本にはさまっていた
「新潮社新刊案内 2018年11月刊」をひらくと、
黒川創著「鶴見俊輔伝」と
津野海太郎著「最後の読書」と
この2冊が11月30日発売として並んでおりました。
その「最後の読書」のはじまりに、
鶴見俊輔が、登場しておりました。
そこに引用されている鶴見さんは
こうです。
「2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。
受信は可能、発信は不可能、という状態。
発語はできない。読めるが、書けない。
以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
翌年四月に退院、帰宅を果たす。
読書は、かわらず続ける。
2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。」(p12)
こう引用したあとに津野海太郎さんは
こう記しております。
「名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
それ以上に、それから三年半ものあいだ、
おなじ状態のまま本を読み続けた、
そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」
「ただし、なにかのためでなく、じぶんひとりの
『習う手応え』や『よろこび』を得るためだけの読書。
『団子串助漫遊記』に熱中した三歳児のころを考えてみよ。
かつて私はそのようにして本を読みはじめた。
とすれば終わりもおなじ。・・・・」(p15)
これが、第一章の「読みながら消えてゆく」。
つぎの、第二章は「わたしはもうじき読めなくなる」。
第二章では、幸田露伴が語られておりました。
幸田文からはじまり、露伴の晩年へと至るのですが
ここでは最後の方をすこし引用。
塩谷賛(土橋利彦)著『幸田露伴』からの引用。
「白内障は全く見えなくなれば手術ができるが
露伴はとにもかくにもまだ見えていたし、それに、
糖尿病があっては手術はかなわぬのだそうである。
それでも手術がしてもらえるかどうかという確かめに、
文子に連れられた形で東大へ行った。(略)
診察を丁寧に受けたあと、
『手術はやはりできませんですなあ』と言われた(略)
タクシーの便がないので眼科から正門まで歩かなくては
ならなかった。・・・・
露伴は額に薄く汗を掻いていた。そのくせ木陰で休んでいると、
『肌寒い感じがする』と言うのであった。そのとき、
『目が衰えると気も衰えるものだね』と感慨を洩らした。」
こうして引用したあとに、津野海太郎氏はこう書きます。
「書けないこともだが、それ以上に読めないことがつらい。
文さんの随筆『結ぶこと』には、
『眼もひどく薄くなってきているから、
生きているうちの見える時間は有効に使いたい。
書くより読むことのほうが大事でもあり、楽しい』
という露伴のことばが記録されている。
白内障が決定的に悪化するまえの内輪での
宣言みたいなものだったのだろう。」(p27~28)
そうして、鶴見俊輔と露伴とを比較しております。
「ただし露伴にはもう読み書きする力がない。
書けない、話せない、でも読める。それが最晩年の鶴見俊輔だったが、
視力を失った幸田露伴は、読めない、書けない、でも話せる。
そこで口述筆記。それと調べ物とを助手の土橋にゆだねることになった、
と幸田文の『雑記』にある。」(p29)
はい、私はここでもう満腹。
もう、これ以上読み進めません(笑)。
次は、鶴見俊輔の漫画論を読むのだ。
「新潮社新刊案内 2018年11月刊」をひらくと、
黒川創著「鶴見俊輔伝」と
津野海太郎著「最後の読書」と
この2冊が11月30日発売として並んでおりました。
その「最後の読書」のはじまりに、
鶴見俊輔が、登場しておりました。
そこに引用されている鶴見さんは
こうです。
「2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。
受信は可能、発信は不可能、という状態。
発語はできない。読めるが、書けない。
以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
翌年四月に退院、帰宅を果たす。
読書は、かわらず続ける。
2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。」(p12)
こう引用したあとに津野海太郎さんは
こう記しております。
「名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
それ以上に、それから三年半ものあいだ、
おなじ状態のまま本を読み続けた、
そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」
「ただし、なにかのためでなく、じぶんひとりの
『習う手応え』や『よろこび』を得るためだけの読書。
『団子串助漫遊記』に熱中した三歳児のころを考えてみよ。
かつて私はそのようにして本を読みはじめた。
とすれば終わりもおなじ。・・・・」(p15)
これが、第一章の「読みながら消えてゆく」。
つぎの、第二章は「わたしはもうじき読めなくなる」。
第二章では、幸田露伴が語られておりました。
幸田文からはじまり、露伴の晩年へと至るのですが
ここでは最後の方をすこし引用。
塩谷賛(土橋利彦)著『幸田露伴』からの引用。
「白内障は全く見えなくなれば手術ができるが
露伴はとにもかくにもまだ見えていたし、それに、
糖尿病があっては手術はかなわぬのだそうである。
それでも手術がしてもらえるかどうかという確かめに、
文子に連れられた形で東大へ行った。(略)
診察を丁寧に受けたあと、
『手術はやはりできませんですなあ』と言われた(略)
タクシーの便がないので眼科から正門まで歩かなくては
ならなかった。・・・・
露伴は額に薄く汗を掻いていた。そのくせ木陰で休んでいると、
『肌寒い感じがする』と言うのであった。そのとき、
『目が衰えると気も衰えるものだね』と感慨を洩らした。」
こうして引用したあとに、津野海太郎氏はこう書きます。
「書けないこともだが、それ以上に読めないことがつらい。
文さんの随筆『結ぶこと』には、
『眼もひどく薄くなってきているから、
生きているうちの見える時間は有効に使いたい。
書くより読むことのほうが大事でもあり、楽しい』
という露伴のことばが記録されている。
白内障が決定的に悪化するまえの内輪での
宣言みたいなものだったのだろう。」(p27~28)
そうして、鶴見俊輔と露伴とを比較しております。
「ただし露伴にはもう読み書きする力がない。
書けない、話せない、でも読める。それが最晩年の鶴見俊輔だったが、
視力を失った幸田露伴は、読めない、書けない、でも話せる。
そこで口述筆記。それと調べ物とを助手の土橋にゆだねることになった、
と幸田文の『雑記』にある。」(p29)
はい、私はここでもう満腹。
もう、これ以上読み進めません(笑)。
次は、鶴見俊輔の漫画論を読むのだ。