坂井スマート道子著「父、坂井三郎」(産経新聞出版)を読んで、思い浮かんだのが曽野綾子さんのエッセイでした。どうも、その箇所はまだ単行本になっておりませんでした。
WILL2011年5月号の曽野綾子氏の連載「小説家の身勝手」第四十章『ゲリラの時間』に、それはありました。
「・・・私たち戦争によって子供時代に訓練された世代は、今度のことで全く慌てなかった。おもしろい事象がたくさん起こった。烈しい揺れが来た時、決して若くはな私の知人の数人は食事中であった。彼らは、普段より多く食べておいたと告白している。家に帰ってから食事をするつもりだったという別の一人は、空いていたお鮨屋に飛び込んで揺れの合間に普段の倍も食べトイレも済ませてから、家に向かって歩き出した。
その人は、二度目の地震が収まった後、渋谷駅から246号線を赤坂見附方向に歩き、少し様子を眺めることにした。非常時に、人の心を救うのはこの余裕である。観察し、分析し、記録(記憶)しておこうという人間的な本能が残されていることは、いつか非常に役立つのである。」
このあとに、ある箇所を「父、坂井三郎」を読んでいたら思い浮かべたのでした。
では、その箇所。
「彼はそこで面白い風景に出くわした。数人の若者が、どうしていいかわからないという感じで、道端に腰をおろしていたのである。その行為自体は彼に理解できるものであった。彼自身がもう若くはないから、時々道端に腰を下ろして、通行人、ひいては人生そのものを眺めるという楽しみを持っていたからである。しかし、この余震の続くなかで若者たちの腰を下ろしている場所を見たとき、彼は吃驚(きつきょう)した。彼らの頭の上には、揺れている大看板があった。もしそれが堕ちてきたら、彼らは完全にそれで頭を割られると思われる場所であった。私たちの世代でも『大看板の下に腰を下ろしてはいけない』などと教えられたことは一度もないのだ。その危険性を察知する能力は、ライオンや豹と同じ本能というものである。」(p124~125)
「父、坂井三郎」を読んでいる際に
曽野綾子さんのこの箇所を思い浮かべたのは
「父、坂井三郎」のp139でした。
「例えば、私が出かけていく前に声がかかります。
『おい、前後、左右、上下に注意しろよ!』
一般的には『前後左右に注意して』と言うところですが、
父の場合は、それに上と下が加わります。・・・・
大空の真っ只中では、前後も左右も上下も違いがないのです。
方向を示すのは重力だけです。
幼い頃からそう言われていたので、
私にとって『前後左右上下』は、それで一つの熟語でした。
学校で先生が『前後左右に注意しましょうね』と言うたびに、
『あれ、どうして(上下)が入らないの?』と思ったものです。」
そういえば、引用した曽野さんのエッセイでは、
『彼は』とありました。
『地震カミナリ火事オヤジ』を思い浮かべて、
その、オヤジの場合なのだな、と一人合点しております。
WILL2011年5月号の曽野綾子氏の連載「小説家の身勝手」第四十章『ゲリラの時間』に、それはありました。
「・・・私たち戦争によって子供時代に訓練された世代は、今度のことで全く慌てなかった。おもしろい事象がたくさん起こった。烈しい揺れが来た時、決して若くはな私の知人の数人は食事中であった。彼らは、普段より多く食べておいたと告白している。家に帰ってから食事をするつもりだったという別の一人は、空いていたお鮨屋に飛び込んで揺れの合間に普段の倍も食べトイレも済ませてから、家に向かって歩き出した。
その人は、二度目の地震が収まった後、渋谷駅から246号線を赤坂見附方向に歩き、少し様子を眺めることにした。非常時に、人の心を救うのはこの余裕である。観察し、分析し、記録(記憶)しておこうという人間的な本能が残されていることは、いつか非常に役立つのである。」
このあとに、ある箇所を「父、坂井三郎」を読んでいたら思い浮かべたのでした。
では、その箇所。
「彼はそこで面白い風景に出くわした。数人の若者が、どうしていいかわからないという感じで、道端に腰をおろしていたのである。その行為自体は彼に理解できるものであった。彼自身がもう若くはないから、時々道端に腰を下ろして、通行人、ひいては人生そのものを眺めるという楽しみを持っていたからである。しかし、この余震の続くなかで若者たちの腰を下ろしている場所を見たとき、彼は吃驚(きつきょう)した。彼らの頭の上には、揺れている大看板があった。もしそれが堕ちてきたら、彼らは完全にそれで頭を割られると思われる場所であった。私たちの世代でも『大看板の下に腰を下ろしてはいけない』などと教えられたことは一度もないのだ。その危険性を察知する能力は、ライオンや豹と同じ本能というものである。」(p124~125)
「父、坂井三郎」を読んでいる際に
曽野綾子さんのこの箇所を思い浮かべたのは
「父、坂井三郎」のp139でした。
「例えば、私が出かけていく前に声がかかります。
『おい、前後、左右、上下に注意しろよ!』
一般的には『前後左右に注意して』と言うところですが、
父の場合は、それに上と下が加わります。・・・・
大空の真っ只中では、前後も左右も上下も違いがないのです。
方向を示すのは重力だけです。
幼い頃からそう言われていたので、
私にとって『前後左右上下』は、それで一つの熟語でした。
学校で先生が『前後左右に注意しましょうね』と言うたびに、
『あれ、どうして(上下)が入らないの?』と思ったものです。」
そういえば、引用した曽野さんのエッセイでは、
『彼は』とありました。
『地震カミナリ火事オヤジ』を思い浮かべて、
その、オヤジの場合なのだな、と一人合点しております。