和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

残りの2%。

2012-09-08 | 短文紹介
ドナルド・キーン(角地幸男訳)「正岡子規」(新潮社)を
途中から読みました。後ろから読み始めて、
いま第六章までもどってきました(笑)。

読みながら、わかりやすくて、
貴重な水先案内人を得たよろこびを味わえます。

ここで、脱線します。
板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所・新書サイズ)に
アルバート・メーラビンの説が紹介されています。
まずは、それを引用。

「手紙を書くことによるコミュニケーションは、
面と向かって話すことや電話で話すことよりも難しい。
アメリカの社会人類学者アルバート・メーラビンの説によると、
実験の結果、右(下)のような公式が成り立つ。
目とか口などで相手に通じるものがもっとも有力で、
つぎに声の調子、そして言葉によってわずかなものが相手に伝達されるというわけだ。つまり、面と向かって話せば100%、電話で話せば45%、手紙で書けば7%しか効果が上がらないことになる。だから『手紙を書くように』というのも、説得のためには相当に難しい仕事と覚悟しなければならない。
文章も、文体とか言葉づかいは別にしても、欲を言って『手紙を書くように』からさらに一歩進んで『面と向かって話すつもり』『電話をかけて説明する』といった気持ちで書くように努力すべきなのだろう。」(p73)

う~ん。こうして引用していると、
思っていたのとは、また別の感慨が浮ぶのですが、
私が『正岡子規』を読みながら思ったのは、
日本人が正岡子規を語るとき、
案外に同じ日本人が読むことを前提に、すすめている安易さがあり。ドナルド・キーン氏の正岡子規を読んでいると、何か、そこからふっきれて、別の世界を読ませて頂いているような気分になります。
この違いはどうしてなんだろう?
ということを思っていたのでした。
そういえば、
板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)に
こんな箇所がありました。

「大学の教育ぐらいで、95点平均をとるのは頭のよい学生にとっては、そんなに難しいことではあるまい。努力さえ積めば、優等生になるのは簡単なことだ。けれども、そういう受け身の知識や教養は、そのあとに来る独創の世界とは別なものである。人生の98%までは、これまでの社会によってつくり上げられた文化・考え方のつみ重ねであろう。そして、個々人が勝負するのは、けっきょく、残りの2%のところなのである。」(p124~125)


たとえば、ドナルド・キーンさんは
祖父母の後妻だった子規の養祖母を詠んだ新体詩の長篇を
「この新体詩は、あまり引用されることがないが、子規の俳句や短歌と同じく私を感動させる。」(p170)なんて箇所があったりします。

まあ、全部を読んだわけじゃないので、
これくらいにして、
最後のほうにこうあります。

「子規が偉大なのは、著名な俳人の欠如や西洋の影響下にある新しい詩形式の人気のために、俳句が消滅の危機に晒されていた時に、新しい俳句の様式を創造することで同世代を刺激し、近代日本文学の重要な要素として俳句を守ったからだった。」(p266~267)

ついでに、最後も引用。

「詩人たちがむしろ好むのは、俳句や短歌を作ることで現代の世界に生きる経験を語ることだった。これは、子規の功績だった。」(p269)


なお、最後には、註・参考文献・索引などで40ページほどをついやしております。
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