氏は、南極からの帰国後、この新書が出来るまでのいきさつを書いているなかに、こうありました。

「だが、ちょうど、みんなが忙しいときだった。桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、カラコラムへ向け出発してしまった。しかし、運のいいことには、ちょうどそのまえに、東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。そして、桑原君からバトンをひきついで、かれもまた帰国早々の忙しいなかを、わたしの本の完成のために、ひじょうな努力をしてくれたのであった。桑原・梅棹の両君の応援がなかったならば、この本はとうてい世にあらわれることができなかったにちがいない。」(p268)
コメント
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