和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

清水の十八番。

2012-09-07 | 地震
まだ、汗をかきます。寝汗。
ちょいと、おきると上着をとりかえないといけません。

さてっと、
昨夜は、寝たりおきたりの間に
竹内洋著「メディアと知識人 清水幾太郎の覇権と忘却」を
読みおえました。私には、あまり印象に残らない一冊。
けれど、清水幾太郎を読みたいと思っているので、
これで、どれを読むか。どれを読まなくてもいいや
という見当がつけられましたので感謝。

この竹内洋氏の本では、
第六章「アラーミストに」が参考になりました。
ので、そこを引用していきたいと思います。

竹内氏ご自身の学生時代の読書での清水幾太郎に
ふれておられる箇所に

「わたしにとっては、清水の過去の論稿によって編集された、1968(昭和43)年に刊行された『日本的なるもの』(潮新書)のほうが、よほど面白かったことを憶えている。これは日本文化論ブームに棹さしたものである。あとにふれることになるが、ここに所収されている『日本人の自然観』や『匿名の思想』『庶民』は、いま読んでも名論文だと思う。」(p277)

ここも引用しておきます。

「地震こそ清水の十八番である。清水は、16歳のとき関東大震災(1923年9月1日)で被災する。死者・行方不明者10万人余。二学期の始業式を終えて、自宅で昼食をとっているときである。激しい振動で二階がつぶれた。落ちた天井を夢中で壊して這いあがった。地震のおそろしさを経験した清水はそのときの朝鮮人虐殺にいたる噂の伝播などから『流言蜚語』を書き、60年安保闘争の最中に関東大震災を題材にした『日本人の自然観――関東大震災』を書いた。・・・」(p290)


つぎに、何度でも引用しておきたい箇所。

「敗戦直後、一人娘の禮子(左の示はネの方)が通う立教女学院の生徒たちに話したことをもとにしたものであるが、清水はつぎのようなことも書いている。

 清水の家も商売も関東大震災で壊滅した。父は急に老人のようになってしまった。清水は旧制中学生(16歳)だったが、長男で、父母、弟妹を養う役目を背負った。焼け跡にバラックをつくり、そこで商売をはじめ学校に通いだす。新しい力が湧いてきた。自分が別人のようになったことを感じた。それから22年後、今度は敗戦で東京は焼け野原となった。清水は関東大震災のときの自分と同じ年頃の敗戦直後の生徒を前にしてこういった。
自分は、敗戦で関東大震災のときの父や母のように力を落としていますが、みなさんのほうは若いときの私のように不思議な力を感じているのではないか。大きな重苦しい問題に気づきながらも、新しい元気でニコニコしているのではないか。皆さんの若さからくる不思議な新しい力で『この不幸な日本の本当の巣立ちのために働いてくれることを深く信じてゐます』と結んだ(「巣立ち」『日本の運命とともに』)。清水にこう励まされた世代こそ戦後の復興を担った人々だった。清水の地震関係の論文はいまでも読み直されてよいとしたが、この言葉もまた東日本大震災のあとの時代に思いだされてよいものである。」(p295~296)

さてっと、
これで、昨年ちくま学芸文庫から出た
清水幾太郎著「流言蜚語」へと読み進められますように。

え~と。昨日はブログの更新を怠りました。
コメント
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