和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

人と栖(すみか)と。

2012-02-16 | 古典
加藤秀俊氏からコメントをいただいたのを好機とし、
以下に、思い浮かぶことを並べてみます。

方丈記のはじまりには
「・・久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」とあるのでした。「方丈記という文章は、一面住居についてのエッセイなのである」(堀田善衛)。

それでは、「方丈記」本文に出てくる栖(すみか)はというと、こうあったのでした。

「齢は歳々に高く、すみかは折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず、広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。所を定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺(ふ)きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬ事あらば、やすく外へ移さむがためなり。・・」(ワイド版岩波文庫p28)

そういえば、講談社現代新書にある「学問の世界㊤」(聞き手=加藤秀俊+小松左京)の西堀栄三郎氏の箇所に、

西堀】 ・・たとえばラングミュアは、私がアメリカのGEに行って勉強しているときに、彼にはたいへん親しくさせていただいて、ひじょうに好きな人なんですけど、理論屋じゃないです。彼は実験物理屋で、山登りがとても好きなんです。土曜日から私を車に乗っけてキャンプに連れて行ってくれる。私もかなりマメに動くほうなんですが、彼もなかなかマメでしてね、もうチャカチャカと。ご承知のとおり、キャンプするといろんなことせななりません。それをじつに小マメにやる。だから実験物理屋というたぐいの者は、そういうマメくさいといいますか、おっくうにならないということが・・・。(p114 )


うん。キャンプではないけれど、鴨長明と「マメさ」。そんなテーマに、惹かれます。さっそく現代人のどなたに結び付けて思い浮かべたいような、身近な感じになっていきます。

それはそうと、加藤秀俊著「わが師わが友」(C・BOOKS)に、鶴見俊輔氏が加藤秀俊氏へ梅棹忠夫氏を紹介する話が出ておりました。

「鶴見さんによると、梅棹さんという人は、じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、あんな実践力のある人は、めったにいるものではない、というのであった。・・・」(p80・「社会人類学研究班」)

ここで、鶴見さんは、まるで鴨長明の「方丈」の家へ訪問して感想を述べているような(笑)。というのが、私の連想です。

「おれの家は言葉でできている」というのは
田村隆一の詩「人間の家」の一行なのですが、

加藤秀俊氏の文は、
鶴見俊輔氏の話を聞いたあとに、こう続いておりました。

「・・梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいということも、『アマチュア思想家宣言』を読んだことでわかった。」


ところで、
ネットでの古本検索すると、一冊だけあったところの
「未来技術と人間社会」(ダイヤモンド社)が届く。
京都シンポジウムとあり、
監修者は桑原武夫・小松左京・加藤秀俊。

杉波書林(青梅市)
古本1000+送料290=1290円なり。

いながらにして、本が手にはいるありがたさ。


追記。

加藤秀俊著「わが師わが友」は
ネット上の加藤秀俊データベースにて
どなたも、簡単に全文が読めるようになっております。
ありがたい。
ちなみに、
その加藤秀俊データベースにあるところの
「掲示板・電子会議室」に書き込みしようとすると
実行エラーと出てしまいます。残念。
コメント (3)
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