昨日は本を読まず(笑)。
そういう際には、
その前に読んだ本のことが思い浮かぶ。
ということで、
外山滋比古著「伝達の整理学」(ちくま文庫)を
あらためて思ってみます。
うん。画家が自画像を描いていくように、
1923年生まれの外山滋比古氏は、自画像を繰り返して
描いているみたいです。そんな風に新刊を読んだのでした。
そう思うと、外山氏の指摘する第四人称。第五人称。
というのが、私にもすこし理解できるような気がしてくる。
まあ、それはそうと、一箇所引用。
「従僕に英雄なし
という。世人が評価する人物も、側近のものには、
そのよさが見えないから、尊敬することを知らない。
近すぎるのである。
従僕でなくとも、近くにいる人たちは、
すぐれた人物をすぐれていると認めることが難しい。
欠点ばかり洗い出して、いい気になっている。
誤解されてこの世を去る人は、古来どれくらいあるかわからない。
目の前に山は高くても、山麓にいるものには、見えない。
目につくのは、石ころばかり、ロクに花も見られない。
あちこち見にくい赤土が顔をのぞかせている。
とてもとても尊敬する気にはなれない。
英雄は英雄になることがなくこの世を去る。
そして、三十年もするとかつての人物が中景の存在となり、
あちこちがかすみ、消えて、まろやかになる。
近景の人物が中景の人物に変ずる。
なんということなしに、心ひかれるようになる。
ここから、歴史的変化がはじまる。
不幸にして、それがおこらない場合、
中景になりそこなったものは、遠景になることなく湮滅する。
大悪人のように言われた政治家が、三十年、四十年すると、
案外、偉大だったかもしれないなどと言われ出す。
それに引きかえ、近景で羽ぶりのよかったのが、声もなく消える。
近景だけ見て、わかったように思うのは、小才子の思い上りである。
人間の世界には中景というものがあって、歴史も、そこから生まれる。
・・・」(p49~50)
このあとに、外山滋比古氏の著作をお読みの方はおなじみの
夏目漱石の例の一件が紹介されているのでした。
さてっと
「人間の世界には中景というものがあって、
歴史も、そこから生まれる。」とあったのでした。
外山滋比古氏は、その中景を握りしめ、
自由自在に言葉を組み立ててゆかれる。
今年も健筆でありますように。そして、
我々読者を楽しませてくれますように。
そういう際には、
その前に読んだ本のことが思い浮かぶ。
ということで、
外山滋比古著「伝達の整理学」(ちくま文庫)を
あらためて思ってみます。
うん。画家が自画像を描いていくように、
1923年生まれの外山滋比古氏は、自画像を繰り返して
描いているみたいです。そんな風に新刊を読んだのでした。
そう思うと、外山氏の指摘する第四人称。第五人称。
というのが、私にもすこし理解できるような気がしてくる。
まあ、それはそうと、一箇所引用。
「従僕に英雄なし
という。世人が評価する人物も、側近のものには、
そのよさが見えないから、尊敬することを知らない。
近すぎるのである。
従僕でなくとも、近くにいる人たちは、
すぐれた人物をすぐれていると認めることが難しい。
欠点ばかり洗い出して、いい気になっている。
誤解されてこの世を去る人は、古来どれくらいあるかわからない。
目の前に山は高くても、山麓にいるものには、見えない。
目につくのは、石ころばかり、ロクに花も見られない。
あちこち見にくい赤土が顔をのぞかせている。
とてもとても尊敬する気にはなれない。
英雄は英雄になることがなくこの世を去る。
そして、三十年もするとかつての人物が中景の存在となり、
あちこちがかすみ、消えて、まろやかになる。
近景の人物が中景の人物に変ずる。
なんということなしに、心ひかれるようになる。
ここから、歴史的変化がはじまる。
不幸にして、それがおこらない場合、
中景になりそこなったものは、遠景になることなく湮滅する。
大悪人のように言われた政治家が、三十年、四十年すると、
案外、偉大だったかもしれないなどと言われ出す。
それに引きかえ、近景で羽ぶりのよかったのが、声もなく消える。
近景だけ見て、わかったように思うのは、小才子の思い上りである。
人間の世界には中景というものがあって、歴史も、そこから生まれる。
・・・」(p49~50)
このあとに、外山滋比古氏の著作をお読みの方はおなじみの
夏目漱石の例の一件が紹介されているのでした。
さてっと
「人間の世界には中景というものがあって、
歴史も、そこから生まれる。」とあったのでした。
外山滋比古氏は、その中景を握りしめ、
自由自在に言葉を組み立ててゆかれる。
今年も健筆でありますように。そして、
我々読者を楽しませてくれますように。