講談社学術文庫の
道元「典座教訓・赴粥飯法」が
本棚にあったので、ひらいてみる。
内容は忘れていたのですが、
付せんを自分で貼ってあるので、
パラパラと現代語訳の
「典座教訓」の箇所のみ、
めくっていたのがわかります。
というか、自分で読んだことさえ、
すっかり覚えていないのでした。
うん。取り合えず
目を通したということだったのでしょう。
ということで、
付せんを貼ってある箇所を
まず、ひらく。
こんな箇所がありました。
「無道心者の典座の弊害」(p113~115)
憐れむべく、悲しむべし、
無道心の人、いまだかつて有道徳の輩に遇見せざることを。
宝山に入れりといえども、空手にして帰り、
宝海に到れりといえども、空身にして還る。
まさに知るべし、かれ、いまだかつて
発心せずといえども、もし一の本分人にまみえば、
すなわち其の道を行得し、
いまだ一の本分人にまみえずといえども、
もしこれ発心せる者ならば、
すなわちその道をギョウヨウせんことを。
すでにもって二つながらかくれば、
なんぞもって一つも益することあらん。
訳文
このように、仏道を修行しようとする心のない人が、
すぐれた師僧にけっしてめぐり会うことができないということは、
なげかわしいことであり、うれうべきことである。
それはまるで、宝の山に入ったとしても、
何も手に入れないで帰ったり、
宝の海に潜ったとしても、
何も身に得ることなく帰ってくるようなものである。
典座というものは、仏道修行を目指す
真実の心は起こしていなくても、
もし悟りを開いた師匠に出会い教えを受けることができたならば、
典座の役を立派に果たすことができるし、
また、たとえすぐれた師匠に会うことができなくても、
もし深く心に仏道を求める志を起こしていたならば、
必ずや典座のつとめを仏道として成し遂げることが
できるということを、よく知っておくべきである。
・・・・・
やっぱり、一度だけ読んだというだけでは、
駄目ですね(笑)。
すっかり、読んだことも忘れておりました(笑)。
道元「典座教訓・赴粥飯法」が
本棚にあったので、ひらいてみる。
内容は忘れていたのですが、
付せんを自分で貼ってあるので、
パラパラと現代語訳の
「典座教訓」の箇所のみ、
めくっていたのがわかります。
というか、自分で読んだことさえ、
すっかり覚えていないのでした。
うん。取り合えず
目を通したということだったのでしょう。
ということで、
付せんを貼ってある箇所を
まず、ひらく。
こんな箇所がありました。
「無道心者の典座の弊害」(p113~115)
憐れむべく、悲しむべし、
無道心の人、いまだかつて有道徳の輩に遇見せざることを。
宝山に入れりといえども、空手にして帰り、
宝海に到れりといえども、空身にして還る。
まさに知るべし、かれ、いまだかつて
発心せずといえども、もし一の本分人にまみえば、
すなわち其の道を行得し、
いまだ一の本分人にまみえずといえども、
もしこれ発心せる者ならば、
すなわちその道をギョウヨウせんことを。
すでにもって二つながらかくれば、
なんぞもって一つも益することあらん。
訳文
このように、仏道を修行しようとする心のない人が、
すぐれた師僧にけっしてめぐり会うことができないということは、
なげかわしいことであり、うれうべきことである。
それはまるで、宝の山に入ったとしても、
何も手に入れないで帰ったり、
宝の海に潜ったとしても、
何も身に得ることなく帰ってくるようなものである。
典座というものは、仏道修行を目指す
真実の心は起こしていなくても、
もし悟りを開いた師匠に出会い教えを受けることができたならば、
典座の役を立派に果たすことができるし、
また、たとえすぐれた師匠に会うことができなくても、
もし深く心に仏道を求める志を起こしていたならば、
必ずや典座のつとめを仏道として成し遂げることが
できるということを、よく知っておくべきである。
・・・・・
やっぱり、一度だけ読んだというだけでは、
駄目ですね(笑)。
すっかり、読んだことも忘れておりました(笑)。