村田喜代子著「エリザベスの友達」(新潮社)が届き、
数十ページで放り投げる(笑)。
「ボーッとしてんじゃないョ」というテレビは、
ボーッとしてても、見つづけていられるけれど、
ボーッとしてては、活字を追っていけない(笑)。
ありがたいことには、
「エリザベスの友達」の最後に、
「この作品を書くにあたり・・三冊の本に多くの啓発を得ました」
とあり、三冊の本の題名と出版社と著者名とがあげられておりました。
その三冊目の方へと興味がうつる。
さっそく注文。
六車由美著「驚きの介護民俗学」(医学書院)。
その「おわりに」から、ちょこっと引用。
「・・大学に勤務していたころ、
せっかく民俗学を専門に勉強してきてもその専門性を活かせる
博物館や資料館の学芸員の枠はあまりにも狭く、多くの学生たちが
志を抱きながらも仕事に活かすことを断念せざるを得なかった現実を、
私は目の当たりにしてきた。そうした学生たちに、彼らの
可能性を開くひとつの選択肢として、介護現場を勧めたいと思うのだ、
そして彼らの存在によって、閉塞的な介護現場のケアの在り方も、
より豊かに開かれている可能性があると考えている。
しかし、学生たちを介護現場に誘導するには、
職場環境があまりにも過酷であるという現実はある。
やりがいと充実感は確実にあるが、それに対する対価で
あるはずの賃金も社会的評価もきわめて低い。
それによって介護施設の職員の離職率は高く、
現場は常に人手不足の状態にある。
すると、高い理想をもって働いている介護職員たちも、日々、
『食事・排泄・入浴』という三大介護に手いっぱいになり、
肉体的にも精神的にも疲弊してくる、これが現状である。
だから、たとえ民俗学を学んだ学生たちが志高く
介護現場に入ったとしても、現場は聞き書きをする時間を
与えてくれる余裕はないだろう。
・・・・・・・
学生たちを介護現場へと胸を張って誘えるようになるためには、
高齢者介護とその仕事に対する人々の理解を深めてもらうことが
何よりも先決であり、結果的に介護施設の職場環境が整備されて
いくように、私にも、社会へと働きかけていく責任があると言える、
その意味でも私は、しばらくは『介護民俗学』という冠を掲げて、
介護の現場で活動をしていきたいと思う。
それと同時に切実に思うのは、
介護現場が社会へと開かれていく必要性がある。
・・・個人情報保護や家族からのクレーム、
さらに感染症予防等への配慮から、施設側は
利用者を過剰なほど保護しているため、
彼らが研究者の調査やマスコミからの取材を
受けることについては消極的だからである。
ここにも、利用者が常に守られる側にあることが
よく見てとれる。百年近く生きてきた利用者の内には、
ある程度のことには耐えうるたくましさが培われているはずだが、
それに対する評価はあまりにも低いのだ。
私は、ムラに調査に入った学生たちが、
『そのことだったら、○○老人ホームにいる△△さんに聞いてみろ』
(聞き書きでは、ある話者から別な話者を紹介されて
数珠つながりに展開していくことはよくある)
と紹介されて、老人ホームへとその利用者に会いに行き
聞き書きができるような、そんな環境ができたら
どんなにかよいかと思う。
そのことだったらあのじいちゃん、
このことだったらあのばあちゃん、
と高齢者がその経験や知識ゆえの必要とされ、
たとえ要介護状態にある老人ホームの利用者であっても
その必要に応えられるような環境こそが、
暴力性のジレンマからケアを解放していく
ことにつながるのではないだろうか。」
作品の最後に、数冊でも参考文献の掲載があれば、
私みたいに飽きやすい者にとっては、救いのページ
となることがしばしばあるのでした。
あらためて、放り出した本を拾い、読み直す。
そんな可能性をひめた参考文献(笑)。
これも、それ。ネットで古本を手軽にスピーディに
手にすることが可能となったおかげです。
そのおかげで、本から本へと楽々と飛び移れる愉しみを、
満喫できる。本年がそうした喜びに満ちていますように。
ということで、
「数珠(じゅず)つながりに展開していくことはよくある」
