和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

この余裕。

2012-09-21 | 地震
9月5日に書き込んだ曽野さんの引用を、
ここに、またもってきます。


WILL2011年5月号の曽野綾子氏の連載「小説家の身勝手」第四十章『ゲリラの時間』に、それはありました。

「・・・私たち戦争によって子供時代に訓練された世代は、今度のことで全く慌てなかった。おもしろい事象がたくさん起こった。烈しい揺れが来た時、決して若くはない私の知人の数人は食事中であった。彼らは、普段より多く食べておいたと告白している。家に帰ってから食事をするつもりだったという別の一人は、空いていたお鮨屋に飛び込んで揺れの合間に普段の倍も食べトイレも済ませてから、家に向かって歩き出した。
その人は、二度目の地震が収まった後、渋谷駅から246号線を赤坂見附方向に歩き、少し様子を眺めることにした。非常時に、人の心を救うのはこの余裕である。観察し、分析し、記録(記憶)しておこうという人間的な本能が残されていることは、いつか非常に役立つのである。」

これが印象深く思えていたのでした。
何気なく、
宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)をパラパラと読み直していたら、
そこに、こんな箇所があった。

「僕の父親は大正三年生まれ、79歳まで生きました。9歳のとき関東大震災にあっています。四万人近い焼死者を出した被服廠跡の広場を妹の手をひいて逃げまわり、生き延びました。祖父が命じて家の者はみな腹ごしらえをし、足袋はだしで避難したおかげだと父親は語っていました。大惨状のただなかにいて、9歳の少年は何を見、感じたのでしょう。それは彼の人間形成にどんな影響を残したのでしょうか。・・・第二次世界大戦の東京大空襲のときは、親戚の安否をたしかめに翌日宇都宮から上京しています。・・・その後、敗戦間際に宇都宮で爆撃があったときは、4歳の僕を背負って、東武鉄道の土手に這いのぼり逃げました。母が弟を背負い、叔父が兄の手をひいていました。」(p152~153)


まさか、津波の際に家でのんきに食事をしているわけにもいかないでしょうが、傾聴にあたいする箇所だと思われます。いかがですか。




コメント
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