和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「典座教訓」再読。

2017-11-14 | 道しるべ
講談社学術文庫の
道元「典座教訓・赴粥飯法」が
本棚にあったので、ひらいてみる。

内容は忘れていたのですが、
付せんを自分で貼ってあるので、
パラパラと現代語訳の
「典座教訓」の箇所のみ、
めくっていたのがわかります。
というか、自分で読んだことさえ、
すっかり覚えていないのでした。

うん。取り合えず
目を通したということだったのでしょう。

ということで、
付せんを貼ってある箇所を
まず、ひらく。
こんな箇所がありました。

「無道心者の典座の弊害」(p113~115)

憐れむべく、悲しむべし、
無道心の人、いまだかつて有道徳の輩に遇見せざることを。
宝山に入れりといえども、空手にして帰り、
宝海に到れりといえども、空身にして還る。
まさに知るべし、かれ、いまだかつて
発心せずといえども、もし一の本分人にまみえば、
すなわち其の道を行得し、
いまだ一の本分人にまみえずといえども、
もしこれ発心せる者ならば、
すなわちその道をギョウヨウせんことを。
すでにもって二つながらかくれば、
なんぞもって一つも益することあらん。

訳文

このように、仏道を修行しようとする心のない人が、
すぐれた師僧にけっしてめぐり会うことができないということは、
なげかわしいことであり、うれうべきことである。
それはまるで、宝の山に入ったとしても、
何も手に入れないで帰ったり、
宝の海に潜ったとしても、
何も身に得ることなく帰ってくるようなものである。
典座というものは、仏道修行を目指す
真実の心は起こしていなくても、
もし悟りを開いた師匠に出会い教えを受けることができたならば、
典座の役を立派に果たすことができるし、
また、たとえすぐれた師匠に会うことができなくても、
もし深く心に仏道を求める志を起こしていたならば、
必ずや典座のつとめを仏道として成し遂げることが
できるということを、よく知っておくべきである。
・・・・・


やっぱり、一度だけ読んだというだけでは、
駄目ですね(笑)。
すっかり、読んだことも忘れておりました(笑)。
コメント
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