という言葉が、あらためて浮かび上がってきます。
数十ページで放り投げる(笑)。
「ボーッとしてんじゃないョ」というテレビは、
ボーッとしてても、見つづけていられるけれど、
ボーッとしてては、活字を追っていけない(笑)。
ありがたいことには、
「エリザベスの友達」の最後に、
「この作品を書くにあたり・・三冊の本に多くの啓発を得ました」
とあり、三冊の本の題名と出版社と著者名とがあげられておりました。
その三冊目の方へと興味がうつる。
さっそく注文。
六車由美著「驚きの介護民俗学」(医学書院)。
その「おわりに」から、ちょこっと引用。
「・・大学に勤務していたころ、
せっかく民俗学を専門に勉強してきてもその専門性を活かせる
博物館や資料館の学芸員の枠はあまりにも狭く、多くの学生たちが
志を抱きながらも仕事に活かすことを断念せざるを得なかった現実を、
私は目の当たりにしてきた。そうした学生たちに、彼らの
可能性を開くひとつの選択肢として、介護現場を勧めたいと思うのだ、
そして彼らの存在によって、閉塞的な介護現場のケアの在り方も、
より豊かに開かれている可能性があると考えている。
しかし、学生たちを介護現場に誘導するには、
職場環境があまりにも過酷であるという現実はある。
やりがいと充実感は確実にあるが、それに対する対価で
あるはずの賃金も社会的評価もきわめて低い。
それによって介護施設の職員の離職率は高く、
現場は常に人手不足の状態にある。
すると、高い理想をもって働いている介護職員たちも、日々、
『食事・排泄・入浴』という三大介護に手いっぱいになり、
肉体的にも精神的にも疲弊してくる、これが現状である。
だから、たとえ民俗学を学んだ学生たちが志高く
介護現場に入ったとしても、現場は聞き書きをする時間を
与えてくれる余裕はないだろう。
・・・・・・・
学生たちを介護現場へと胸を張って誘えるようになるためには、
高齢者介護とその仕事に対する人々の理解を深めてもらうことが
何よりも先決であり、結果的に介護施設の職場環境が整備されて
いくように、私にも、社会へと働きかけていく責任があると言える、
その意味でも私は、しばらくは『介護民俗学』という冠を掲げて、
介護の現場で活動をしていきたいと思う。
それと同時に切実に思うのは、
介護現場が社会へと開かれていく必要性がある。
・・・個人情報保護や家族からのクレーム、
さらに感染症予防等への配慮から、施設側は
利用者を過剰なほど保護しているため、
彼らが研究者の調査やマスコミからの取材を
受けることについては消極的だからである。
ここにも、利用者が常に守られる側にあることが
よく見てとれる。百年近く生きてきた利用者の内には、
ある程度のことには耐えうるたくましさが培われているはずだが、
それに対する評価はあまりにも低いのだ。
私は、ムラに調査に入った学生たちが、
『そのことだったら、○○老人ホームにいる△△さんに聞いてみろ』
(聞き書きでは、ある話者から別な話者を紹介されて
数珠つながりに展開していくことはよくある)
と紹介されて、老人ホームへとその利用者に会いに行き
聞き書きができるような、そんな環境ができたら
どんなにかよいかと思う。
そのことだったらあのじいちゃん、
このことだったらあのばあちゃん、
と高齢者がその経験や知識ゆえの必要とされ、
たとえ要介護状態にある老人ホームの利用者であっても
その必要に応えられるような環境こそが、
暴力性のジレンマからケアを解放していく
ことにつながるのではないだろうか。」
作品の最後に、数冊でも参考文献の掲載があれば、
私みたいに飽きやすい者にとっては、救いのページ
となることがしばしばあるのでした。
あらためて、放り出した本を拾い、読み直す。
そんな可能性をひめた参考文献(笑)。
これも、それ。ネットで古本を手軽にスピーディに
手にすることが可能となったおかげです。
そのおかげで、本から本へと楽々と飛び移れる愉しみを、
満喫できる。本年がそうした喜びに満ちていますように。
ということで、
「数珠(じゅず)つながりに展開していくことはよくある」
という言葉が、あらためて浮かび上がってきます。